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14.幸福が運んだ不穏な音


 寝惚け眼に自分の部屋の天井が映る。その目をゴシゴシ擦って横を向けば、静かに寝息を立てる余りに安らかな寝顔がそこにあって思わず息を呑んだ。
 ──可愛い。ぽかんと口を開けて、強い眉をほんの少し下げて。いつも強気な目をしている人が私の隣でこんな無防備な顔して眠っているのだ。どうにも堪らなくなって、癖がついてピョンと跳ねている髪の毛に手を伸ばす。頭には触れないようにそっと髪だけを撫でると、寝癖がピョコピョコ跳ねてつい口元から「ふふ」と声が出てしまった。

「……おう」
「ごめん。起こしちゃったね」

 薄く目を開けた寿くんは寝そうに何度か瞬きをしながら私を腕の中に抱き寄せた。ピタリと彼に密着すると一気に彼の匂いが鼻に入る。彼の温もりと匂いに包まれる心地良さは再び私を眠りに誘う。隆々とした彼の腕も胸も、硬くてお世辞にも寝心地が良いとは言い難い。
 だけどここは何よりも安らげる場所だった。彼の中に包まれてうつらうつらとしていると、大きな手がふわっと私の髪の毛を撫で始めた。
 閉じかけた瞳をぼんやり開けて寿くんの大きな手が後頭部を行ったり来たりするのを感じていると、顔を擦り付けるようにしながら寿くんがポツリと呟く。

「お前シャンプー替えた?」
「変えてないよ。あ、でも季節限定とかで香りが変わってたかも」
「俺この匂い好き」
「ホント? じゃあ買い占めてこなくちゃ!」
「は、何だそりゃ」

 大真面目に言ったのに寿くんがあんまり可笑しそうに笑うものだから変なことを言ってしまったのかと恥しくなってしまう。だって好きな人が好きだと言った匂いならばずっと使っていたいじゃない。しかも限定品なら尚更だ。
 一頻り笑った寿くんに頭を引き寄せられると触れるだけの優しいキスが落ちてきた。それが深くなるのは最早自然な流れで、互いの指と指、足と足を絡ませ合いながらベッドの上で只管キスに溺れていった。気づけば寿くんが覆いかぶさるような形になっていて、離れた唇を撫でた彼の指がつーと鎖骨の方に下りていく。

「やべえな、こんなことしてたらまた襲っちまいそう」
 
 寝覚めのぼんやりした瞳はもう既にそこにはなく、すっかり熱を帯びた眼が私を捉えている。

「いつ家出る?」
「夕方頃には帰りてえな。寮の門限あるし」
「……じゃあ、する?」

 サイドテーブルの時計を横目に鎖骨の下を撫で続ける彼の指に手を重ねその手を少し下に導くと彼はやわやわと胸の膨らみを拉きながら唇を寄せた。胸にあった手はパジャマを捲りお腹を擽るように撫でながら再び上に上がっていく。

「一回じゃ収まんねえぞ、たぶん」
「そこは自重お願いします」
 
 昨夜も似たようなこと言ってたでしょ? そう言えば「止まんねぇんだからしゃーねえだろ」と言うややくぐもった声が首元から返ってくる。つー、と首筋を這い更に下に下りていく柔らかな刺激にもう言葉は返せなくて。重なり合った体は溶けるように一つになっていった。
 寿くんが神奈川に居られる最後の日。あまりに幸福で満ちた日々は光のようで、この後訪れる日常をひどく瑣末なものにする残酷さを持っていた。





マジでギャップについていけない。

一枚の紙を両手に握りしめて膝を抱え込む。俯いた頭の向こう側でバッシュが擦れる音とボールが弾む音が激しく響いている。冬休みも終わり既に10日、私は未だに寿くんが居た砂糖みたいに甘ったるい夢心地から目覚めることができない。

「名前、タオル」

 突如真上から聞こえた声の正体は滴らせた汗を腕で拭っている流川だった。練習が一区切りついたことにも気付かない自分が何とも腹立たしい。慌てて彼のマイタオルを差し出すと、彼は後ろに隠そうとした紙までご丁寧に抜き取った。

「余所事してんじゃねー」
「ごめん」

 流川の鋭い視線に身が縮こまる。私が飛び出した日以降彼とのギクシャクも幾分解消されて、先輩達に来てもらうのも昨年末を最後にした。そもそも受験で忙しい三年生にいつまでも心配をかけているわけにはいかない。けれど、私がこんなでは元の木阿弥ではないか。

「行くとこ困るほど頭悪くねえだろ」

 怒られるのを覚悟して俯いた頭の上をポンと温かな重みが触れて離れていった。真っ直ぐに私を見る流川の瞳に怒りの色は微塵もなかった。返された白紙の進路希望の紙に目を落として「うん」と小さく返すと少し離れた位置に流川が腰を下ろした。
 休み明けすぐに突き付けられた現実に私はまだ心が追いつかない。これがどれだけ重要なことかも分からない程子供ではないけど、私はまだ甘ったるい夢を見ていたい。真剣に考えれば考えるほど彼との距離を如実に感じてしまう気がするから。

「流川は進路どうするの?」
「留学」
「え?」
「留学する。たぶん」

 何の気なしに聞いた答えにガツンと頭を殴られたみたいな衝撃を受けた。だけどよく考えればそれは全くあり得ない回答ではない。いくらでも予想できたことなのに、それに驚いてショックを受けている自分のほうが余程あり得ないと思えた。

