momentum+






11.衝突


 頬を伝う涙が雫になって地面に落ちていった。

 ようやく解放された唇にはまだ熱い感触が鮮明に残っている。その唇は何の言葉も紡ぎ出せずに荒い息を吐きながらふるふると震え出した。直視出来なくて目を逸らしたさっきの光景なんかより、私には今の方が余程耐え難い現実だったから。
 落ちていく雫が地面を濡らす。そんな繊細な音ですら聞こえてきそうなほど静まり返った夕闇の中、私達の何かが崩れて壊れていく嫌な予感だけが頭の中でカンカンと警鐘を鳴らしていた。



私と流川の顔を交互に見た寿くんの目は、恐ろしいくらいの怒りを宿していた。それを目にした体が唇と同じように震えだす。一歩一歩、私達の方に近づいてくる彼の歩調が何故かスローで、一歩踏み出すごとに彼の怒りが増しているような恐怖が私の身を縮ませた。
 会いたくてたまらない。そう思ってた人から今は隠れてしまいたいとすら思う。寿くんが私のすぐ目の前に来たの確認した瞬間、閉じた瞳が暗闇を作る。真っ暗になった視界の中、唐突にぐらっと傾いた体が一気に熱に包まれた。

「……お前、流川だよな? 頭どーにかなっちまったわけじゃねぇよな」

 頭のすぐ上から聞こえた言葉に反応して開いた目が映したのは、私を流川から引き離すようにして抱き留めている寿くん。そして、その彼を刺すような視線で見つめている流川だった。

「今すぐぶん殴りてぇくらいだけど、俺はお前のことを信用してるから一応聞いてやる。一体どういうつもりだ。正当な理由があるんだよな」

 私の肩にある寿くんの手が痛いほど私を強く掴む。怒りを抑えた低い声。自分が目にしたものを信じたくない。……そんな心の声が聞こえてくるようだった。

「自分こそ」
「あ?」
「違う女と抱き合ってたけど正当な理由でもあるんすか」
「あ、あれは違ぇ! 抱きつかれただけだ。つーかてめぇには関係ねーことだろーが!」
「泣いてた」
「……は?」
「こいつ泣いてた」

 寿くんと流川の視線が同時に私に注がれる。だけどその目の色はとても対照的だった。片眉を下げて後悔のような、申し訳無さのような、悲の色を燈した目。そして片方は燃えるような熱を持っていた。キスしていたときとはまた違う、苛立ちのような怒の感情が見て取れる。

「……それが理由か」
「別に……そーいう訳じゃねぇ。したかったからした」

 しれっとした顔でそう述べた流川の言葉がさっきの行為を思い出させる。あれは全て現実なんだ。だからこそ今こうなっているのに私はまだ嘘だと思いたかった。
 目の前にある寿くんの腕をぎゅっと掴むと、同時にその腕がぶるぶると震え出す。見上げれば抑えきれない怒りを露わにした寿くんが流川を睨んでいたんだ。

「……てめぇ……ふざけんなよ! 人の女だって分かってるよな?! そんな了見もねぇのか?! こいつが嫌がってることも分かんねぇのかよ!!」
「誰の女とか関係ねー。泣かせてばっかの先輩といる必要ねーだろ」
「お前っ……!!」

 瞬間、目の色が変わった寿くんの腕が振り上がった。

「や……やめて……っ!!」

 流川に飛びかからんばかりの勢いの寿くんを押し留めるように必死で彼の体に抱きついた。
 何で……何でこうなっちゃったの…?こんなのおかしい。二人とも今まで仲良くやって来てたのに。普通にいい先輩後輩だった。それなのに………!
 一瞬だけ私を見て勢いを止めた体は今も怒りでぶるぶると震えていた。いくら考えてもこの場を収める方法なんて思い浮かばず、ただオロオロしているだけの自分に心底嫌気がさす。

「ごめんなさい、寿くん! 私が逃げたからいけなかったの。私が……っ!」

 私があのとき逃げなければ。ちゃんと現実を真正面から受け止めていれば。きっとこんなことにはなっていないんだ。そんなことを今更思っても意味なんかない。だけど思わずにはいられなかった。

「違ぇだろ! お前じゃねぇ、コイツが……!!」
「だって今まで仲良くやってきたじゃん!! 一緒にバスケしてきた仲間でしょ?! こんなの嫌だよ!」
「だからそれを壊そうとしてんのは……!」
「違うよ!!」

 寿くんが私を見る目は未だ後悔の色が滲み出ていた。そんな彼が流川を責めようとする声を遮って私はくるっと流川に向き直る。
 彼もまた最初と同じように怒りの色が消えない瞳を私に向けていた。それが何に対する怒りなのかは分からない。私に対してならば怒ってくれればいい。前みたいに。そうしたらもう何もなかったみたいに前みたいに戻ればいいじゃない。
 寿くんが制止する声を聞きながらも、ふらふらと流川の方に歩いて彼の腕を掴んだ。

