15.脅かす者
──何やってんだ、どあほう
そんな声が聞こえてくるようだった。
実際には流川はその言葉を出しはしなかった。黙って私を見つめてる。……正確には私の左足を。
「あの……大変申し訳ないのですが、」
「聞きたくねー」
彼はプイッと顔を背けてスタスタとコート内に入っていく。
「待って、部活は出たいの! それでお願いが……!」
包帯が巻かれた右足を引き摺りながらぴょこぴょこと彼を追いかけると足を止めた彼は面倒そうに私を振り向いた。
「うるせー。治るまで大人しく休んでろ」
「でも……!」
「おめーが居なくても何とかなる。試合の時期でもねーんだ、ムリに来られる方が迷惑だ」
「それは、分かってる。……けどね!」
「しつけー」
完全に流川が正論を言ってるのは分かってる。だけど引けないのにも理由があるのだ。
多分こうすることが私にとっては最適で、恐らく"安全"だ。何時ぞやみたいに意地で言っているわけでは決してなかった。
「誰かに押されたの!!」
私の大きな声が体育館に響き渡り、流川だけでなく部員みんなが一斉に私の方を向いた。驚く者、不思議そうに首を傾げる者、心配そうな視線を寄越す者もいる。
部員達の練習が止まってしまったのを見て、流川が「続けてろ」と一声掛けて再び私の方へ戻って来てくれた。言葉は出さずとも続きを催促する目に私も再び口を開いた。
「あのね、昨日帰りに電話してたの。寿くんに樹里さんのこと話してて……。それでちょうど交通量が多い道に出るときに、誰かに背中をトンッて……」
──そう。
そのせいで私は勢いよく転倒してしまった。走ってきた車に接触しなかったのが不幸中の幸いだったのだが。親切な運転手さんが念の為にと連れて行ってくれた病院で打撲と中度の捻挫が発覚して今に至る。
流川は私の足首をもう一度見やってから私の顔を見つめた。別に疑っている訳ではないと思うけど居心地が悪い。
私だってこんな変なこと言いたくはない。だけど今もはっきりと残っているんだ。……私の背中を押した、手の感触がはっきりと。
「……気の所為じゃないよ? 本当に……」
「アイツだろ」
「え?」
「昨日の女。タイミング良すぎる」
「……」
まさか、そんな訳ないでしょう。
とは、言えなかった。事実私も考えた憶測の一つだから。
流川はそれ以上掘り下げることはなく、両肩を押して私を壁際に座らせた。
「部活は何もしなくていい。その代わり一人で帰んじゃねー」
「……ありがとう」
本当に……。あれが気の所為ならば、どれだけ良かったのだろう。
*
「聞きましたよ、名前さん! この桜木花道がしっかりボディーガードしますから安心して下さい!」
部活が終わったあと、部室の前で待っていてくれた花道が何時もの調子でワハハと笑う。彼の笑顔は深刻になってた私の心を緩ませてくれて、本当に頼もしいと心から思えた。
「ありがとう。ごめんね、花道」
「なんのなんの! それにコイツらも居ますから!」
「……こいつら?」
花道の言葉が合図だったかのように、何処からともなぞろぞろと出てきた緊張感のない緩い笑顔が私の前に飛び込んできた。
「いよー! 久しぶりだな名前!」
「怪我したって聞いたからよ、すっ飛んできたぜ」
「荷物寄越せ。持ってやるから」
出てきたのは言わずもがな、大楠、高宮にチュウ、
……そして。
「久しぶり。大丈夫か?」
遅れて出てきたのは彼等といつも一緒のあの人。
大楠達の姿を見て居るだろうとは思ったけど、いざ久しぶりに彼の姿を目の前にすると一気に体が強張ってしまった。
「あ、う……、」
恥ずかしくも言葉にならない声だけが唇から出ていき彼の前で石化してしまった私はピクリとも動けない。……嫌なわけじゃない、どうしていいのか分からないのだ。こうして話す機会なんてずっと無かったから。
「おい、名前。大丈夫か?」
「固まってんぞ」
「足痛いんじゃねーか?」
「大丈夫っすか!? 名前さん!」
「よし! 洋平か花道が名前をおぶって──」
「だ、大丈夫!!!」
とんでもないワードに反応して思わず前のめりに叫べば、わちゃわちゃしていた彼等がピタリと止まった。
「ほら、行こう! 遅いけどちゃんと歩けるから!」
言いながら私がちょこちょこと歩きだすと、ぞろぞろ付いてきた彼等は再びいつもの調子でふざけ始めた。
後ろで笑いを堪えてた約一名を除いて。
