夜が逃げて行く前に


 右足を思いっきり振り上げたら、すこんっ。っていい音がして飛んでいくと思ったのに、わたしのパンプスは彼の手の中に。片足だけ砂の中にうずめるわたしがいかに滑稽だか示すように、黄瀬君はその端正な顔を歪めた。
 
「なにするんスか、いきなり」
「失礼。うっかり足が滑っちゃった」
「明らかにうっかりってレベルじゃなかったけどね」
 左足は飛ばさないで素直にはき捨てたのに、彼はまた怪訝そうな顔をする。
 
「今日、何で帰る気なんすかアンタ……」
「決まってるじゃない、小田急よ」
「……門限は? 俺はともかく名前の親は心配するっすよ」
 
「さーあ。しらない」
 波打ち際めがけて駆け出せば、ロハスな冷たさが素足をくすぐる。夜。それも、作り物のような彼の前っていうシチュエーションがまた、いい。
 黄瀬君はため息をひとついて、持っていたパンプスをわたしが脱ぎ捨てたのとあわせて並べた。砂に触れるのが嫌なのか、神経質な手付きだ。
 
「それより、江ノ島くんだりまで迎えに来てくれた彼女を労わってくれてもいいんじゃなーい?」
 足が濡れないぎりぎりのところで止まって、海に背を向ける。
 
「だからわざわざ海岸に寄ってるんじゃないスか。疲れてるのに」
「つれないねぇ、きみは」
「それはお互いさまっしょ」
 
 そう言いながら黄瀬君は遊泳禁止と書かれた錆びたコンクリートの上に飛び乗った。
 わたしが黙って見上げていると、ちょっと眉を下げた黄瀬君が振り向いた。
 乗る?とさしのばされた手が、女の肌みたいに仄白いから、わたしは首を横に振る。
「コンクリの上、痛いもの」
 
「なら、お姫様だっこしてあげようか?」
 へらへらと薄っぺらい笑みを浮かべる彼は、わたしの言葉の裏を汲んではくれなかったのか。
「黄瀬君。そこ、背水の陣だって気付いてる?」
 
「……さっきから俺に恨みでもあるんスか」
 ないよ、と笑うわたしを、潮風が煽る。
 
「3m近い視点は、いかが?」
 
 彼は、ダイアモンドとよく似ている。透き通った外側に指を這わせることは出来ても、肝心の内側の光には触れることすら出来ないのだ。
 
 そんなところをぶっ壊して、触れたいと思う。ひとより不可侵領域の広い彼の内面に踏み込める「名前」になりたいと思う。彼の嫌う「他人」じゃなくて、わたしをわたしだと認めてほしいと思う。
 きっとわたし以外の女の子たちだって、そう願ってきたはずだ。
 
 けれど黄瀬君はそれをソクバクのひとことで片付けるから。
 
 
「ねぇ黄瀬君。すごい簡単な2択だから、今選んでね」
 黄瀬君は、え、と掠れた声を出した。
 何か言おうとしているけれど、聞こえない。聞き取る気も、もはやない。
 
「そこから降りて一緒に帰るか、そこから降りないでここでお別れか。きみが、今、選んで」
 
 分かるでしょう?
 よせてはかえす波の音は絶えずわたしと彼の間に横たわり続ける。
 
 それこそが答えなのだ。
 
 
 
 
 0331僕の知らない世界で:提出


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