センセイへ。

完成した心臓の右隅にサイン代わりに書き込んで、キャンパスから3歩下がる。

目黒リサという物質がすべて平面になったというのに、不思議と何も感じない。


まあ、からっぽなんだから、当然か。

視線をゆっくりと手元に落とし、茶色い小瓶を傾ければ、錠剤がガラスに当たる清冽な音がした。


ざらざらざら。
ざらざらざら。
ざらざら、ざら。

ごくん。


「……目黒ッッ!? お前っ、何を!」
扉の向こうから切り裂くような叫び声。
貧血ぎみでゴシック調な視界に、夕日が差し込む。今吉の眼鏡に乱反射して。

「なににみえる?」

力任せに奪い取られた睡眠薬が空中で1回転して、その中身をぶちまけた。
くすんだ床色に無数の白い粒。

ああ、星空を散りばめたようだ。

「……っ、ふざけんな」
まるでキスをするように顔を引き寄せられて、口腔を無理やりこじ開けられた。
せめてもの抵抗に突っ込まれた指を思いっきり噛んだけれど、それすらもままならず、指先は難なく粘膜に到達する。

否応無くせり上がってくる嗚咽。
1回、2回、3回。

今吉は指を引き抜くと、私を引きずるように水道の前に立たせた。


絵の具だらけのシンクに、透明な胃液ととけかけの星粒がみっつ、こぼれ落ちる。

もっとたくさん飲んだつもり、だったのになぁ。


「お前、いつから飯食ってへんの」
床にへたり込んだ私に合わせるように、今吉も膝をつく。タイルの冷たさは、朦朧とした理性を醒ましてはくれなかった。ちっとも。

「忘れたよそんなこと。……ねぇ、何で邪魔するの?」
「愛し」
「痛い冗談はやめて、今吉」

「ほー、案外理性的やないか。もっとヤバいかと思った」
歯型に血がにじむ人差し指がタイルの上で折り曲げられている。
思わず手をのばしていた。標的を見つけた暗殺者のように、自然に引き金に指をかけていた。

「ピストル、みたいだ」

それで撃ち抜いてほしかったのに無機質な金属音は聞こえなくて、あったかい指先が絡まる。
私はそこで何かが壊れてしまった。



「……しにたく、なんてないっ……しにたくっ、ない……!」

手を踏み台にして今吉にすがりつけば、慟哭が止まらない。

「ほれ、言わんこっちゃない」

好きで、好きなのに、センセイは私が凡人になっていくにつれて関心を失っていって。
見えてしまった結末を迎えるくらいなら、いっそ死んでしまいたかった。

自画像だけ遺して、センセイに後悔させてやりたかった。

それなのに。

「……私、センセイの家にも行ったこと、ないの」
今吉は何も言わずに私の頭を撫で続ける。

「センセイには奥さんも子供も、いて…。好きになったら駄目になるって、最初から分かってたのに、なのに……っ」

「お前さんはなんも悪くあらへん。生徒に手ェ出す先公が悪い」
「……センセイが、悪い?」


「目黒が死ぬことなんて、ない」

穏やかなテノールがだんだんと遠ざかっていく。
今吉の腕の中で、私はそっと意識を手放した。



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