momentum+






10.咲いてしまった気持ち


 カーテンの隙間から入る薄明かりと遠くから微かに聞こえる車が走る音。目が覚めると広がる景色も聞こえる音も……全てがいつも当り前に訪れる朝だった。
 いつもと同じようにお砂糖たっぷりのコーヒーを口に運びながらテレビをつける。神奈川と茨城の天気予報をチェックする。寿くんが褒めてくれたカラーのリップをのせて鏡を眺める。
 いつも通りのはずなのにいつもとは違う面持ちをした自分に違和感を覚えながら、いつも通りハンカチに香水を振りかけて家を出た。

「……おは……よう」

 眠いはずなのにいつも通り朝一番に体育館に来ている彼に声をかけると、いつもと変わらず薄っすらとしか開いてない瞳を此方に向けて頷くだけの返事をくれた。
 私を迎えたあまりにいつもと変わらない日常が、私を更に混乱させた。もしかしたら昨日のことは全て夢なのかもしれない。
 だけど……次第にきつくなっていった腕の感触も、ほんのり感じた汗の匂いも、今も私の中から消えずにリアルに残っていた。  





「流川が変?」

 手に持ったサンドイッチを口に運ぼうとしていた彩子さんが目を丸くした。彩子さんと同じくサンドイッチを買ってきたけど封を開けてすらいないし食べようという気もおきない私は、それを握りしめながらコクッと頷く。

「寿くんが……今日、来るはずだったんです。だけど来れなくなったって…昨日電話がかかってきて……。あ、その時たまたま流川と一緒に帰ってたんですけど」

 サンドイッチをもぐもぐと咀嚼しながら彩子さんが私を見つめる。
 あのときの感覚はやたらリアルに残っているのに、その出来事に一切リアリティを感じない。思い返すように辿々しく言葉を紡ぐのが精一杯だった。

「それで……泣いちゃったんです、私。そうしたら流川が……あの、……えっと……その……」

 口に出そうとは思うものの肝心な部分が喉に突っかかって中々出て来ない。……だって、やっぱりあれは現実に起こり得ることじゃないと今でも思うから。

「怒ったんじゃないの、流川」

 キョトンとした表情を向ける彩子さんの視線すら居心地が悪い。ふるふると首を横に振ってから、つっかえていた言葉を恐る恐る口に出した。

「……だ……抱き締められたんです!」
「ごっふっ……!」
「あ…彩子さんっ?!」

 思い切りむせてしまった彩子さんの背中をさすると、彼女は信じられないものを見たような目を私に向けた。……分かる。私も信じられないのだから。
 しばらく咳き込んでから胸をさすって彩子さんがハァと息をつく。何か考えるように私を見つめて彼女は口を開いた。

「……なるほどね。流川がやたらアンタに冷たくなった原因がようやく分かったわ」
「……原因?」
「進級してから流川、アンタにキツくなったでしょ?アンタ達クラスが一緒になって過ごす時間が増えたのが原因の一つかと思ってたんだけど。そうじゃなくて名前に恋したのが原因だったのよ」
「こ、い、………………恋?!」

 言われた言葉を口にしてみても違和感しか出てこない。 正直に言えば、その答えが出てこなかったわけではない。だけど、ありえないのだ。だって私たちは同中で男女違うけれど同じバスケ部で過ごしてきた。別に仲が良かったわけでもないけど、恐らくお互いのことはよく理解してると思う。彩子さんが同中の良き先輩であるように、流川も同じように同中の親しい同級生の一人だと思っていた。
 流川だってそうだと思ってたんだ。彼が私のことをそんな目で見る日が来るなんて思わなかったし今も思えない。だって今まで散々そうやって過ごしてきたんだよ? 何で? 何で? そんなバカな……!