「いつ? 今年のインターハイは?」
「それは出る。けど冬は分かんねえ」
「そっか……」

 いい加減目を覚まして現実を見ろ。

 まるでそう言われているみたいだった。彼には霞むことなく見えているだろう未来が私には欠片も見えはしなくて。出口の見えないトンネルに置き去りにされてしまったみたいな、名状し難い不安が私を包み始めていた。

けれど私を私を覆い隠そうとするものはそれだけではなかったのだ。




 望んでもいない来訪があったのは1月の終わりが近づいて来た頃。部活帰りのすっかり暗くなった空は雪を散らしていた。
 コートやマフラーで防寒したって寒いものは寒くて悴む手を擦り合わせながら薄っすら白くなり始めた道を急ぎ歩いていた。はぁ、と手に吹きかけた白い息の向こうに先に帰ったはずの流川が戻って来るのが見えて立ち止まると、彼は神妙な顔をしながら私の方に歩いてきた。

「どうしたの、忘れ物?」
「あの女がいる」
「……女?」

 彼を伴って校門を出れば、言った通り一人の女性が壁に寄り掛かって立っていた。
 離れてても分かるツケマみたいな長い睫毛。ぐるんぐるんに巻かれた髪の毛は今日は下ろしていて、その派手な雰囲気と清楚なファッションが何処かアンバランスだ。見間違う訳もない、あの人は……樹里さんだ。

「どうも。久しぶりね」
「……どうされたんですか。一人でここまで?」
「ちょっと家の事でこっちの方に用があってね」

 媚びるような甘クドい声も態度も寿くんが居なければ出すつもりもないらしく刺々しい視線を私に向ける。いっそ清々しくすら感じる彼女から私を庇うように流川が前に出ると、以前私にもした品定めするような視線を今度は彼に向けた。

「前も居たわよね、この子」
「うちの部の主将です」
 
 修羅場を引き起こしたとも言えるその「前」の日のことを、謝るでもなくごく自然に口に出せるこの人は一体ウチの学校まで何をしに来たのか。嫌な予感しかしなくても聞かないわけにはいかず「それで私に何か?」と尋ねれば彼女は流川を押し退けるようにして私の前に立った。

「寿と別れてよ」
「……は?」
「遠くの彼女なんかより傍に居られる私の方がいいって。貴方がいなければ上手くいくのよ、私達」

 それをわざわざ言いに来たの? 彼女の言葉にダメージを受けると言うよりも何か虚しさを感じてしまう。寿くんは絶対にそんなことを言うことはない。いつかの彼女の告白を思い返しながら大きく首を横に振った。

「寿くんはそんなこと言いません」
「どうかしら、聞いてみたら? 子供っぽい貴方なんかよりずっと私の方がいいって言ってくれたわよ」

まぁ、ピロートークなんてちょっと大袈裟なこと言うものだけどね。

 私だけに聞こえるように耳元で囁いた彼女は不敵な笑みを浮かべた。
 嘘だ。そう確信は持てるのにピロートークなんて言葉に動揺して僅かに眉を寄せれば彼女はその笑みを深める。震えた唇は言葉を紡いでくれなくて、何か言わなくちゃと目をきょろきょろと泳がせれど言葉が降ってくるわけでもない。
 そもそも私に争う気など端からなくて、ただ平穏な日々を望んでるだけだ。寿くんのチームの人なら仲良くしたい。それなのにこの人は最初から……。

「おい、何のつもりだテメー」

 口を挟むことのなかった流川が再び私を自分の背中へ隠すようにして樹里さんの前に立った。顔は見えなくてもその言葉尻から怒っているのが分かる。

「口が悪い主将ね。貴方からも名前ちゃんによく言っておいてよ。邪魔者はさっさと消えた方がいいよ、って」
「邪魔者はおめーだろ」
「それ、貴方にも言えるんじゃないの?」

 流川の右手がピクリと震えて拳を作った。思わずその腕に触れて見えない彼の顔を見上げようとすれば、目が合ったのは私を覗き込んだ樹里さんの方だった。

「じゃあね、名前ちゃん。今日はとりあえず帰ってあげる」

 すっかり白くなった道路にヒールの音を響かせて、彼女の姿はあっという間に闇と雪に紛れて消えてしまった。

 そしてその後の帰り道……。


「先輩に言え」と流川に念を押されて寿くんに樹里さんが来たことを電話で伝えると驚くべき事実を知ることになる。

「辞めた? 部活を?」
『年明けて部活行ったらもうそういう話になってた。つーか大学も辞めたらしい』

 もう会うことはないだろうと思って急ぎ伝えなかったが、すぐに言うべきだったと寿くんは続けた。彼にも予想外の行動だった様だ。

「……何で、来たのかな」

 誂いに来たとかそんな感じでは全く無い。今から正に闘いでも始めるみたいな強い感情を彼女は持っていた。 嘲るような笑みを見せて消えた彼女の後ろ姿に今更体がゾクリと冷える。

『悪い。俺のせいだ』
「……違うよ。寿くんは何も!」

 ──!?

 キュッと雪を踏みしめる音と共に視界がグラッと曲がっていく。 刹那、パーッと車のクラクションが鳴り響いた。ヘッドライトに照らされて反射的に閉じた目は暗闇を作り、傾いた体は闇の中で強い衝撃を受ける。

『名前? おい、名前! どうした?!』

 どこかに投げ出されたスマホから聞こえる寿くんの大きな声だけが私の耳に鮮明に届いていた。

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