momentum+






16.夢の報せ、手紙の報せ


 公園の入口に背の高い影が見えて思わず飛び上がる。徐々にくっきりとしてくるその人影が紛れもなく彼だと分かると私は大きく手を振って其処に駆け寄った。

「寿くん!」
「おう」

 ギュッと腕に抱き着けば彼の汗の匂いがほんのり薫る。それだけでこんな暑い中来てくれたんだと一々嬉しく思ってしまう私はちょっと異常かもしれない。
 幸せを噛みしめながらすり、と頬を擦り寄せる私を見下ろす寿くんが「ん、」と反対の手を差し出した。

「なに?」
「手」
「て?」
 
 言葉数が少なくて意図が読めず、首を傾げながら差し出された手の平にちょこんと自分の手を重ねた。そうすれば無愛想だった彼の顔がむずむずと歪み始める。

「ぶっは……!」

 刹那、もう我慢出来ないと言わんばかりに吹き出した寿くんはゲラゲラと笑い出した。
 ただ手をのせただけ、たったそれだけのことが何がそんなに可笑しいのか。きょとんとしながら彼の顔を見上げるも、そんな笑い顔の寿くんにも見惚れてしまう自分に呆れてしまう。

「何、急に」
「いや、前から犬みてーだと思ってたんだけどよ、お前のこと」
「……まさか、コレ」
「お手」

 重ねていた手が途端に恥ずかしいものに見えてくる。人のこと犬だなんて。ワンちゃんは好きだけど……好きだけど、そうじゃなくて!

「もうっ! 信じられない!」

 寿くんの手をパンと叩いて押しやれど、彼は構わず私を引き寄せる。一気に睫毛が触れ合うほどの距離に彼の顔が近付いて、触れそうで触れない唇がクックと笑った。

「そんな嬉しいか」
「……何が」
「俺が来て」
「嬉しいよ。毎日でも会いたいもん」
「ふーん」

 怒ってたと言うか、ちょっと面白くないなんて拗ねて尖っていた唇が緩んできたのが自分でも分かる。いとも簡単に寿くんの手で浮上してしまうんだから本当に単純だ。
 間近にある綺麗な瞳に見惚れて、もうすぐ触れるであろう唇にもうすっかり期待しているんだもの。

「じゃあちゃんといい子で待ってろよ」
「またそうやって犬扱いして」
「してねーよ」

 ポン、と柔らかく頭を撫でた手が首の後に回れば待ち構えていた熱が唇に触れた。身体中が一気に幸福感で満たされて。深く密着していく唇同士よりももっともっとずっと奥まで繋がりたい。
 
 どうしようもなく好きだった。ずっと傍にいられると思ってた。絶対に離れない、そう思っていた。
 何の変哲もない日常。始まったばかりの私達のページは途切れることなく続いていく。……筈だったんだ。

「じゃあな。明後日は午後からだな」
「うん。試合終わったら行くね」

 赤く染まった空の下でしたサヨナラのキス。いつものお別れの挨拶。約束した明後日だって、するだろう。それが当たり前だと思っていたの。

 それが最後のキスになるとも知らずに。




「……っ!」

 真っ赤な夕焼け空を見ていた。

 けれど目覚めてみれば、まだ薄明かりすら入ってこない真夜中の静寂の中に私は居た。
 握った手の平どころか全身汗でびっしょり濡れていて心臓はバクバクと大きく波打っている。

「何で……」

 何度も夢に見て魘された、離れ離れになってしまった二年前の夏の記憶。だけど寿くんと復縁して以降見ることは無かった。もう、二度と見ることはないと思っていたのに。

 ねえ。もう、離れて行かないよね……?





>February.

 薄れることのない寒さは未だ雪模様を見せていた。時折空から舞うそれを見ると、押された背中がぞわりと疼く。不気味なほど何も起きない日々が続いていても、こびりついてしまった恐怖はそうして何度も私を脅かしていた。

「顔色悪いっすよ、名前さん」

 私の顔を覗き込んだ花道がもう何度目かも分からない台詞を告げる。それに「大丈夫」と答えれば彼は納得いかなそうに口をへの字に曲げた。

「熱はないよ」
「いや、そうは言ってもホントに顔色が……」

 どうしても納得がいかないらしい花道は、自分のおでこと私のおでこに手を当てて体温を確認したりと忙しなく私の周りを行き来する。

「お、おんぶしましょうか?」
「大丈夫だってば」
「そんなこと言って名前さんはすぐムリするから! あ、俺良かったらお粥とか作りますよ!」
「別に体調崩してるわけじゃないよ」
「そんな青い顔して何言ってんすか! この桜木花道に何でも言って下さい!」
「ありがとう。心配かけてごめんね、花道」