・
帰り道がこんなにも騒がしいのは久しぶりだった。笑い声で満ちているといつもの道が全く違って見える。
寂しいなんて感じる心の隙間すら空かなくて。誂い合ったりふざける彼等を後ろから眺めてるだけなのにそれが心地良かった。
「本当に久しぶりだな、こーゆーの」
花道達から少しだけ後ろに、そして私からも距離をとって歩いてくれていた洋平の声が私に届く。私を見るでもなく前を向いたままの彼の言葉に遠慮気味に頷けば、久しぶりの困ったような笑顔が私を覗いた。
「変に気ぃ使わなくていいよ。もう一年以上経ってんだから」
「そう、だよね。ごめん」
あの夏の出来事以降、洋平とは距離ができていた。バスケ部を見に来ている洋平達の姿を目にすることは何度もあったけど、クラスも変わったしこうやって話すのは恐らく進級してから初めてだ。
話せるのは嬉しいと思う。やっぱりギクシャクしたままなんかでいたくないから。だけど一度は好意を向けられた人だと思うと、どうしたって変に意識してしまう。
「もしかして、まだ未練がましく想ってて欲しかった?」
「まさか! そんな訳ないでしょ!!」
「そんな思い切り拒否られんのも辛えんだけど」
言葉とは裏腹に洋平はずっと微笑んでて。分かってはいたけどこんな風に意識しているのは私だけなのだと力が抜けてくる。
「……洋平、私のこと誂ってる?」
「かもな。お前と話してると何でかこうなっちまうんだよな」
そうして悪戯っぽく笑った彼に一瞬だけ心の奥が疼いたけれど、気付かないふりして前を向いた。あれはもう終わった恋なのだ。
「でさ、花道から聞いたけど。誰かに押されたってどういうこと?」
そう言えば、という感じで洋平は問いかけた。今さらだけど"たった一回"の気の所為だと取られても仕方のないことに私はみんなを巻き込んでいる。話しておいた方がいい、というか話さなくてはいけないことだ。
樹里さんのこと、そして流川のことも。私は洋平に包み隠さず話した。
「それで流川はその樹里さんじゃないかって言うんだけど……。だけどね、あの時ヒールの音はしてなかったの」
「……でも昨日雪降ってたろ。履き替えてたっておかしくねえんじゃねえ?」
それは、私も考えなくはなかった。でも……本当にそうだとしたら、それこそ計画的な犯行だ。彼女がそこまでするとは考えたくない。
「つーかさ、思ったんだけど。怪しいとまではいかないけど、可能性なら他にもあるぜ」
「なに?」
「流川親衛隊。……って、そこに限定する訳じゃねーけど。熱狂的なファンとか流川のこと好きな奴とかさ」
洋平の口から思ってもみなかった方向の憶測が飛び出して、疑問の声を出そうとした口がぽかんと開く。
「名前は気付いてねーかもしれねえけど、噂になってるぜ。三井さんと付き合ってんのに流川にちょっかい出してるって」
「うそ?!」
「ホント。二年になってすぐからあったけど、今すげー酷い」
これは所謂職業病みたいなものかもしれない。マネージャーになった当初は色んな噂や嫉妬じみた言葉にいちいち傷付いていた。……けれど気付けば動じなくなっていた。鈍くなったのかもしれない、一々気にしてたら身が持たないからだ。
「……気付かなかった」
流川と一緒にいれば睨まれるのはいつものこと。去年なんか喧嘩ばかりだったし、そんな噂が立ってるなんて夢にも思わなかった。
「だから流川も付かず離れずの距離にいるんじゃねーの? 今日だって本当はお前のこと送って行きたかったんだと思うぜ」
「……え?」
「花道が名前のこと送ってくって言ったとき、アイツすげー顔で花道のこと睨んでたんだよ」
「は、うそ……」
私のことを交代で送り迎えすると言い出したのは他でもない流川だ。それに今の距離感だって、私が飛び出した一件があるから彼なりに気を使ってくれてるのだと勝手に思ってた。
洋平の言葉が本当になら……、いや洋平が嘘つく訳ないけど。流川がそんなことを気にして立ち回れる? あの人は噂とかそんな類のもの全く気にしないし、関係ないと突っ撥ねるタイプだ。
「お前ってホント、罪な女だよな」
「……や、やめてよ……!」
私が分かりやすく動揺していればニヤリと笑った洋平が顔を覗き込んだ。それをこの人に言われては堪らない。……洋平ってこんな意地悪な人だったっだろうか。
「つーか三井さんには? ちゃんと言った?」
