病室
マキは征十郎との電話から、1時間ほどで病院に着いた。
一見すると、周囲にひしめくオフィスと見分けがつかないほど、それっぽい陰気さも閉塞感もない建物だ。
正面に看板がなければ、病院だと分からなかっただろう。
言われた通り、そこから生け垣にそって進んでいくと、小さな扉の前に佇む、征十郎が見えた。
「お迎えありがとう。早かったでしょー」
「ああ。どこにも迷わず来れたみたいだな」
「そうなの、快挙じゃない? あんなに地下鉄の乗り換え分かりづらいのに!」
「偉い偉い」
征十郎について人気のない待合を抜けると、妙に重厚なつくりのエレベーターがあった。
古ぼけた看板によれば『11階まで止まりません』とのこと。
11階の患者のための通用口なのだろうか。
ボタンを押すと、エレベーターはすぐに開いた。
「急に呼び出して悪かったな。あの人は、俺に輪をかけて人の都合を考えないから」
征十郎にしては珍しく、自嘲気味にそう言った。
疲れているのだろう。隈はひどいものだし、もともと白い顔が青白くなっている。
「いいよ。慣れてるし、大事な話の最中なんでしょ?」
「でも、なんとかっていうコンサートを見に来たんだろう。この時間では間に合わない」
「大丈夫。なんかめんどくさくなってきたし」
「……俺は、マキに言ってないことがあるんだ」
「後でゆっくり聞くよ」
マキは、征十郎のかたく握られた拳に、自分の手を伸ばした。
薬指と小指だけほどいて、そっと握る。
征十郎の冷えた手を、少しでも温められたら。
征十郎は眉をはね上げたが、ふうと息を吐いて、目を閉じた。
その一連の動作は、征十郎の後ろに見える、少年のそれと全く同じだった。
「笑うなよ」
「お疲れだな、と思って」
「……情けないな」
「たまにはいいんじゃない?」
マキは、エレベーターが再び開くまで、そうしていた。
征十郎パパは、とても病院には見えない、ラグジュアリーな空間に住んでいた。
眺めは良く、廊下にはお茶やらおしぼりやら置いてあり、一応病人らしいが、井戸端会議中の上品なおばあさまたちしかいない。
高級ホテル顔負けの設備は、当然ながら、ここ、最上階の11階だけらしい。
「1泊4万だ」と征十郎がさりげなく教えてくれたが、庶民派マキにはこれを現実とは認められない。
おばあちゃんが入院したときとは雲泥の差である。
呆気にとられるマキを置いて、征十郎は一番奥のドアをノックした。
「征十郎です。失礼します」
そこは、もちろん個室で、都内を一望できる広い部屋だった。
山の端にかかった夕日が、街を渡り、ビルに反射し、白い部屋を橙に染め上げている。
征十郎パパはその中で静かに座っていたが、おもむろに顔を上げた。
「あなたが和泉マキさんだね」と渋い声で言った。
顔立ちは征十郎とは似ていないが、一目見てわかるほど整っている。
年はよく分からない。40と言われても、60と言われても、違和感はないかもしれない。
そして、短い黒髪。
「はじめまして、あの、これお口に合わないかもしれないのですが」
デパ地下で急遽買った、八つ橋を差し出すと、征十郎が「あっ」という顔をした。
京都といえば八つ橋、という考えなしの方程式で選んだお土産だったが、まずかったか。
しかし、征十郎パパは心なしか嬉しそうに受け取った。
「ありがとう。急だったのに悪かったね。
わたしは甘い物に目がなくてね。
先日も、征十郎が持ってきてくれたんだが、もう少し食べたいと思ってたから、ちょうど良かった」
なるほど、どうやらお土産がかぶっていたらしい。
頬が熱くなるのを感じながら、ちらりと見た征十郎は、「もういい」と言わんばかりのため息をついた。
「父さん。俺も持ってきておいて何なのですが、甘味だけではなく、少しは病人食を召し上がらないと。お身体に悪いです」
「あーうるさいうるさい。病院の食事なんて食べられたものじゃない。どうにかしてうちの料理人を持ち込めないものかな」
「それでは何のための入院だか分かりません。家で安静にしているのと同じでしょう」
マキはそこに世にも奇妙な光景を目撃した。
猫またの着ぐるみを脱いだ少年が、かの有名な絵画に飛びかかっているのである。
モナリザ。
征十郎パパのうしろに見えるのは、モナリザだった。
初めてマキがその絵画を、教科書かテレビで見たとき、ある種の気味悪さを感じたことをよく覚えている。
男なのか女なのか分からない顔。
絶えぬ薄笑い。
不自然な背景。
そして、目。鏡の中の自分を覗き込んでいるような錯覚に陥る、あの両眼だ。
息子も息子なら、父親も父親である。
マキは改めて気を引き締めて、目の前の男と対峙した。
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