 素直にお礼を言うと安心したように彼は笑顔を見せてくれた。けれど結局はこのやり取りは何度となく繰り返され、私のマンションに着くまでエンドレスで続いた。


「ホントにいいんすか、上まで送ってかなくて」
「そこまでしてもらわなくても平気だよ。遠いのに送ってくれてありがとう」
「早く寝てくださいよ!」
「うん」

 絶対っすよ! と念を押す花道の背中を見送ってマンションのエントランスホールに入った。瞬間、グラリと目の前が歪む。

「……寝不足かな」
 
 背中を押されたこと、そして落ちてきた植木鉢。流石に気の所為とは言えない立て続けの出来事に不安が募らない方がどうかしている。その上、あんな夢見てしまったから。
 けれど周りにあんなに心配をかけている様じゃいけない。それで問題が解決するわけじゃないんだから。花道に言われたように今日こそはしっかり休まなくちゃ。
 クラクラする頭を押さえながらメールボックスから郵便物を手に取ってエレベーターへ向かおうとしたときに一つの違和感に気が付いた。郵便物の中に差出人のない封筒が一つだけ混じっていたのだ。
 何の飾り気もない真っ白な封筒に定規を当てたみたいな直線的な文字で名字名前様、と書かれている。

「なに、これ……」

 一人で開封せず誰かと見るべきだったのかもしれない。けれどすぐに確認せずにはいられず、震える手で封を切った。
 中には一枚の便箋。そして一枚の写真。それは宛名と同じ様な文字で書かれた端的な文と抱き合う男女の写真だった。

「……ひっ……!」

 私の小さな悲鳴に合わせてバラバラと郵便物が床に散らばっていった。
 その奇妙な手紙に驚いたのは言うまでもないけれど、余りにもタイミングがよくスマホが鳴り出したのが大きかった。まるで私が封を開けるのを見ていたみたいに震え出したそれをポケットから引っ張り出し、そこに表示された文字に私は安堵の溜め息を吐いた。

「……寿くん、」
『おう、今いいか』
「うん。あのね、今……っ」
『どうした、何かあったか?』

 床に落ちてしまった郵便物の一つに手を伸ばす。一見仲睦まじく見えるその写真のシルエットをなぞりながら、私は一度出しかけた言葉をこくんと呑み込んだ。

「あ……えと、寿くんは何だった?」
『特に用はねえよ。お前そろそろ帰る頃かと思ってよ』
「うん、今マンション着いたところ」
『足は? 治るまで部活休んでりゃいいのに行ってんだろ』
「花道達送ってくれてくれるし、一人で帰るより良いかな、って」
「そりゃそうだけどよ。無茶なことすんなよ」
「うん。大丈夫」
『重いもん持つんじゃねーぞ』
「うん」
『モップも洗濯も買い出しもしなくていいからな。全部一年にやらせとけ』

 その物言いに思わずふふっと笑みが漏れてしまう。  

『……んだよ』
「心配性だね、寿くん」
『ちゃんと言っとかねえとお前絶対無理すんだろ』

 ボソボソっと小さく聞こえてきた言い訳みたいな言葉に照れて頭を掻いてる寿くんが見える様だった。彼の気持ちが単純に嬉しくて、そしてそんな彼にこれ以上の心配をかけるべきではない。

『そうえいば、お前さっき何か言いかけてなかったか?』
「うん。今帰ってきた所だよ、って」
『何か隠してねえだろうな』
「隠すようなことなんてないよ」

 通話が切れるとはぁ、と小さな息が漏れた。「嘘」は得意ではない。電話でなければきっとバレていたと思う。

「ごめん……」

 消印も切手も住所もない真っ白な封筒を目の前に翳して、届くわけもない言葉ごと鞄へ仕舞い込んだ。






 通話マークをタップすれどコール音は鳴ることはなく電源が入っていないと報せるアナウンスが流れた。

「何っかおかしいんだよな、アイツ」

 今まで電話を架けて出ないことはあっても電源が入ってないなんてことは滅多になかった。それがここ数日はいつ架けてもこの状態だ。

「おかしいって誰が?」

 ポカリを飲みながら此方にやって来た山内が俺の横に座った。後ろを見れば自主練を終えたらしいチームメイトがぞろぞろと体育館から出てきている。
 スマホを覗き込む山内に「名前」と端的に答えると、「あぁ、」と納得したように頷いたそいつは面白そうにニヤリと口を歪めた。

「なに、ケンカ?」
「した覚えねえよ。ただ何か様子が変っつーか、ここ最近電話も繋がんねえ」
「絶対何か変なこと言ったんだって。デリカシーの欠片もねえじゃん、お前」
「んなことねーだろ」

 正直、それはアイツによく言われる文句でもある。だけどそんなん今更だろ。だいたいアイツなら嫌ならその場で文句言ってる筈だ。
 何が変って言うのも上手く表現できねぇけど、前はなかった「壁」みたいなもんをいつから感じるようになったのだ。

