i'm sorry,mama.
女道楽とはよく言ったものだな、と吐き捨てたのはリヴァイだったか。
リヴァイが初めて彼女に会ったのは壁外調査の直後で、珍しく本気で蔑んだような顔をしていた。
だが、違う。断じて、これは違う。
「名前」
そう呼べば、振り向きざまに白衣の裾が跳ね上がる。その蒼白な顔が自分を認識するや否や、驚きに染まった。
やはり、名前だ。夕闇には白いシルエットが覚束ない足取りで近付いてくる。
「……エルヴィン、さん」
「ちょうど良かった。仕事中に悪いが、少しいいか?」
端が切れた袖をまくってみせると、名前は夜風にさらされたその傷口をそっと見遣って、小さく頷いた。
どこまでも続くような薄暗い廊下に、所々で病室からあぶれた軽症患者が寝かされている。王立とは名ばかりの薄い壁の向こうで、すすり泣くような声が聞こえる。
その中をただ、小さな白い背中の進むままに、進む。
兵団でもここだけは管轄外と思い知らされるようだ。名前は一番奥の扉を開けると、先に入るよう促した。
そこはどうやら名前の寝室としてあてがわれた物置のようだった。
所狭しと並ぶ棚の中には薬瓶や止血用らしい固定具、包帯などが隙間なく詰め込まれている。
「そちらの状況は、どうだ」
名前は棚の一つに手を伸ばしながら、無言で首を振った。
今日の作戦で出た犠牲者は兵だけでも計り知れない。今もまだ、遺体回収作業は続いているだろう。
それでも、言わずにはいられなかった。
「……そうか。悪かったな」
名前は包帯を巻く手を止め、僅かに眉を下げた。
その淡い瞳の向こう側に自分の姿が揺れている。グラスの底を見ているようだとなぜか思った。
「それにしても、君は本当に私の前では口数が少ないな。普段はもう少し饒舌なんだそうじゃないか」
「……看護師長からですか」
「君の様子をたずねたら、私の知らない君を話してくれたよ。5年前とはかなり変わったようだな」
5年前。シガンシナ区に暮らしていた彼女の5人の家族は、名前の目の前で巨人に捕食されている。
彼女が生き延びることが出来たのは、周りにいた巨人が一体ずつ、彼女の家族に群がっていったからだった。
名前が王立病院の見習いから、調査兵団付きの看護師に昇格したのはその直後のことだ。
『エルヴィン、上に看護師の募集を提言したのはお前だそうだな』
『……顔色を変えて、何かと思えばそのことか。ウォール・マリアを破棄した以上、』
『言われなくても負傷者の増加ぐらい俺だって見越せる。看護師の増員は必要だ』
『分かっているんじゃないか。どうしてわざわざそのことを?』
『それはこっちの質問だ、エルヴィン……なぜ、団長たるお前が、たかが家族を無くした娘1人に破格の待遇を与える? なぜ、私情を挟んだ?』
『私情? 馬鹿を言うな。名前のことなら、お前と同様、私の評価によるものだ。彼女の仕事ぶりに見合った昇進だよ』
『ハッ……分かってねぇようだから言うが、その評価は団長としてのもんじゃない。お前自身による、お前だけのためのもんだ』
公平さ。
誰もが要求するそれに、僅かなひずみすら許されないことは理解している。人命の上に立つということは、そういうことだ。
誰の命でも平等に扱うためには、真に自分を殺さねばならない。
分かっている。
分かっているのだ、が。
「……あたしはただ、あなたが求めるものに応えているだけです」
名前の瞳の奥で、屈折していた像が明確な形をとった。悲しみとも決意とも、愛情とも畏敬ともとれる、そんな表情をしてみせた。
まるで、その中から好きなものを選べと言うように。
−−救われるために選べというのか。
「私に対して必要以上に言葉を発さないことが、か」
「……お嫌ですか」
「嫌だというよりは、驚いたな。どうしてそう思う?」
「……あなたはいつも言葉を求められて、同時に向けられる。だから、言葉はもう、いらないでしょう」
名前は包帯を巻き終えると、棚の方に向かって立ち上がった。
言葉はいらない。表情だけでいい。
名前といる時だけは、自分の好きなように、都合の良いように受け取れる。
−−気休めか、救済か。
すぐ後ろで椅子が転がった。
「少し……このままでいさせてくれないか」
少しばかり腕の傷が痛もうが、部屋で山積みの仕事が待ち構えていようが、どうでも良かった。
ただ全身で名前の体温を感じていたかった。
誰かの肩に重みを預けていたかった。
腕の中に収まった小さな名前は、傷を案ずるように包帯をなぞり、そして静かに頷いた。
title by さよならの惑星
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