13.好きの気持ち
私の足を止めたのはいつか見たことのある景色だった。
地元なんたから見慣れた景色に違いない、学校から一番近くの繁華街。けれどこの辺りに足を踏み入れたのは三年前が最後だった。
街を美しく彩っているイルミネーションや赤と緑のクリスマスカラー。季節特有の飾りを纏う必要もないほど派手なカラーのネオンが並ぶこの場所は、私と寿くんが出会った場所だった。
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──この場所にいたらもしかして。なんて馬鹿げた期待を抱きたくなってしまう。
寿くんはインターカレッジで東京にいるし現実的にそれが叶うはずもないことは分かっている。だけどそんな夢物語を望みたくなってしまうほど、あの出会いは特別なものだった。
人の波の間に長い髪の毛が靡いた気がして一瞬息を呑む。けれどよく見てみれば全くの別人で、そもそも彼はもうそんな髪型はしていないのに。
自嘲気味に溜息をつけば、タイミングよくスカートのポケットが震え出して中にあるスマホを引っ張り出した。
「──はい」
『どこにいる』
画面の表示すら確認せずに電話に出てみれば、耳元に入ってきたのはかかってくるとは思ってもいなかった人物の声だった。
「……流川、」
『一体どこで何してんだ』
「どこでもいいでしょ」
『部活サボってんじゃねー』
「……ねえ、他に言うことないの?」
私が勝手なことをしているのは分かっているけど、これがその原因を作り出した人の言うことなのだろうか。その言い草につい喧嘩腰になって受け答えしてしまったけれど、あの流川が電話をかけてきた……その事実に少し関心してしまっている自分もいたりする。
帰るべきだと分かっていながら彷徨い続けた私は流川の声に反論しながらもようやく踵を返した。けれど、前に出した足はつんのめる形を取って斜め後方に引き戻されてしまった。
「え、なに?」
「おねーさん、なにしてるの? カレシと喧嘩?」
声がした方を振り向くと、私の左手首を掴んでニヤニヤしている男性が立っていた。最早お決まり的なこの展開に冷や汗が流れる。電話をしているにも関わらず声をかけてくる人がいるなんて。
「離してください」
昔と同じ場所で絡まれるなんて馬鹿げてるにも程がある。お酒の臭いを漂わせたその男性は腕を引っ張ってもふらふらと千鳥足を踏むだけで手を離してくれる気配はないし、どう見ても酔っ払っていて話が通じそうにもない。
『おい名前、オマエどこにいる』
「い、今それどころじゃ……」
『答えろ』
「Y駅北口側のカラオケの近く!」
答えるなりプツリと通話が途切れてスマホは無音になった。
・
「だから! 待ち合わせしてるんです!」
「待ち合わせって、全然来ないじゃん。本当はフラれちゃったんでしょ?」
「違います! 迷惑だからどこかに行って下さい!」
流川との電話からどれだけ時間が経ったのか。腕を引っ張ろうが押し返そうが離してくれることもなく、無益な言い争いだけが続いていた。そして悲しいことに通行人からの助け舟は一度としてない。
「いいから一緒に飲みに行こうよ」
「行きません! だいたい私、高校生……」
上着を羽織ってるとは言え普通に制服を着ているのに、と自分の姿を見下ろしてスマホを持ちっぱなしなことに気付く。
そうだ、110番だ。電話すればいいんだ。そもそも自分から周りに助けを頼んでいれば何か違ったかもしれないのに、と今更後悔しながら片手でスマホを起動させた。
そうしてスマホに集中していたとき、意識の外でガシャンと何かが倒れるような大きな音が響いた。
「そいつから手ぇ離せ」
「……る、かわ……」
シャーッとペダルが空回りしたまま倒れた自転車の前に立つ彼の瞳は怖いくらい真っ黒な怒りの色に染まっていた。
*
ざわめきの消えた道路に月明かりが二つの長い影を作っていた。静かな道に響くカラカラという自転車の音はいつかの夜を思わせる。
「あの……、ごめんね」
あの日と違うのはそこにキィキィという耳障りな音が混じっているということ。流川が駆け付けてくれたとき勢いよく倒れてしまった自転車はタイヤが少し曲がってしまった。やや左寄りに進んでいく自転車を流川は器用に押して歩いていた。
「先輩に蹴られた」
「蹴られた? リョータ先輩?」
隣にいる私の顔を少し見やってからすぐ前を向いた流川は思ってたものとは違う返事を寄越した。でもたぶん彼の中ではこの会話は繋がってるんだと思う。そう思ってそのまま彼の言葉に答えると流川はコクッと頷いた。
「オマエにキスしようとして殴られたって言ったらスゲー怒られた」
「あー……、」
私が居ないことを問われて悪びれもなくありのままを話す流川、そしてそれを聞いて鬼のように怒るリョータ先輩が容易に想像が出来た。きっと私の知らないところでひと悶着あったのだろう。
「もしかしてそれで電話してくれたの?」
電話に出た端はそんな感じはしなかったけど、リョータ先輩に怒られて流川なりに反省してくれたのかもしれない。再び頷いた流川は足を止めて私の方に向き直った。
「もう逃げんじゃねーぞ」
「……うん」
何にしたって私のせいで沢山の人に迷惑と心配をかけたに違いはない。それに流川が来てくれなかったらもっと大変なことになっていたかもしれない。
ちらりと横を伺い見ると再び前を向いて歩き始めた流川のいつもの涼しい顔が見える。酔っ払いがあっという間に逃げて行ったさっきの恐ろしい顔が夢みたいだ。
「私達、前みたいに戻れないかな」
「前?」
