この名前は誰かが勝手につけたもの


 私はいつも、恋と鯉を同じ音で読ませる日本語のセンスを疑っている。いくら昔、鯉が貴重なタンパク源だったとしても、人を欲する恋と一緒にするのはいかがなものか。

「なにをブツブツ言ってんだよ……マリッジブルーとか言うなよ?」
「あー、うん。そんな感じ」
「喧嘩売ってんのかテメェ」
「はい、修ちゃん。どうどうどう」

 彼の頬を両手で包み込むと、手袋をしているのに体温が伝わってきた。
 2秒もしないうちに彼の方から視線を外した。彼にしては小さな声で、「わかったよ」と言って。
 笑みを浮かべずにはいられなかった。私が欲しかったのは、これだった。

「私に恋した?」
「……っずかしいセリフ繰り返すんじゃねぇよ」
「修ちゃんが言ったんでしょ? さっき、私に」
「だから繰り返すなって言ってんだろ」

 オールバックにしているせいで、彼が耳まで真っ赤になっているのが丸見えだ。
 修ちゃんこそよく似合ってるよ、と言うと、やっぱり顔を赤くして素っ気ない相槌が返ってきた。

「そういえば、あのカラフルな後輩は呼んだの?」
「ああ一応……にしてもお前、よく覚えてんな」
「そりゃあアルバム見せてもらったとき、びっくりしたから。みんな地毛なんだっけ?」
「って連中は言ってるけどな。どうだか」
「とりあえず、来たら見物だね」

 私が言うと、彼はわずかに肩をすくめてみせた。言外に込めた意味をちゃんと汲み取ってくれたらしい。以心伝心というのは嬉しいものだけれど、この場合は喜ぶべきなのだろうかと自問した。
 愚問だ。完全に私の失言だった。

「あいつらが俺のファーストネームを呼ぶとは思えねぇからな。馬鹿と確信犯込みで、旧姓で呼んでくるに一票」
「ははっ、なにそれ」
「マジでいるんだよ。『へぇ、虹村先輩が婿入り養子なんですか。へぇ』とかいけしゃあしゃあとぬかすヤツが」

 体育会系らしからぬ後輩を脳裏で思い描いているのか、彼は眉を寄せたが、その言葉のはしばしから当時を懐かしんでいるのが読み取れた。

 私の知らない彼は、バスケ界で中学最強と呼ばれていた、と誰かから聞いたことがある。虹村修造というキラキラネーム(としよう)に恥じない称号だったと彼の口からも聞いた。
 そして、婚姻届を出す間際になって彼は私の苗字が欲しいと言った。

『親父が死んで、お袋が旧姓に戻ってからずっと、そうしようと思ってた』

 私は別に虹村で構わなかったのだが、私の平凡な苗字がいい、と彼は頑として譲らなかった。
 そこまで嫌いだったのかと凄く驚いた記憶がある。まさか苗字にコンプレックスがあるなんて、学生時代の彼は露ほども気取らせなかった。彼が言うように名前負けしているなんて、ちらりとも思ったことはなかった。

「武士でもあるまいし、今どき苗字なんてどっちでもいいのにな」
「うそつけ。修ちゃんだって私の苗字が松岡だったら、ちょっとは悩んだでしょ?」

 彼は空々しくて騒々しい笑い声をあげた。いつものくせだ。笑えば何かをごまかせると思っている。

「マリッジブルーはどっちよ」


 お決まりのオルガンが鳴り出すと、招待客は一斉に私を見た。父親の手をとりながらゆっくりと歩き出す。稲妻のようなフラッシュが焚かれるおかげで父親はガチガチだ。頼むよ。
 遥か前を見据えると、牧師の横に佇む彼と視線がかちあった。

「なあ、名字で呼んでくんねぇか」
 ヴァージンロードの終点で、彼はやっと聞こえるぐらいの声でそう言った。切れ長の瞳が私を捉えて、名前をもたない感情を伝えた。

 父親は静かに去って行った。牧師はお決まりの文句を謳い上げた。
 そして私は、左手の薬指を差し出した。

「虹村にずっと、恋することを誓うよ」

 彼は眩しそうに目を細めた。ステンドグラスからこぼれんばかりの日の光が、彼の輪郭を様々な色でにじませた。

 まるで、虹のように。



 0815二年生:提出


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