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12.強い想いの先に


 ふわりと浮かび上がるように手から離れたボールが放物線を描いていった。しかしそれはリングに弾かれてしまいネットを潜ることはなかった。落ちてきたボールを取りに行く様子を見た隣の人から小さな息を漏らす音が聞こえてきた。
 
「下手くそ」
「……わ、分かってるよ!もう一回!」 

 そうしてムキになって放ったボールはまたしてもリングに嫌われて大きな音を床に響かせてからコロコロと此方に戻ってきた。今度は聞き逃すことの出来ないほどの大きな溜め息が流川の口から吐き出される。シュートを打った張本人はその響きに体を強張らせながら眉を下げた。

「アンタもうちょっと優しく教えてやれないの?」
 
 あまりに分かりやすすぎる溜め息を吐いたそいつにそう言えば、そいつは悪びれる様子もなくこう答えた。
 
「頼んできたのはコイツだ。優しくしてやる必要はねーです」

 名前を一瞥してから今度は流川がシュートを放つ。憎らしいくらい綺麗なフォームで送り出したボールは、これまた憎らしいくらい綺麗にリングを通り抜けていった。……っとに、嫌味なやつね。

 それは可愛い後輩に対する庇護心なのかもしれない。話を聞けば名前の方が流川に自主練を見て欲しいと申し出たらしいし、あの流川がそれに応じて練習を見てあげているのだ。本来ならば感心するべきことなのに、如何せんこの男は教え方に問題がある。
 流川のシュートを食い入るように見つめていた名前は、心配そうな私の視線に気付いたのか困ったような顔をしながら私の方に振り返った。
 
「流川が……私に一番は向いてないって」
「だからロングシュートを?
向いてないなんてことないでしょ。名前は周りのことよく見てるし、リーダーシップもあるし」  
「視野は広くてもコイツはいざってときの判断が遅え。もたもたしてるの何度も見た」
「……よく見てるわね、アンタ」

 それは名前の課題でもあった。PGには広い視野はもちろん判断力も必要不可欠だ。名前は前者は申し分ないが後者に関しては彼の言うように咄嗟の状況に弱い。名前とはクラスも違うし練習も別々にしている男バスのこの子がそれに気付いていたことに驚きを隠せなかった。バスケのこととなるとこうも頭が動くものだろうか。
  
「でもシュートもド下手だから話になんねー。バスケ自体向いてねーんじゃねぇの」
「流川、アンタねぇ……!」

 素直に感心していたのが馬鹿らしくなる酷い言い草に青筋が立つ。思いきり引っ叩いてやろうか、なんて流川の方に一歩前に出た体は名前によって遮られた。
  
「彩子さん、大丈夫です。流川、もう一回お願い」

 流川のうしろに見えるゴールを見つめる名前の瞳は強い意志のある芯の通った綺麗な色をしていた。
 
  



 ――――ピピーーッ

 体育館中に響き渡ったホイッスルの音で目が覚めたように目の前の景色が変わった。何の変哲も無い思い出の一つ。中三のときの学校生活の一欠片。決して今を予感させるものではない、あれはいつもの日常の一部だったように思う。
 何であの日のことを思い出したのか……まだ少しぼんやりとした視界を得点ボードの横で佇む彼女の方へ戻す。ストップウォッチ片手にコートの中を眺めるその瞳は、あのときと比べ物にならないほど陰り不安に揺れていた。
  
  
「…………ってえ……!」

 いつもと変わらない様子でのそのそとコートから戻ってきた無愛想な男の頭を引っ叩くと、そいつは頭をさすりながらほんの少しのふくれっ面を見せた。
 
「なんすか」
「もうちょっとやりようあったんじゃないの」
「何のこと」 
「名前のことよ!」

 努めて小声で話しているにも関わらず、すぐそこにあるタオルを取りに来たこの子はそんな私にはお構いなしでいつもと同じトーンで答えを返してくる。
 周りを気にして喋るならば別の場所ですればいい。それは分かってるのだ。だけど口から溢れ出す言葉は止められそうにない。

