世界はそこそこ美しい
足を怪我してから、同じ夢を見る。
そこは決まって、地面が丸くなるまで続く、青灰色の水たまりだ。おかしなことにその水は、絶え間なく白い砂を舐めとり続けている。
壁もない巨人もいない、広大な場所。
「あなた海を知らないの?」
リヴァイにそう声をかけてきたのは、白い砂の上に佇む東洋人だった。
その女はいつも海のそばに存在していた。本当に、存在していたという表現がしっくりくる。
女は、地下街の市場で何度か見た東洋人とも、リヴァイの知るどこぞの新兵とも異なっていた。
戦闘能力や容姿のようなものではなく、今まで見てきた人間とはもっと本質的な何かが違う。
「夢か……これは」
「あなたがそう思うなら、そういうことにしようか。頬をつねるなんて野暮なことはしないよ」
「……しかし俺の想像にしては妙な女だな」
「妙な女、はは、違いない。言い得て妙だね」
その何かとは何か。
「海」を訪れるたびに考えを巡らせてみるものの、リヴァイはいまだ結論を出せないまま、靴底の砂の感触に舌打ちした。
「今日で三回目か」
「あ?」
「あなたがここに来るのは」
初めて会ったのは一週間前の深夜。二回目は五日前の夕方。三回目は今、この朝まだき、と指折り数える女に「よく覚えてるな」と言うと、女はリヴァイに笑顔を向けた。
「そりゃあ、母親と知り合いの命日だもの。よく覚えてる」
「……そうか」
「ふたりが死んだあと、ここでふて寝していたらあなたが寝てて、起きて、喋って、背中を向けるとあなたは消えるの、いつも。まるで死神みたい」
リヴァイは女をまじまじと見つめた。
微笑みの向こうに悲しみを感じ取ることはできる。しかし、それを支えている何かが分からない。
その何かとは何か。
「はっ……面白ぇこと言うじゃねぇか」
「なぜ、否定しないのだろう」
「しねぇよ。理由も、根拠もねぇしな」
女が母親を亡くしたという2週間前、リヴァイが指揮した班は指揮官を残して全滅した。
死神と言われてしまえばそれまでだ。
班員が死ぬ理由も、リヴァイが生き残る理由も、リヴァイが持つ人類最強という大鎌にある。
「それは、根も葉もないってこと? それとも、言い返せないってこと?」
「どうだろうな……お前は、どう思う?」
砂の上で足を伸ばしていた女は、ゆっくりと立ち上がった。雑な動作で服についた砂を払い、そして、紫色の海を見る。
妙な匂いのする風が、女の黒髪を揺らした。
「わたし、初めて会ったときのあなたの顔を忘れられない。砂浜で一センチも動かないで、ただ海だけを見てるの。生まれて初めて見たみたいに。でもね、」
そこにあったのは、悲痛な憧憬だった。
海を目にすることも叶わず、壁の少しだけ外側で無為に死んでいった兵士への悼みだった。
「だから、さっきの質問自体が答えだとわたしは思う」
女はそう言い終わると、リヴァイに向き直った。
少しだけ低い位置から、強い眼差しを感じる。女はリヴァイの言葉を待っていた。
しかし、リヴァイはそれを知りながら踵を返した。
「おい……背を向けたら消えるんじゃなかったのか」
「あなた黙って帰る気?」
「お前こそいつまでも死神とくっちゃべっていたいのか。今日だって、お前の持論を借りれば、誰かが死んだんだろうが?」
少し間があって、女は淡々と答えた。
「猫。母親の猫がさっき、庭で丸まって死んでいた。でも、こうしてふて寝すれば少しは悲しくなくなるんだ」
背中ごしの声は微動だにしない。言葉の端々から「仕方ない」と言っているようで、どうしようもなく苛立ちを覚えた。
「母親のときも知り合いのときもそうしてきた、なんて言うんじゃねぇだろうな」
「もちろん、そうだよ」
「……そりゃ世話ねぇな。ずいぶんと、安い悲しみなこった」
リヴァイは少なからず失望していた。
未知であることで一種のきらめきを持っていた何かは、五年前、壁内で巨人を見たときに、脳裏をよぎったものと同じだった。
二歩目を踏み出しながら、リヴァイは眉をしかめた。まだ海は目の前に横たわっている。
「たしかに、そう言われても仕方ないかもしれない。悲しみに抗って、どうすればいいのか、わたしにはよく分からない」
女は、すべてを受け入れる。
近親を喪ったことも、自分の涙も、死神も巨人の侵入も人類の滅亡も、すべてだ。
リヴァイにとってそれは、拠り所としていたものを根底から覆すものであり、許されないものだった。
ずぶり。靴底が傾いて、白い砂が足裏を滑る感触がする。リヴァイはまさに三歩目を踏み出そうとしていた。
「だけどね、安くなってしまったのは、あなたのせいだ。会えば救われると思わせたのはあなただ。わたしよりずっと悲しそうな顔したあなたと話していると、わたしは、安心した」
最後の方はほとんど叫び声に近かった。
リヴァイは身動きひとつ取れずにいた。誰かの言葉に鳥肌が立つなんて、ずいぶん久しぶりのことだった。
「下には下がいるってか……最低な奴だな」
「知ってるよ。その上で言った。だから、あなたにどう思われても受け入れるしかない」
「ならば言うが……共有していると思っていたのは俺だけか? 」
背後で女が息を飲んだ。これは夢なのか、そんなことはもう問題では無かった。
リヴァイは女の顔を見ようと、後ろを振り向いた。
「あーもうっ、どこ行きやがったあの野郎……面倒くさいなあ」
反転した視界で、リヴァイは天井を見つめていた。
上体を起こしながら、そういえばソファで仮眠を取っていたことを思い出す。
海だった場所に格子窓が、女が立っていた位置にハンジの後ろ姿があった。間違いなく、リヴァイの部屋だった。
「そこは嘘でも怪我人だからと言う場所だろうが……」
「うわああっ!?リヴァイ、いつの間に!?」
「あ? お前とうとう失明したか。ずっとここで寝てたじゃねぇか」
「さすがに私の目もそこまであんたを拒否ってないよ……って、やっぱり窓から入ってきたんだろ。床、砂だらけじゃあないか」
おいおい、どういうこった。
珍しいことに、汚いはずの靴も気にならず、リヴァイは無意識の内に口角すら上げていた。
0903
私の英雄:提出
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