水底の視線


青い青いラムネを傾けると、コロン、と涼しげな音がした。

「あっちー……それ、一口くんね?」
「えっ。やだ」
「なに平然と拒否ってんだ。買ってやったのは俺だろうが」
「暑いなら制服から着替えてくればいいのに」

 彼にこの半分でも清涼さがあれば、と今日みたいな炎天下ではつくづく思う。だからと言ってラムネを渡そうとはさらさら思わないのだけれど。
 ゆるゆると歩いてくれている彼の肩に頭をあずけると、彼はため息をつきながら制服のネクタイを緩めた。

 夏祭りだった。

 毎年八月の暑い盛りに、地元で一番大きい神社でこのお祭りは行われている。
 ローカルなお祭りのわりになかなか盛況で、長い参道の両端にずらりと露店が立ち並び、浴衣姿のカップルやら家族連れやら歩くのにも困るほどにぎわう。

 かくいう私も毎年、石畳の参道と下駄の鼻緒とお付き合いしているうちの一人だ。浴衣の袖をまくし上げながら金魚をすくい、ブルーハワイのかき氷をほおばって青い舌を見せびらかす。

 毎年変わらないことだ。唯一変わったことと言えば、高校に上がってからは彼が隣を歩いていることぐらいだろうか。

「あっ。ストップ」
 急に腕を引くと彼は首を傾げたけれど、金魚すくいの文字に気づいた途端「またかよ」と眉を寄せた。

「去年ものすげー量とってなかったか、お前」
「見て見て! 二十匹以上でなんかもらえるって」
「知るか。どうせ一日やそこらで死ぬんだから、やめとけよ全く……」

 そうっと彼の表情をうかがうと、そのまなざしは水色のプールを泳ぐ赤と黒の魚たちに静かに注がれていた。

「だめ?」
「どーせ俺が駄目っつってもやるんだろ。そろそろ花火だから急げよ」
「ありがと! ちょっと待ってて」
「へーへー」

 露店のおじさんに二百円を渡し、赤い枠のポイを受け取ってからは戦いだ。両方の袂をはね上げ水槽にがぶり寄ると、おじさんはごしごしと眼鏡を拭った。

「いやぁ、ねぇちゃん目がマジだねぇ。びっくりしてんじゃないの彼氏くん」
「ははは……去年にもう十分にドン引いたんで」
「ちょっと。集中できないから黙って」
「じゃあ去年は? 何匹とれた?」
「三十匹っスね。たしか」
「えっ?」
 
 おじさんが聞き返すのと同時に、ポイが力尽きたように破れた。あと一歩でボウルの中に入るはずだった赤い金魚は穴からすうっと通り抜けて、もう見分けがつかなくなってしまった。

 惜しい。絶句しているおじさんにボウルを渡し、しゃがんだままもう一度水面下に目をやった。

「本当に気持ちよさそーに泳いでるねぇ」
「それよかどうすんだよ金魚。お前の母さん今年こそキレるだろ」
「いいじゃん、修ちゃんがちょっと持って帰ってくれれば。去年みたいにさ。親父さん金魚好きなんでしょ。修ちゃんのお母さん言ってたじゃん」

「だから、もういねーんだって」

 彼はいつもと同じ調子でそう言って、制服の袖をたくし上げた。腕をあげた拍子に汗と混じってかすかにお香のにおいが漂った。
 私を呼び出す直前にそのワイシャツでそのスラックスで父親の葬儀に参列したのだ、そう改めて思った。

「はい、ねぇちゃん34匹」
「やった! 最高記録更新!!」
「真面目に営業妨害もいいところだよ。ほれ、景品も魚も持ってけドロボー」

 おじさんが押し付けてきたのはお馴染みのビニール袋ではなく、小さなガラスの球だった。
 口の部分だけきゅっとすぼまり、なみなみと注がれた水の中で金魚が泳いでいるさまはなんだか絵本でみた金魚鉢を連想させた。

「これが景品なの?」
「そ。なかなか風流だろ? 昔、まだビニールが普及してなかったころはそういうガラスに釣った金魚入れてたんだと。今はそっちの方が数倍高いんだけどな」
「へぇ〜。たしかに綺麗かも」

 すると、どうぅぅんと大きな爆発音が轟いた。慌てて立ち上がると、さっきまで人でごった返していた参道が心持ち空き始めていた。

「わっ、花火始まっちゃった!」
「ちんたらしてるからだろうが。急ぐぞ」

 走ると中身ぶちまけるぞ、と叫ぶおじさんの声を聞きながら、河川敷とは逆方向の参道の終点を目指して坂を上った。

 河川敷ならばどこからでも花火を見ることができるのだが、人が多くてゆっくり楽しめるどころではない。
 そこで、特に待つことが嫌いな彼が教えてくれたのがここだった。
 お堂の脇の階段を上った先の開けた高台だ。当然人はいないし、ちょうど木がないため花火がばっちり見える。

「つくづく思うけど、よくこんな穴場見つけたよね」
「あー、俺もガキんときに教えてもらってさ。初めて来たときは感動したな」
「……そっか」

 どうぅぅん、ぱらぱらぱら。

 腹に響くような轟音とともに作り物の花が咲き、夜のなかに消えていく。彼も小さいころは親父さんとこんな風景を見られたのだろうか。そう思うと、きゅっと胸が締め付けられた。

 彼の腕を引き寄せると、「なんだよ」と笑った。私が泣きそうになっているのがおこがましいくらいに不自然な笑みだ。
 とっさに金魚鉢に視線を逃がして、水の底を見た。彼を直視できなかった。

「私と夏祭りなんか来ちゃってよかったの?」
「知らねー。って言いたいとこだけど、お袋、今頃かんかんだろうな。骨上げでトンズラこいてきたし」
 
 彼の冗談でも言うような調子がよけいに不自然さを色濃くしていた。
 昨日の通夜で彼は泣かなかった。きっと今日の葬式でも泣いていない。じゃあ彼は一体いつ泣くのだろう。

 ぽちょん、と水音がした。金魚たちの上に小さな波紋が広がった。
 
「……おい、なに泣いてんだよ」
「修ちゃんこそなに泣いてんのよ」
「は? いつ俺が泣いたよ」
「今でしょ。心の中で泣いてるじゃん」
「んなわけねぇだろ。馬鹿言うな」
「うそつき。修ちゃんのうそつき」
「……だいたい、こんなところで泣こうったって無理だろ」
「だれも見てないじゃん」
「お前が見てる」
「泣きたいの?」
「泣きたくねぇよ……っ」

 おそるおそる視線を上げると、彼は一心に夜空を見上げていた。花火が視界に入っているかも定かではない。水底から水面を仰ぐように、ただじっと見上げていた。


「修ちゃん。花火が終わったら、一緒に金魚を返しに行こう」

 彼は何も言わずに頷いた。
 そのとき、重力のままに落ちる涙を花火が照らし出した。




水底の庵:提出


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