「流川と喧嘩したくない。普通に前みたいに仲の良い同級生で……仲の良いマネージャーとキャプテンでいようよ」
それは私のことを諦めて下さい、と同義であって酷な言葉に違いない。だけど言わずにはいられなかった。なんだか流川と久しぶりに普通に喋れた気がして、やっぱりそれがすごく心地良い。身勝手な考えだろうと、このままの穏やかな関係性でいたいと思ってしまう。
流川は怒るでも悲しむでもなく私の言葉をじっくり噛み砕くように首を傾げた。
「今と何が違うんだ」
「え……、だって」
「オマエが勝手に一人で気まずくなってるだけだろ。俺は何も変わってねえ」
「変わったよ。私にキスなんかしようとしなかったでしょ、落ち込んだり泣いても怒ったりしなかった。それなのに急に……!」
「おめーが急にグジグジ泣いてばっかいるようになったんだろーが」
果たしてこれは会話が噛み合っているのだろうか。流川から返ってくる言葉全てが私の予想からかけ離れていて頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだった。
「え……なに、私のせいなの?」
「オマエは笑ってりゃいい」
「笑ってたらキスしないの?」
「……それは、知らん」
何だか狐につままれたみたい。話の論点もズレてすっかりふりだしに戻ってる……気がする。
「笑え」
「笑えって言われて笑えるわけないでしょ」
彼がやたらと私が笑うことに拘るのは何故だろう。 これまでの会話に釈然としなくて皺の寄った眉間に流川の左手が伸びる。それは今日のキスを思い起こさせるには十分で、ビクリと肩が跳ねると彼の手は頬に滑っていった。
「笑え」
「……ちょっと!」
添えられるかと思った彼の左手は私の頬をむにゅっと上方に引っ張りあげた。頬に釣られて不格好に歪んだ唇はとても笑っているとは言い難い。
私を笑わせるためにとった行動がこれなのだと思うと、何というか不器用でとても流川らしい。表情を変えずに私の顔を注視している彼を見上げていると途端にこの状況が可笑しく感じてくる。
思わずフッと口元が緩むと止まらなくて、唇から漏れていく笑い声と共に私は破顔していた。
「──っ」
緩んだ瞳に映ったものに息を呑んだ。
頬から離した手を私の頭上にふわりと滑らせた流川の顔は、猫の喉元を撫でているみたいにとても優しくて穏やかで。ギュッと心臓を掴まれたみたいに呼吸が苦しくなったのは、そんな表情の彼を見たのは初めてだったから。
*
>January.
お辞儀は不揃いだけど拍手はきっちり二人揃って、なんだかいつもチグハグな私達らしくてそれすら愛おしい。チラリと横に目をやれば、しっかり目を閉じてお祈りしてる綺麗な横顔が見えた。真剣なその横顔が余りにも格好良くて、見惚れた私はお願い事もそっちのけになりそうになる。
……神様の前で一体何をしてるんだろう。
「あーーー、すっげえ疲れた」
「元旦の神社は流石に凄い人だったね」
新しい年の始まりの日。二人で初詣をすることを去年から決めていて、今年も無事に二人で詣ることができた。
冷たい風が吹き抜ける防波堤に座ると、すぐ隣に腰を下ろした寿くんの頭がこてんと私の膝に乗っかった。神社から少し離れたところにあるこの海岸沿いは寒いけれど人気がなくてホッとする。
インカレもウィンターカップも………駆け抜けるように過ぎてしまった昨年末。寿くんと会うのも久しぶり、というほどではないけど、流川とのことがあった日以来だったからゆっくりと落ち着いて過ごせる時間があることが嬉しくて。幸せを噛み締めながら膝の上で小さく靡く彼の髪を撫でた。
「寿くん随分長くお願いしてたよね。どんな願い事?」
「んなもん、ヒミツに決まってんだろ。こーゆーのは言ったら意味ねえんだぞ」
「そうなの?」
「お前の分まできっちり頼んどいてやったから安心しろ。お前ボケーッと俺の顔ばっか見てただろ」
「は、うそ……分かってたの?」
ニヤッとしたり顔で笑う寿くんに見上げられて顔の熱が一気に上昇していく。神様の前で間抜けな顔して寿くんに見惚れてたことを本人に気付かれてるなんて。
「名前の願い事は大体分かってんだよ。俺とずっと一緒にいられますように、だろ。俺とずっとラブラブでいられますように、だろ。それから俺と──」
「ちょっと待って! 何で寿くんのことばっかなの!」
「んだよ、違えのかよ」
「違く、ない……けど!」
悔しい。指折り数えながら言われた願いは殆ど正解に違いなくて。寒い海沿いにいるはずなのに私の体温は高くなっていく一方だった。
赤く染まった頬に寿くんの骨ばった指が伸びてくる。中々見ることのない私を見上げる寿くんの瞳は、何処か甘ったるくもありいつもみたいに雄々しく綺麗。吸い込まれたみたいにそこから目を逸らせないまま、するすると猫みたいに頬や顎を撫でられた。膝枕をしてあげてるのは私なのに、これではどっちが甘えてるのか分からない。
「……流川は?」
「え? あ、うん。……大丈夫、かな」
「何で疑問形なんだよ。俺が聞いてんだぞ」
「よく分かんない。でも、何もないよ」
「当たり前だ。何かあったらすぐ言え」
「……うん、」
学校を飛び出した日のことは、リョータ先輩にもお願いして寿くんには伝えなかった。彼の大事な時期に心配をかけるべきではない。それが私の出した結論で、二度とあんな馬鹿なことをしないと誓って心に収めた。
後から考えれば、私は優先させるべきものを間違えていたんだと思う。この頃からか、もっと前からなのか、少しずつ少しずつ……ボタンの掛け違いみたいにズレていったものが後になって綻びを見せる。
私がそれに気付くのはもう少し、先。