「いい加減遠距離嫌になったとか?」

 相変わらず愉しそうな面持ちを崩さない山内の言葉にグッと喉が詰まる。恐らく最も言われたくなく、最も気にしている言葉だった。それこそが「壁」の原因じゃねえか、と思っていたからだ。
 一見アイツの態度は何ら変わりはなくて、気持ちが冷めた様に欠片も見えない。それなのにソレが高く聳え立っていく気がするのは、やはり距離が出来てしまったからではないか。

「それは……、嫌だ」

 その如何ともし難い問題に思わずポツリと口にすれば面白がっていた目が丸くなった。

「なに、素直じゃん」
「嫌なもんは嫌なんだよ! つーかアイツがそんなこと思うわけねえ」
「いやー、思うでしょ。遠くの親戚より近くの他人って言うじゃん」
「俺らは親戚じゃねえぞ」
「そういうことじゃねえよ」

 山内の言わんとしていることは分かる。分かるけどそれを素直に受け止めようという気持ちにすぐにはならなかった。何故ならその諺から連想されたもんが無愛想な後輩の顔だったからだ。悉く嫌な所を突いてくるコイツの言葉にげんなりする。

「そう言えばよ、お前樹里と仲良かったよな」

 連想ゲームのように流川とセットで浮かんだ人物の名を出せば山内が訝しげな顔をした。

「仲良いって程でもないけど、まぁ」
「アイツと今も連絡取ってるか?」
「取ってねーよ。そもそも連絡先変わったみたいで電話も繋がんねえ」
「……そうか」

 突然部活も学校も辞めた樹里の事は詳細が分からず仕舞いだった。今何処で何をしているのか、何故名前に会いに行ったのか。不穏な空気を感じて心配していたが、あれから何の音沙汰がない所を見ると無用の心配だったのかもしれない。
 ──それよりも。スマホに視線を戻すと自然と溜息が出る。マジで気付かないうちに何かやっちまったのかもしんねぇ。連絡が取れなければただのガラクタでしかないそれをポケットに捩じ込んで、どうしたもんかと頭を掻いた。
 こうして連絡が取れなくなるなんて何年かぶりで、あの時と決定的に違う電源を切るなんていう徹底ぶりに頭痛がする。アイツは昔から極端な所がある。会話をしようにもその手段を絶たれてしまえばどうにもならない。
 そんなこんなでここ数日すっかり気落ちしているわけだけど、それを周りに悟られたくもなく。自分としては努めて何時ものように、目一杯平静を装いながら部室に戻った。そこで俺を待ち構えていたのはひとつ上の先輩だった。

「ほれ、これ預かった。お前のファンだとよ」

 仁王立ちしていた先輩から手渡されたのは一通の手紙だった。有り難いことにこういったことは偶にある。やたら可愛らしいデザインの物を貰うことが多い中、今回は珍しくシンプルな封筒であることを意外に思いつつも礼を述べてそれを受け取れば心底嫌そうな顔が俺を見た。

「マジかよ、何で三井ばっかこんなモテるわけ?」
「良かったな。大人しそうな男だったぞ」
「は……、男?」

 先輩の言葉に頭を過ぎったのは言わずもがなあの応援団の姿。隣で肩を震わせていた山内は俺を指差すと涙を流しながら笑い出した。

「がはははっ! 良かったなぁ、男にモテて!」
「山内! てめぇは笑ってんじゃねえ!!」



 あの後、徳男のことも例に出されては誂われ散々な目にあった。ハァと息をついて暗がりの道ではどうにも見難い文字を外灯の光に晒せば、三井寿様という丁寧な筆跡が目に入る。

「ったくよ、男ならビシッと口で言えよ」

 そうは言っても別に嬉しくない訳では無い。自分の為にわざわざ時間を割いてくれていることに感謝こそすれ誰が煩わしいと思うだろう。
 破らないようにとゆっくり封筒を開けると、便箋ではないカードのようなものが封入されていた。

「……んだこれ」

 引っ張り出して光に当ててみれば、それは一枚の写真だった。

「名前、だよな」

 制服姿の抱き合う男女。背の高い男の方はどう見てもさっき頭の中にも出てきた後輩、流川だ。女の方は後ろ姿で顔は全く見えないが、いつもこの手で抱き締める好きな女の姿を見紛う筈もない。
 何故、この二人が抱き合ってるのか。なんて疑問よりも、こんな写真が存在して俺の元に送られてきた不気味さの方が余程大きかった。
 誰がこれを撮ったのか、誰がこれを持ってきたのか。「大人しそうな男だった」と言った先輩の言葉が蘇る。居ても立っても居られない身体が大きく振り返ると、瞬間、背中にドンと人の手に押されるような衝撃が走った。
 偶然なのか、そう仕向けられたのか。傾いた視界が捉えた人影が走り去る姿だけが、やたら鮮明に俺の目に焼きついていた。

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