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ゆずりは、と叫んでしまった理由は自分でもよく分からない。ただ、振り向いた渡の顔があまりにも悲しそうだった。
「青……っ、何でここに……」
天井から吊り下げられた時計は、11時45分すぎを指している。出国審査をするという4階を走り回ったが、渡はどこの待合にもいなくて、てっきり行ってしまったかと思った。
5階の展望ラウンジに来たのは駄目もとだったものの、間に合って、良かった。
「マフラー。お前また忘れてっただろ」
真っ赤なそれを差し出すと、渡は恐る恐る受け取った。
「お前の兄貴からアメリカ行きのこと聞いて、詳しいことはお前に聞け、って」
「かお兄が……そっか。ここ、結構遠いのに」
渡は椅子から立ち上がると、真正面から俺と対峙した。真っ黒いストッキングにタイトなスカート、白いタートルにコートを着ているせいか、制服の時より華奢に見える。
「青、びしょびしょじゃん。雪降ってるのに傘も持たないで来たの?」
「忘れた」
いつも通りの渡。だが俺は、それが装っていることを知っている。ほら、ちょっと黙ったら髪をいじり出した。
「……何で黙ってアメリカ行っちまおうとしたんだよ」
渡は口を真一文字に結んだまま、何も答えない。蘇るのは、1週間前の「じゃあね、青」という最後の一言。
「何か言ったらどうなんだよっ!」
「……面倒だったの、色んなことが。別に、青には関係ないでしょ」
冷たく突き放した言葉とは裏腹に、渡の唇はうっすら赤くにじんだ。
「面倒で片付けるのか、俺のことは」
一歩、間合いをつめる。
渡の本音が聞きたい。上っ面な言葉でごまかされたくない。
アメリカに行くことを決めてまで婚約を取りやめた理由を渡の口から言ってほしい。
「見送り、わざわざありがと。でもそろそろ行かないと乗り遅れるから」
俯き加減でキャリーバッグを動かそうとしたその手を、力任せに掴む。渡はびくっと肩を強張らせ、揺れる眼差しで俺を見上げた。ここまで頼りなさげで、不安定な渡の姿を今まで見たことが無かった。
そう思った時には、渡の身体を引き寄せていた。
「っ、青!?」
「好きだ。……なぁ、ゆずりは、好きなんだよ。お前のこと、ずっと」
俺の腕の中で渡はぴくっと身じろいだ。
なるようになれ、と思った。今伝えないと、きっと後悔する。
「俺のことも、考えてくれ。自分の中だけで完結しないでくれよ……頼むから」
回した腕に力を込めると、渡はやっと聞き取れるぐらいの大きさで、言葉を発した。
「知ってたよ。それくらい」
「……あ?」
渡は深く息を吸い込んだ。
「だってさ、バレバレだもん。いちいち顔赤くしたり青くしたり、気付かない訳ないでしょ。どんだけわたしのこと鈍感だと思ってるの? 少女漫画? ふざけないでよ、せっかくひとが、」
口を挟む間もなく並べ立てられた言葉に、あっけにとられて何も言えない。
「……せっかく気付かない振りしてたのに、今になってそんなこと言わないでよ」
ジャンパーをぎゅっと握って、額が押し当てられた。
「……泣いてる、のか?」
「知らない」
くぐもって、ひどくかすれた声に、俺はどうすることも出来なかった。
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