 まるで私の声が聞こえてないみたいに悠々とタオルで顔を拭ってマイボトルのドリンクを呷ると、ようやく彼はその目を私の方へ戻した。
  
「別に先輩に迷惑かけるようなことはしてねーすけど」
「私のことなんてどうでもいいのよ。今は名前のことを言ってるの。アンタ好きな子困らせて楽しい?」
「……困らせてねー。泣かせてんのは向こうだろ」

 ムッとした様子の流川の返答に頭が痛くなる。人伝えで聞いたことだけど昨日の修羅場が見えるようだった。"今まで通りでいい"なんてアドバイスは的外れだったかもしれない。あのときにこうやって話しておけばこうはなってなかったのではないか。過ぎてしまったことだけどそんな後悔を抱かずにはいられない。
 
「今、ああしてあの子が暗いのは間違いなくアンタのせいよ。それくらい分かってるでしょ」
「……じゃあどうすりゃいい。指くわえて見てろってことすか」   
「アンタの気持ちは分かるけど、名前は三井先輩と付き合ってるの。二人のこと一年近く見てきたでしょ?何で今になって二人の間に割り込むようなことしたのよ」

 流川の気持ちは分かる。好きな子が泣いてたらどうにかしたいという気持ちが湧くのは自然だ。
 だけど何で今なのか。散々名前のこと見てきたっていうのに、今さら好きになることなんてある?これだけ分かりやすく行動に出してて"好きな子"という言葉にも否定しない。疑う余地もないけど何もかもがタイミングが悪すぎる。
 
「……アイツが泣いてるとイライラするから」
「三井先輩が泣かせてるわけじゃないでしょ。遠距離になっちゃったから辛いのは仕方がないのよ」
「だったら別れりゃいいじゃねーか」 
「アンタいい加減にしなさいよ!!!」

 まるで平行線で収拾のつきそうにない返答に思わず抑えていた声を荒らげてしまった。散らばっていた部員達の視線が一気に此方に集まり、その中に一際不安そうな顔で私達を見る名前の姿がある。
 私が慌てて口を抑えると、流川は"もう話は終わった"とばかりに首にかけていたタオルを放り投げてコートの方に歩き出した。
 
「ちょっと……流川! 待ちなさい!」
「部活はちゃんとやってるだろ。先輩達がわざわざ見に来る必要はねー」

 もはや取り付く島もなかった。どこまでも自分ペースなあの子の背中を見送ってから名前に視線を戻した。
 これ以上後輩達が揉めるのも傷付くのも見たくはない。そう思うのも今日の私の行動も、出過ぎたこと、なんだろうか。

 

 

 学校に来てもう何度鳴ったかも分からないチャイムの音に反応して体が跳ねる。
 教室を出て行った先生、ざわつき始めた教室内。みんなが通学バッグに手を掛け始めたのを見て、呆けた頭が帰りのホームルームが終わったことを今頃理解した。

 一人、また一人とクラスメイトが席を立ち始める。部活に行かなくちゃ。……頭ではそう思ってるのに、背中に錘が乗っかったみたいに身体が動かない。だんだんと寂しくなっていく教室内をぼうっと見ていると、視界の縁に黒い塊が映った。
 
「……ご、めん。今から行くね」

 長い睫毛を下げて私を見下す瞳はその言葉にコクッと揺れた。その瞳が私に急かすような視線を寄越しているのは感じるけれど、未だ重たい体はのろのろと机の横に掛かっている鞄に手を伸ばした。
 
「遅え」

 鈍い私の動きに耐えかねた流川がポツリとそう呟いた。

「……待ってなくていいよ。先に行って。ちゃんと部活行くから」

 彼を見上げることなくそう告げて、尚も重たい体でゆっくり教科書を鞄に詰める。何も一緒に行く必要はない。別に逃げたりしない。
 私の言葉を最後に訪れた沈黙がズキズキと胸を締め付けた。以前は意識したこともなかった彼との無言の時間。今はその時間が酸素がなくなってしまったみたいに苦しく感じる。

