梔子の脆き恋人


 何でこんな日に限って冷房が壊れるのか。
 緑間は熱っぽいシャーペンを握りながら、出口の見えない自問自答を幾度となく繰り返していた。

 扇風機はあると言えども夜の生温い外気をかき混ぜるのみで、気休め程度にしか用をなさない。それに、その局所的な送風は教科書のページを思い出したように捲ってしまうのだった。

 おかげで勉強は試験直前だというのに全くはかどることなく、気付けば12時を超えていた。

「くそっ、日付は変わったというのにまだ占いは12位のままか……?」
 やっと数式が解けたと思えば勢い余ってシャーペンの芯が吹っ飛ぶ。
 ポキリ。
 緑間のストレスがピークに達した時だった。

 ふいに、甘ったるい匂いが部屋中にたちこめた。
 むせるようなこの香りーーおそらく梔子だ。たしか、にごりのある黄色の花。母に教えてもらったような記憶がおぼろげながら、あった。

 だが、庭に梔子の木など植えていただろうか?
 そう自問しつつ、何の気なしに窓を見遣った瞬間、緑間は声を失った。
「だ、誰だっ!?」

 寝間着姿の少女はぱちぱちと目を瞬かせながら、緑間とその部屋を隅々まで見渡した。年はせいぜい小学校低学年ほどだろうか。おぼつかない足取りで、固まっている緑間に近寄ると、そっと手を伸ばした。

「あれ? おにいちゃん、夢じゃないの?」
「貴様、何を言っているのだよ」
 緑間はすぐさま少女の手を振り払いながらも、その実脳内は混乱の極みにあった。

 ー一少女はどこからやってきたのか。
 緑間の家は一軒家であるため、敷地内に入るには庭を通らなければならないが、小さな子どもが普通に通行出来るほど警備は甘くないはずだった。

 それに、もう一つ疑問が残る。緑間のこの自室は2階にあるため、窓から入るにはどこかしら高い所によじ登って飛び込むか、アメリカ映画のように壁を伝ってくるかのどちらかしかない。

 まさか、と思った。窓に面したところに都合良く大きな木がある訳でもなければ、少女の姿に壁を登ってきたような痕跡も見受けられない。
 少女はまるで、ベッドからそのまま抜け出したような、そんな姿だった。

「そうか。俺の夢か、これは」
 緑間がひとりごちると、少女はむっとしたように唇を突き出した。

「真似しないでよ。あたしの夢だよ」
「違う。お前こそ俺の想像の産物に過ぎないのだから、お前の言葉は全て俺の深層心理から生まれたものだ。真似じゃない」
「もー、むつかしいことばっか言わないでよばーか」
「俺の言葉が難解と言うのならお前の方が馬鹿なんだろう。はき違えるな」
「だってママが、相手が聞いて分からないような言葉ばっか使う人のほうがお馬鹿さん、って言ってたもん」

 深層心理、という言葉が信憑性を失って返ってくるようだった。
 今だかつて緑間は、秀才と持て囃されることはあれど、少女が言ったような言い回しで批判されたことはあっただろうか。
 ある訳がない。

「どうでもいいから、夢ならさっさと覚めたいのだよ」
「どうして?」
 少女はふわあ、と大あくびをしながらベッドの上に腰かけた。

「勉強しなければならないからだ。今から9時間ほど先に試験がある」
「おにいちゃん、テストで勉強するの?」
「小学生と高校生では違うからな」
「ふぅん」と興味なさそうに相槌を打つ少女は何かを一心に見つめていた。その先には、大きなうさぎのぬいぐるみ。いつかのラッキーアイテムだ。

「なんでダンシコーコーセーなのに、女の子みたいなものもってるの?」
「俺の趣味ではない。ラッキーアイテムだから買わなければならなかったのだよ」
「おは朝の?」
「そうだ。ーーお前も見るのか?」
 突如話に身を乗り出してきた緑間に、少女は大きな目を見開いた。

「早起きできたら、たまに。そんなに好き?」
「毎日欠かさずチェックしているのだよ。ラッキーアイテムも必ず持って行く」
「なんで?」

 ーーなぜ?
 緑間は思いがけずその質問には詰まってしまった。
「人事を尽くして天命を待つ」
 いつもならそう言って終わりだが、難解な言葉は使うなと言われたばかりだ、慣用句などはもっての他に違いない。
 だが、いざ噛み砕いた言葉を使おうとすると、何も浮かんでこなかった。

「理由なんて必要ない。俺は、その日の運勢に従わなければならないのだよ」
 緑間がどうにかそう言うと、少女は黙って巨大なうさぎを手にとった。そして、それを膝と膝の間に抱えながら、

「変なの。しなきゃ『ならない』ことばっか」
「ーーどういう意味だ」
「お兄ちゃん、勉強もしなきゃダメだし、毎日占い通りにしなきゃダメなんでしょ。すっごいヘン。楽しくない」
「じゃあ、そう言うお前にとって楽しいこととは何なんだ」

「お外に出て遊ぶこととか、友達とお話することとか、オモイドオリになること、ぜんぶ」

 即座に言い切った少女に緑間ははっとさせられた。
 思い通りなんて単語は普通、子どもが使う言葉ではない。親からそんな言葉を聞くほど、少女はオモイドオリにならない生活を送ってきたのだ、と。

「あたしが起きたら『いつも』が待ってるなら、夢でも何でもいいからここにいたい」
 少女はうさぎの耳の間に顔を埋めた。

 むせ返るような梔子の香りを吸い込みながら、緑間は椅子から立ち上がった。
「それ、お前にやるのだよ」
「ーーあたしのこと、かわいそうな子って?」
「違う。理由があって、俺を真っ向から否定した奴はお前が初めてだからだ。年下だろうが何だろうが、尊敬に値する」
 少女はくすりと笑った。

「どんだけ自分のこと好きなわけ? やっぱり、変なの」
「黙れ。いらないなら返すのだよ」
 のびてきた緑間の手を、少女はそっと振り払った。

「ありがとう。もらっていくね」



 がばっ、と飛び起きた緑間が目にしたのは、いつも通りの奇妙にぼやけた世界だった。

 枕元の眼鏡を取って、かける。
「夢、か」
 口に出してしまってから、その安っぽい響きに少しだけ後悔した。少女の声はまるでさっき聞いたかのように鮮明に耳の底に滞留していた。
 だが、机の上は勉強した形のままで残され、扇風機は変わらず回り続けている。試験勉強中に寝落ちした、それが全てだった。

 ため息をつきながら教科書を閉じーー緑間はとある一角に目を遣った。
 思わず「あっ」と声を漏らす。
 巨大なうさぎのぬいぐるみは、忽然と消えていた。


「お兄ちゃん、試験なのにご機嫌デスネ。おは朝一位だったん?」
 妹は朝食を食べる手を止め、不思議そうに言った。

「馬鹿め。おは朝は今からなのだよ」
「もー朝からうっさいなぁ。自分が頭良いからってさー」
 緑間は「テレビを点けてくれ」とだけ言って箸を口に運んだ。
 ーーまるで月とすっぽんだな。

 妹がしぶしぶとリモコンを取ると、ちょうど占いコーナーが始まったところだった。
 妙に甲高い女子アナの声のジングルが流れ、今日の1位を告げる。

「お、かに座じゃん。なに、ラッキーアイテムはーーうさぎのぬいぐるみ? 良かったじゃん、たしか部屋にあったよね?」
 緑間はそれには答えず、箸を置いた。

 たまにはラッキーアイテムがないのも悪くない、と思った。


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