「……なに、を?」
急に寿くんの話に変わってギクリと跳ねた心臓を見透かしたかのように洋平は溜め息をついた。
「言ってねーな、お前」
「だ……だって! 下手に言ったらムリしてでも寿くん来そうなんだもん!」
「来てもらえば良いだろ。相変わらず遠慮しぃだなお前」
……言えないよ。昨日の電話だけで寿くんは随分心配してた。その上、誰かに押されたなんて言えるだろうか。憶測の域を出ないことに往復6時間の道のりを来てもらうなんてどうしたって気が引ける。
「離れてる分ちゃんと言いたいこと言わねーと。後で後悔しても知らねえぞ」
──。
「おーい! お前ら二人で何話してんだ、置いてくぞー!」
「あー、悪ぃ。今行く」
洋平と話してる間に花道達は随分先に行ってしまったみたいだ。私を見やった洋平は「行くぞ」と言って歩く速度を少し速めた。
「……分かってるよ」
一歩遅れて歩き出した私のこの言葉もまた、随分と遅れてしまった洋平の言葉への答えだった。
*
──翌朝、
マンションのエントランスを出ると立っていた人の姿に思わず息を呑んだ。約束していた人とは違うずっとずっと高い背中に駆け寄れば、今にも落ちていきそうなとろんとした瞳が私を見下ろした。
「どうしたの、今朝は石ちゃんが来てくれるはずじゃ……」
「交代した」
「……何で?」
「別に」
「流川、朝苦手だから送りだけにするって言ってたでしょ」
「気が変わった」
「無理しなくていいんだよ?」
「ムリしてねー」
ムッとした声こそ聞こえてこれど未だ彼の両瞼は重そうで。きっと無理をして来てくれただろうことと、昨夜の洋平の言葉が重なって胸の奥が締め付けられた。
それでもいつもの危なっかしい寝ぼけた自転車走行とは違うしっかりとした足取りは、私の歩調に合わせてゆっくり前に進んでくれる。もうすっかり慣れてしまった彼との無言の時間も嫌いではなくて、早朝の凛とした静寂を際立たせた。
最寄りの駅の近くまで来た頃には重そうな瞼は消え、いつもの綺麗な切れ長な目に戻っていた。まだ静かな街の中も、駅の方からは小さなノイズが届く。そんな音に紛れるような声がようやく沈黙を破った。
「……先輩に言った?」
「何を?」
「押されたって。あの女かもしれねーだろ」
「……言ってない」
「何で言わねー」
「やっぱり……言ったほうがいいのかな」
「たりめーだろ。あの女のせいなら先輩の監督不行届だ」
「そんなことは……。寿くんが悪いわけじゃないでしょ」
昨日と同じ文句を流川からも聞くとは思わなかった。理由は随分違うけれど、こう立て続けに言われてしまうと流石に気持ちに揺らぎが出てくる。
「俺は、好きな女を危険な目に遇わせる奴は許せねー」
立ち止まって、私の瞳を真っ直ぐに捉えて。掴まれた手首にじわりと熱が移る。
抱き締められたこともある。キスされたことだってある。……それなのに一瞬息が止まりそうになったのは、きっと彼の口から初めて好意を思わせる言葉が出たからだ。
気付けば私を射抜く瞳から目が逸らせなくなっていた。
「──おい!」
「……っ?!」
珍しく大きな流川の声に驚く間もなく引き寄せられれば、私のすぐ後ろでガシャッと大きな衝撃音がした。
「……は。……なん、で……」
地面に落ちていたのは原型をとどめていない植木鉢。
散らばった破片や土が落ちている場所にはさっきまで私が立っていた。……流川が引っ張ってくれていなければ?どうなっていたかなんて考えるまでもない。
彼が見上げた先には小さな雑居ビルの非常階段があった。位置関係的にその階段の上の方から落ちてきたと考えるのが自然だが、植木鉢が置いてあるような場所でもなければ人影も見えない。
「見てくる。ここで待ってろ」
「や……行かないでっ!」
こんなものが自然に落ちてくるわけがない。意図的に誰かが落としたのだ。一昨日押された背中にじわりと嫌な汗が滲んでくる。
「怖い。……お願い、今一人にしないで」
確実に得体の知れない悪意が私に向いている。確信は恐怖に変わり全身に広がっていった。震え止まらぬ手は大きな手に包まれて。その温もりが私の全部を包み込むまでに時間はかからなかった。
駄目。
頭の中でははっきりと拒否の意が浮かぶのにそれは唇から出て来ない。
その温もりと耳元に響く優しい音が齎す安心感に、今はただ身を委ねていたかった。