 ようやく荷物を詰めて誰も居なくなってしまった教室。ゆらっと立ち上がった私の前には、先に行くこともなく私を待っていた流川一人だけが残っていた。

「……お待たせ。行こっか」

 私を見下す瞳を直視できなくて視線を逸しながら彼の前を通り過ぎる。……もう、どうやって彼に接するのが正解なのか分からないのだ。

 もう流川と話せないかもしれない。話してくれないかもしれない。あの日、そう覚悟した。
 けれど実際はそんなことはなく、彼はいつも通り私に接してくれていた。その「いつも」がもう何時からの「いつも」なのかも分からないけど。
 話せなくなるのは嫌だ。だって中学からの同級生で、同じバスケ部で、マネージャーとキャプテンで。私達が気まずくなんかなれば、きっとバスケ部のみんなも困る。だから……。 
 ずっと頭に巡る言い訳じみた考え。同時に浮かぶ寿くんの顔。考えれば考えるほど頭の中は雁字搦めの糸を作っていくばかりだった。

 通り抜けたと思った流川の前に左手が取り残される。彼に手首を掴まれて進むことが出来なくなった私の体はふらりと蹌踉めいた。
  
「……なに、」
「何でそんな顔ばっかしてる」
「顔……」

 鞄を肩に掛けた反対側の手で思わず自分の頬に触れる。背の高い影が私の顔を覆い、すらっと長い指がトン、と眉間を指した。

「皺寄せて困った顔ばっかしてんじゃねー」
「……そ、れは……」
「笑え」
「は……」
「何で笑わねーんだ」

 何で……って。それを流川に言われるとは思わなかった。私はそんなに酷い顔をしてる?笑えるなら笑っていたい。
 
「──ごめん」

 私は、この答えに笑えば良かったのだろうか。でも無理矢理に作った笑顔に何の意味があるのか。ほんの少しだけ引き攣った笑顔を作りかけた口元はこう答えていた。
 私の眉間に置かれていた指はその声にピクッと震えたあと、するりと頬の方へ下りてきた。頬に添えられた手にぎくりとした私の顔はこのときになって初めて彼の顔を見上げた。
 さっき私に言ったみたいに少し寄せた眉。その下にある瞳には苛立ちが見える。ゆらゆら揺れる瞳はまるで炎みたいだった。そう、あのときと一緒。
 すぐに過ぎった忘れたくても忘れられないあの日の記憶。咄嗟に反らした顔の前に出した手のひらに流川の唇がふわりと触れた。

「何で避けんだ」
「ひさ……寿くんと付き合ってるから! 私は……っ」
「……だから何だ」
「は……?」
「んなこと知るか」

 更に苛立ちに満ちた瞳が妖しく光った。顔の前に出した左手を掴まれて、後頭部に回った大きな手に強引に引き寄せられる。寄せられた唇は既のところで僅かに反らした私の左頬を掠めた。
  
「止めてっ!!」

 パン!という乾いた音が私の声と同時に教室に響いた。

 少し赤くなった流川の左頬。ジンジンと熱くなった私の右手がそれを目にしたあとぶるっと小刻みに震えた。「……ごめんなさい」それは唇で形を作っただけで言葉になることなく私の喉の奥に消えていく。
 じりじりと後退った足はそのまま教室を飛び出して行った。




 
 ──会いたい

 薄闇の中、パッと明るい光を放つ小さなディスプレイにその4文字が浮かぶ。ポタッ、ポタッと落ちてくる雫がその文字を歪ませた。


 眩しいネオン、目眩がするような道を行き交う雑踏、時折聞こえる線路が激しく軋む音。街の喧騒が私を飲み込んでいくようだった。

 送ることの出来ない文字を見つめながらそっとスリープボタンを押した。


 行き場を見失った足はふらふらと眩い光を放ついろとりどりのネオンに向かって歩き出した。

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