「ねぇ、流川……! 私が泣いちゃったからいけないんだよね? どうにか止めようとしてくれたんでしょ?! ……私のことなんて何とも思ってないよね? ……そうだよね?!」

 私が腕を揺さぶりながら言った言葉を聞いた流川の目が僅かに見開いた。それが一時の間だけ色を失ったかと思うと再びみるみる怒りに満ちていった。 今度は分かった、それが私に向いていると言うことが。

「……ざけんな。んなことも分かんねーのか」

 私の手を思い切り振りほどくと流川は私に背を向けて元いた方へと歩き出してしまった。

「おい流川!!」
「帰る」

 寿くんの声にも流川は振り返ることはなかった。ごく小さく返ってきた低い響きだけを残して彼の背中はあっという間に落ちてきた空の闇に紛れて見えなくなってしまった。
 振り払われた手がじんじん痛む。最後に私を見た流川の目は私を責めるものだった。私はきっと彼を傷つけてしまったんだ。
 ……だけどどうしたら良かったのかももう分からない。



 どれくらい沈黙していただろう。流川の背中を見送った私達は、夕日が完全に沈んで真っ暗闇に包まれても声を出すことなくその場に佇んでいた。
 幸せな時間を過すはずだった。本当だったら今頃私達は笑い合っていたはずなんだ。
 乾いた涙がはりついた頬に触れる夜の冷たい空気が痛い。こうしている間にも残り時間が刻々と近付いてきているのは理解していた。だけど私の頭の中に巡っていくのは去年みんな一緒になって頑張ってきた日々だった。たまにちょっとしたケンカをするようなことはあっても、寿くんも、流川も……チームメイトとして共に同じものを目指してきた仲間だったのに。
 ここに来てもう何度となく聞いた近くを走る電車の音が小さくなっていったとき、私の手に大きな熱が重なった。物言わず強く握る手に私も指を強く絡めた。それでもまだお互いに喋ることのないまま暫くその温もりを感じていると、寿くんがポツリと呟くような小さな声を出した。

「もう部活行くな」

 ずっと黙っていたからか少し掠れた低い声。その言葉に驚いて顔を見上げると、寿くんはまだ流川が歩いて行った方向を真っ直ぐ見ていた。

「どこにも行くな。……ずっと俺の近くにいろ」

 寿くんが言っているとは思えなくてその唇の動きを追いかけた。ぎこちなく小さく動いた厚めの唇は言葉を吐き出したあと、ぎゅっとその両端を締め付けた。結んだ唇が表しているのはきっと後悔で。今言ったことが出来ないことは寿くん自身よく分かっていることだと思う。……だって、それが出来るのならば私だってそうしたいから。

「悪ぃ。何……言ってんだろうな、俺」

 寿くんの言葉に何も返せず彼の顔をただ見つめていると、彼は顔を覆いながら溜め息を吐いた。
 言いたいことはたくさんある気がするのに何一つ言葉に出てこない。ここに来る前あれこれ考えてたこと、試合を見たこと。それに……樹里さんのことも、そして流川のことも。ちゃんと話さなくちゃいけない。話し合わなきゃいけない、今までのこともこれからのことも。
 それでも動かない私の唇の代わりに寿くんが私を胸の中にすっぽり包み込んだ。久しぶりに感じた寿くんの熱と匂いが私の心にじわじわと浸透して優しく強張りを解いてくれる。背中に腕を回すと更にその匂いが深くなり、奥の方からふわっとあの香りを感じた。

「寿くん……。香水つけてくれたの?」
「あぁ。着替えたあとに少しだけな」

 今するべき会話ではないかもしれない。だけど少なくとも今の私には必要だった気がする。苦しくて締め付けられていた喉にようやく空気がすぅっと通って軽くなった。
 それは寿くんも同じだったみたいで、皺の寄った眉間と硬い表情が少し緩んだ。そうして「ごめん」と呟いたあと、腕を解いて私の顔を真っ直ぐ見つめてくれた。

「樹里とは本当に何もねぇから。誤解させるようなことして悪かった」
「……うん、分かってる。ごめん……逃げずにちゃんと話せば良かったんだよね」
「……流川は」

 何であんなことをしたのか。それを問われてるのだとすぐに分かってコクンと生唾を飲み込んだ。今考えれば、抱きしめられたときに相談しておくべきことだったのかもしれない。

