大好きなきみが笑ってた、あの光景が眩しかった。


 くしゅん。
 これはチョークの粉と花粉のダブルパンチだろうか。はた迷惑なことである。

「最終日に日直とか、最高にツイてねーのな、お前」

 扉が開いたおかげで、窓から入ったはいいものの、行き場を失っていた春風の通り道ができてしまった。

「うん、サイアク。手伝う気ないんだったら、とりあえずそこ閉めて」
「扉?」
「花粉症なの。早く」
 ガラガラッ、と乱暴な音がして、何事も無かったように風が止む。「お前、花粉症だったっけ?」と気怠げなきみ、去年はこんな喋り方だったっけ。

「1、2年のときは大丈夫だったんだけどね。今年になって、許容量をオーバーしちゃったみたい」
「何だ、それ」
「青峰、知らないの? 花粉症って一定以上花粉が蓄積されると、発症するんだってよ」
「へー」

 雑巾をバケツの中にざぶんと浸してから軽く絞って、開く。少し思い直して、一歩下がって黒板を眺めた。

「明日だな、卒業式」
「……そうだね」

 卒業おめでとう。また会おう。
 色とりどりのチョークで縁取られ、落書きされたその文字達は、例えるならそう、中学時代の遺跡のようだった。

「つかさ、日直って普通、二人でやるもんじゃねーの? もう一人は?」
「日誌書いて帰ったよ。じゃんけんに勝ったから」
「ふはっ。で、負けたお前は一人寂しく黒板拭きか。中学最後に」
「別に、これはこれでいいよ。濡れ雑巾で皆の思いを綺麗さっぱり消しちゃうってのは、なかなか」

 お前最低だな、と笑うだけで、青峰はやっぱり手伝おうともしない。仕方なく、びたん、と雑巾をはりつけると、黒板に一筋涙が伝った。ちゃんと水気を絞らなかったからだ。びたん、びたん。化粧が涙でボロボロになっていくようで、何だか爽快。

「おい、S根性に火ぃつけてねぇでさっさと終わらせろよ。俺、けっこう待ってんだけど」
「はいはい。何なら先帰っててもいいよ。頼んでないし」

 あ。
 はっとしたときには、静まり返ってしまった。

 青峰が部活に出なくなってから、こういう瞬間が増えたと思う。彼以上に自分を認められている人間はほとんどいないのに、ちょっとしたことで傷付きやすくなってしまったような、そんな気がする。彼が抱える矛盾は、彼には少し重すぎるのだ。

 ごめん冗談、って振り向いて言うと、青峰は拗ねたように「知ってるよ」とそっぽを向いた。

 ふと、懐かしいにおいが鼻をかすめた気がして辺りを見回せば、教壇に見覚えのある袋が無造作に投げ出されていた。
 思わず時計を見上げる。3時17分。部活が始まるちょっと前の時間だ。
 ああ、いつかの午後から時計が止まってしまった。

「それ、ボール?」
「おー。ずいぶん無いと思ってたら、部室に置きっぱだったらしくてよ。持って帰れって言われた」
「そっか。道理で」

 出来るだけ自然に黒板に向き直ったつもりだったけれど、ぷすぷすと青峰の視線が突き刺さった。

「これがどうかしたのかよ?」
「ううん。青峰がそれを持ってるの見るの、懐かしくって」
「ああ……そういや、毎日持って帰ってた時期もあったな」
「最後の日に見れるなんて、なんか不思議」

 軽々と踏み込めるボーダーラインはこの辺り。これ以上はお互いをいたずらに傷つけるだけだと、お互いに知っている。

「まだ、最後じゃねぇだろ」
「そうかな?」

 指先でボールを回しながら笑っていた記憶は、わたしも青峰もまだ風化していない。むしろ、息をつまらせるくらい鮮明だ。たまに見るあの頃の夢はいつも光に満ちていて、眩しい。あれから一体、どこまで遠くに来てしまったのかは分からないけれど。

 何事もなかったように黒板磨きを再開すると、何事も無かったようにまた催促の声が飛んできた。


 それから5分ほどで黒板はまっさらな緑に生まれ変わった。上出来だ。片付けも終わらせると、ガタン、と何かが動く音がした。

「だからわたし、花粉症なんだって」

 青峰は扉にその長身をもたせかけながら、薄い唇をゆがませた。ポケットに手を突っ込んで、ごうごうと吹く風に言葉をのっけるように、のっけるように……。

「どうせ外に出たら一緒じゃねーか。早く行こうぜ」
「そうだけど、ちょっとぐらい猶予くれたっていいじゃん。待ってよ」
「なにが?」
 不意に、真顔。青峰は妙に勘がいいから、わたしの言葉の裏を読み取ってくれたのだろう。嬉しいけれど、わたしはあえて目をつむる。

「なんのこと?」
「先に言ったのはお前だろ」

 青峰は不機嫌そうに眉を寄せる。この癖も、彼が部活に出ないようになってから加わったオプションの一つだ。
 時に他人を竦ませる青峰のその眼光は、無性にわたしを寂しくさせる。


「青峰」
「今度は何だよ」
「ライト、消し忘れてる」
「……は?」

 また野生の勘とやらが働いたのだろうか。何か言いたげな青峰を思いっきり突き飛ばして、わたしはついに教室の扉を閉めた。



 0401黄昏:提出


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