「まぁ、実際のところ分かんないけどね。だけどそれが一番しっくりくるわよ」

 彩子さんはそう言ってから、未だ一連の事実を受け止めきれない私の頭をポンポンと撫でてくれた。

「私……これから流川とどう接したらいいんでしょうか」
「別に何か変える必要ないわよ。下手に意識して拗れる方が困るでしょ? アンタには三井先輩がいるんだし、今まで通り普通に接してればいいのよ」
「普通……」

 普通ってなんだろう。私は今までどうやって流川に接していたんだろう。 何かを変える必要はない。彩子さんはそう言ってくれたけど、もう既にその何かがすっかり変わってしまった気がする。
 未だ封を切ることが出来ない手元のサンドイッチをぼんやり眺めながら、一年前のあの日々を思い出した。
 私の元に帰ってきた恋の裏にある散ってしまった恋。一度花開いてしまったものは元には戻らない。



>December.

 吐く息が白い。身を縮めるような寒さを感じるようになってきたけれど、今日この場に於いてはその寒さすら吹き飛ぶくらいの熱で満たされていた。

「めっっちゃくちゃ凄かったな!!」
「大学になるとこんな変わるもんなのかな。桁違いの迫力だった……!」
「三井先輩フルじゃないのに21得点だぜ? 相変わらず……というか、更にとんでも無く上手くなってたよ」
「ふっふっふ。ミッチーも中々やるようになったようだな」
「お前は本当に分かってんのか、どあほう」

 試合は終わったけれど、まだまだ熱は冷めない。みんなそんな感じで口々に感想を言い合う。石ちゃんが言ったように高校バスケとは違うプロを見ているのにも近い凄まじい熱気に私も圧倒されていた。そしてその中にいる寿くんが一際私には輝いて見えた。たぶんこれは私の欲目なんだろうけど。
 インカレ初日の今日。寿くんが出る試合に二年生メンバーで観戦に訪れた。珍しく午前練習だけだったことと、開始が夕方からだったことで今回初めて進学後の彼の試合を観ることが実現した。
 彼の近くで彼の成長を見守っていたときとは全く違う感覚だった。どこか遠くて手が届かない、プロのプレイヤーを応援しているみたいな感覚に近いのかもしれない。それに寂しさを感じはするけど、大学バスケの中で揉まれて想像以上に腕を上げていた寿くんが見れて胸がいっぱいだった。

今日は少しだけど試合後に寿くんと会うことになっている。もう何ヶ月ぶりだとか数えるのも億劫で、兎に角ようやく会えることに朝から気持ちばかりが前のめりしていた。早く会いたくて会いたくて胸が疼く。

「じゃあ名字さん、俺達は帰るね。三井先輩によろしく」
「うん。伝えておくね」


会場の前でみんなに挨拶をして手を振ると、駅の方に歩いて行った4人を残して一人の影が物言わず私の隣に佇んでた。

「おい、何してんだキツネ!! 貴様も帰るんだよ!」

 あまりにも当たり前のように私と一緒になって彼らを見送っていた流川を見上げて絶句していると、花道が湯気を上げながら此方に戻って来た。一方の流川は花道に怒鳴られようがいつものように顔色を変えることはない。

「俺も残る」
「馬鹿野郎! テメーはお邪魔虫なんだ!! よく考えろ!! デリカシーというもんがないのか!?」

 いつもの大きなジェスチャーで流川の周りをウロウロしながら花道が訴えるも流川は煩わしそうにするだけで全く動く気配はない。いつもは花道がめちゃくちゃなことを言って流川を困らせているが、今回に至っては珍しくまともなことを言っている。流川の方も単にみんなと帰るのが嫌だというわけではなさそうだ。