「前に寿くんが来れなくなっちゃったとき、あったでしょ? 電話くれたとき、流川と一緒に帰ってて……そのときに泣いちゃった私を流川が……抱きしめて……」

 そう言った途端、またもや寿くんの眉間にくっきりと皺が入る。

「お前……そーいうことは早く言え!」
「ご……ごめんなさい!」
「だいたいお前はよ、そんなことされた相手となに一緒に残って俺を待ってんだよ」
「だ……だって、寿くんとワンオンするって言って聞かないから……! それに抱きしめられたきり、別に何もなかったし」

 眉を下げながらしどろもどろに答えれば、寿くんはまた大きな溜め息を吐いた。
 でもこれは、告白された相手にまんまと抱きしめられた寿くんにも言えることなわけで。それを知らないことになっている私は何も言えないけれど、何となく腑に落ちない。
 呆れたような顔をしていた寿くんの目線が少し下に下がった。それが私の唇を捉えたのだと分かったとき、彼の親指がそこをゆっくりなぞっていった。

「……ひさ……しくん」
「俺のもんだろ、ここは」
「……うん」

 唇に触れるものが指から彼の唇に変わるのにそう時間はかからなかった。まるで印をつけるように何度か上唇下唇を吸ったあとにぬるっと寿くんの舌が入り込む。
 さっきのキスの上書きをしているみたいに強引に私の口内を溶かしていった唇が離れて今度は耳、首筋に流れていった。

「………っ」

 擽られているようなゾワッとした刺激が耳の後ろから全身に広がっていく。耐えきれなくて寿くんの背中をぎゅっと掴めば、彼の顔が首元に埋まる。

「ここも……全部俺のもんだ」

 鎖骨のあたりにチリッと甘い痛みが走る。それはすぐ離れてまた反対側の鎖骨の上に赤い花を咲かせた。何個もそうやって印を作っていった寿くんの唇は再び首筋に戻って更に同じものを作るべくそこに吸い付いた。

「……寿くん、そこだとみんなに見えちゃうよ。恥ずかしい」
「分かっててやってんだよ」

 そう言って間もなく“ぢゅうっ”という音と疼くような甘さと痛みが走った。

「俺のもんだって印が見えねーと意味ねーだろ」

 そうしてまた反対、そのすぐ上……と寿くんは同じ印を作っていった。強く拒めないのは私も痛いくらいその気持ちが分かるから。
 いくらこうして印をつけたところで私達は明日また別々に違う場所でいつもの日常を送るんだ。表面化した問題は何一つ解決なんてしていない。そしてそれを解決する手段も分からない。だって人の気持ちなんてコントロールできないから。
 このまま時が止まってしまえばいい。叶うわけのない希望を抱きながら刻々と近づくタイムリミットまでの時間を寿くんの腕の中で過ごした。



 眠れない夜はあっという間に陽が昇る。
 
 眠い目を擦っていつもの場所へ訪れれば、既にボールの音が響いていた。それは全くいつも通りのリズムで何の変化も感じない。帰る途中も、帰ってからも、延々と私の頭を支配し続けた昨日の出来事。……流川の顔。それらが再び蘇って私の足を止めた。
 私はこれから彼とどう接していけばいいんだろう。答えが出ないまま訪れた今日に足が竦む。 体育館の扉の前で動けないまま俯いていると、聞こえてきた一つの足音が私を驚かせた。

「うーす。何固まってんだ」
「リョータ先輩!」

 まるで引退する前みたいにごく自然にこの場所にいて一瞬目を疑ってしまった。

「ど、どうしたんですか? 練習来るの久しぶりですよね」
「夜、三井さんから連絡あったんだよ。お前の様子見て欲しいって」

 連絡したのなら昨日私と別れてからだからリョータ先輩からすれば本当に急な話だ。それなのに本当に朝早くから来てくれるなんて。

「午後はアヤちゃん来るし、明日はヤスが来るから」
「彩子さん……? 安田先輩も?」
「ウィンターカップ近いんだから内輪揉めしてる暇ないだろ。交代で来てやるから部活に集中してろ」
「ごめんなさい……っ」
「あー、バカ! 泣くなって! 俺が泣かしたみてーじゃん!」

 泣いてしまった私を見て慌てふためいたあとにヨシヨシと頭を撫でてくれたリョータ先輩は、最早先輩と言うよりもお兄ちゃんみたいだ。

「折り見て流川と話すから、お前は気に病まなくていいよ。それよりしっかりチームのこと見とけよ」

 腫れぼったい目をまた腫らしていくだろう涙をごしごし拭いながら何度も頷いた。
 だけど実際問題引退した先輩達に頼ってばかりいられない自分達の問題で、でもこうって来てくれたことが死ぬほど嬉しくて。自分を情けなく思いながら温かくなった胸を静かに撫で下ろした。
 リョータ先輩に促されながらゆっくり体育館のシャトルドアを開く。昨日みたいに逃げちゃいけない。それだけが唯一私の胸に残った真実だった。

prev< return >next


- ナノ -