耳朶を食むよりキスをくれ
美容室の扉を閉めた、まさにその瞬間に着信があったものだから、わたしは肝をつぶしてしまった。
ここは2人も通れない狭い空間だというのに、思わず彼の姿を探してしまうほどには。
「もしもし?」
地上への階段を上りながら電話をとると、間髪置かず「どこにいるんだ」と低い声。
「行きつけの美容室。地下にあるから電波つながりにくかったかも」
「地下? 美容室が何だってそんなところに」
「とにかく、今終わったところだから。ごめんって」
気難しい彼をどう宥めてやろうかと思案しながら、肝心の用件を聞くと、とってつけたような間があいた。
「これといって用はないが」
「なぁんだ。一瞬、今夜の新幹線が欠便にでもなっちゃったかと思った」
「下手な皮肉だな。今日はこんなに晴れているのに」
電話口で苦笑する彼の顔が見えるようだ。彼にも、わたしの表情は見えているのだろうか?
「征十郎君は、今どこ? 暇なら花見でもしようよ。駅前の桜並木、すっごく綺麗だよ」
桜が満開で、地上が眩しい。ハレーションを放置していたら、視界の端が紫色に侵食されてきた。
危ない危ない。ちょうど赤になった交差点で立ち止まると、園児をいっぱい乗せた幼稚園バスがわたしの足元すれすれを曲がっていった。
「いいね。わりと近くにいるみたいだし、合流しようか。どこがいい?」
「駅前広場のど真ん中にある、大きい桜の木って分かる?」
「それはそれは。せっかく何か奢ってやろうと思ったのに」
「うん、そういう意味なんだろうなーとは思ってた」
「じゃあ、何で」
彼とは電話ごしで話すぐらいがちょうどいい。それは付き合う前から思っていた。
けれど、最近気付いたことがある。それは、毎日顔を合わせている、という前提のもとに成立しているってこと。
それは、彼が京都の高校に進学すると知ったときに、やっと気付いたことだ。
「スタバとかミスドなら京都にもあるでしょ?」
「染井吉野だって京都にもあるさ」
「いいから、来てよ。もう着いちゃったから」
「ふ。お前は全く、変なところでわがままだな」
「こんな日に、用も無いのに電話を掛けてくるきみには言われたくないな」
黒々としたその太い幹に寄りかかる。薄紅色の空を見上げていると、生ぬるい風が数枚の花びらと美容室のシャンプーの香りを運んできた。
「無性に、お前の声が聞きたくなったんだよ」
掠れる音。彼の吐息が耳朶にかかったようで、どうにもこそばゆい。最近の携帯は高性能すぎて敵わないな、と自嘲した。
「それくらい、今夜の東京駅のホームで嫌になるほど聞けるよ。きっとね」
「今日はさっきから、ずいぶんと言ってくれるね。電話ごしだからかい?」
その声は、携帯を当ててない方の耳から聞こえた。
花吹雪だ。ちょうど彼の後ろから風が吹きこんで枝を揺らす。これでもかと舞い散る花びらに、誰かが小さく歓声を上げた。
「ほら、もう何も言えなくなった」
光の中で滲むような赤色が微笑みをたたえて、佇む。
そんな一幅の屏風絵のような光景を目の当たりにして、わたしに何を言えというのか。
「髪、ずいぶん思い切ったんだな」
「たまにはベタに行こうかな、と思って」
「しつれん?」
一瞬、花びらで視界が真っ白になった。けれどやっぱりそれは一瞬で、だんだんと彼の輪郭は研ぎ澄まされていく。
「どうして、」
わたしの顔を見て僅かに驚いたような彼の言葉を遮る。生理的な涙に理由なんて、あるわけがないのだから。
「どうしてってきみが聞く?」
「そう、この僕が聞いているんだ」
彼の腕の中にすっぽりと埋まってしまったわたしには、彼の愛情に満たされているのか、良心に染まっているのか、知ることは許されない。
「僕の、義務だよ。僕は行かなければならないから」
赤司はそう言ってわたしを離そうとするから、ぎゅっとしがみついた。
その背中に縋り付いて覆い隠すのは、気管から溢れ出しそうになる「わたしをおいていかないで」
どうやって、かって?
「息が、出来ない。できないんだよ……征十郎君」
今が盛りとばかりに散る花びらの中に、わたしの呼吸器官ごとうずめてあげた。
0411愛人:提出
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