「……流川どうしたの?」
「先輩とワンオンしてねー。勝負したら帰る」
「でも寿くんは試合の後だし疲れてるから……」
「俺と勝負したいって言ってたんだろ」

 彼の口から出た“あの日”の話で、蘇った熱の感覚と匂いにグラッと目眩を覚えた。私を見据える目はこの意見を変えることは無いだろう。

「花道、いいよ。流川と残る」
「でも名前さん! ミッチーとは久しぶりに……!!」
「どっちにしても素直に帰りそうにないし。寿くんに相談してみるよ」

 今度こそみんなと別れて流川と二人会場の前に残る。
 試合が終わったからといってすぐに解散になるわけではない。それを見越して持ってきていたウールのコートを着込んで外階段に腰掛けた。それを見て少し離れて隣に座った流川は薄めのジャケットだけで肌寒そうだけど、彼の涼しい顔はそれを全く感じさせない。
 たまに入ってくる車。それに乗る人、ぽつぽつ疎らに通っていく人影。近くを走る電車の音。それらを見聞きして座っている私達二人の間は全くの無音だった。私も流川も口を開くことはない。
 流川が何を考えているのか私には分からない。妙に静けさを感じる空気の中で、頭に浮かぶのはあの夜のことばかりだった。
 流川からあのときのことに触れられることはなかった。流川の態度が目に見えて変化することもなかった。一見すれば、私達は前と何も変わらないチームメイトであり、クラスメイトであったと思う。本当に夢でも見ていたのではないと思ってしまうほど。
 だけど、ほんの僅かに流れる空気は確かに変わっていた。それが何なのかを説明するのは難しいけど、何か一つでも小さな綻びがあれば簡単に今の関係が崩れてしまうような危うさをはらんでいた。だから私は彩子さんが言ったように“今まで通り”に努めていた。そう出来ていたのかは分からないけれど。
 そうして今日になって初めて流川の口から出た”あの日“の欠片。無性に怖かった。何かが壊れてしまいそうで。
 早く来て、寿くん。祈るように彼を待ちながら無音の時間をただひたすら待った。

 ようやく寿くんのチームメイトや対戦チームの人達が会場から出て来るのが見えて、心の中にホッと温かな風が流れるのを感じた。ぞろぞろと出てきた人影の中を目を凝らすようにして彼の姿を探した。
 一年生だからなのか、中々姿を現さない寿くんに焦りのような苛立ちのような感情を覚えながら棒立ちになって会場の出入口を見つめていると、見覚えのあるシルエットが出てくるのが見えて思わずぴょんと飛び上がる。

「あ、来たかな」

 私がそう言うと座っていた流川もゆっくり視線をそちらに向けた。少しずつ大きくなってくる寿くんの姿に胸が高鳴っていく。不安で怖くて震えていた心がゆっくり解れていくのが分かる。こうして彼を目にする度、彼の存在の大きさを実感する気がした。
 だけど私の心は再び硬直し震え始める。

「待って寿!」

 録画でも見ているように全く一緒だった。
 寿くんの大学まで行ったあのときみたいに遅れて現れたあの人。寿くんに駆け寄って彼のウィンドブレーカーをギュッと掴む。
 場所が違うだけ。格好が違うだけ。日時が違うだけ。あの日のドラマはまだ終わっていなかった。少し離れた外階段から見えるそれは、やたらドラマチックにスローリーに流れ始めた。

「……名前と約束してんだよ」
「やだっ! 行かないで……!」

 しがみつく樹里さんを振り払うようにして寿くんが前に進む。だけど強い力でそうすることは出来ないのだろう、緩く払った腕から彼女の手は離れることなく寿くんを掴み続けていた。

「だから……何度も言うけど、お前の気持ちには答えらんねぇって……」
「それでもいいから! ……お願い、行かないで!」

 樹里さんの白い手がウィンドブレーカーから離れて、するりと自然に寿くんの首の後に絡んでいった。
 一瞬キスをしているのかと思ってしまうほど二人の距離は密着していた。……寿くんが違う女の人と抱き合っている。正確に言えば違う。抱きつかれているだけだ。それは分かってる。……分かってる……けど……。

「樹里! やめろって!」

 今度こそ強い力で彼女を自分から引き剥がした寿くんが頭を抱えるようにしながら此方に体を向けた。
 距離は離れているのに鮮明に、そして凄くゆっくり見えた。寿くんの黒目が私を捉えて、その瞳が大きく見開かれる様が。

「名前……!」

 彼の声が聞こえたと同時に動いた足は、何故か彼とは真反対に向けて走り出した。
 理由なんて分からない。離れたかった。直視したくなかった。怖かった。悔しかった。色んな感情があるけどどれも不確かで、溢れるようにまた別の感情が生まれてくる。足を踏み出すごとに出てくる涙が流れて後ろに線を作っていった。
 自分がどこに向かっているのか、自分がどうしたいのか、何も分からないまま走り続けていると後から自分とは違う足音が近付いて来るのが聞こえてきた。
 過ぎったさっきの寿くんの驚いた顔にぶるっと体が震えた気がした。

「おい、名前!」

 熱い手が私の腕を捉えた。
 私の足を止めたのは寿くんじゃなかった。私と一緒に彼を待ってた人。

「なに逃げてんだ」

 流川の存在がすっかり頭から抜けてしまっていた自分に呆れてしまう。焦りもしない、動揺してすらいない彼の強い瞳が私の頭を少しずつ冷やしていった。

「……そう、だね。……何、してんだろ、私」

 来てくれたのが流川で良かったのかもしれない。寿くんに止められていたら、私はきっと冷静ではいられなかったと思うから。
 逃げたってどうにもならない。それはちゃんと理解してる。寿くんが悪いわけじゃない。それだってちゃんと理解してる。問題は私の気持ちなんだ。現実を受け止められない私の。だけど一人で考えていたってそれも解決しない。
 乱れた呼吸を整えるように何度か深呼吸して、私を掴んだままでいる流川にペコッと頭を下げた。

「ごめん。……ちゃんと話してくる」

 そう言って元いた方へ向かおうとしたものの、まだ流川の手は離れない。

「流川……っ?」

 見上げた流川の瞳に少しの苛立ちが見えて体が強張った。 ”名前に恋したのが原因だったのよ” ……彩子さんの言葉が蘇る。
 その瞬間、あの夜の熱が、匂いが、再び私を包み込んだ。

「もう止めればいい」
「なに……が……」
「お前泣いてばっかじゃねーか」
「それは……寿くんが好きだから……」
「俺は泣いてる顔見たくねー。そんな泣いてんのに付き合ってる意味あんのか?」
「意味……って」

 耳に入ってくる速い鼓動が私の思考回路を狂わせる。 意味なんてない。好きだから。…好きだから、そばにいたから。だから……。
 早く振り解かなくちゃ。さっきの光景を見て逃げたのに何で私が抱き締められてるの? 早く……早く……!
 くしゃくしゃになっていく頭の中。それと流川から逃れるように必死に体を捩って腕を突っ張った。だけど私を縛る腕は解けない。
 片方の手が私の顎を強引に掬い上げて、熱のある流川の瞳が私の瞳を真っ直ぐ射抜いた。

「やめ……っ!」

 その瞳から想像出来ることなんて一つしかなかった。逸らそうとした顔は顎を掴んだままの流川の手に止められて、大して動くこともないまま自分の唇に熱が触れた。

「………っ……るか………っ」

 流川がこんなことをするわけがない。頭の端っこで何かがそう否定している。だけど何度も角度を変えて私の唇に食らいついてくるそれは激しくて熱くて強引で……間違いなく流川そのものだった。
 離しても離しても追いかけてくる流川の唇から逃れたくて何度も顔を左右に振ってみても、流川の手によって定位置に戻される。きっと流川が口を吸いやすい、右斜め上を見上げた形に。

「ねぇ……っ! 本当……やだ……っ……!」

 息継ぎで流川の唇が離れたタイミングで浅くなった呼吸を必死に繋ぎながらそう叫んだ。それでも私を流川の瞳が色を変えることはなかった。もう一度下りてきた影から逃げるよう顔と視線を逸した。最初と何一つ変わらない、無駄な抵抗だったけれど。
 また自分の唇に熱が灯ったのと同時に止まっていた涙が溢れてきた。こんなんなら喧嘩ばかりの方がずっと良かった。怒られたっていい。それでも一緒に一つのものを目指す仲間に違いなかったんだから。
 何がいけなかったの? 私が何か間違えたの? 戻れるなら戻したい。何もなかったときに。お願いだから誰か時を戻してよ。
 馬鹿みたいなことを考えながら涙を流すことしか出来なくなった頃、タン……と何かが石畳を踏む音が耳に入ってきた。

「名前!!!」

 息が止まってしまうかと思った。……止まってしまえばいいと思った。
 後から大きく響いた怒りをはらむ声は、紛れもなく彼のものだったから。

 私を見守る神様はいつだって意地悪で試練ばかり与えてくるんだ。

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