momentum+






09.それぞれの想い


 香りが呼び起こすのはあの日の記憶。

 隆起した逞しい胸と腕に包まれた温もり。厚くて柔らかな唇の感触、その唇から紡ぎ出された言葉。その全部が私を包むように抱きしめる。
 見えないけれどそばにいる。そんな感覚が寂しさの代わりに少しだけ強さをくれる。



>September.

 夏休みが終わり、通常通りの学校生活が始まった。引退してしまった三年生の気配が段々と薄れてそれが体に染み込んでいく。
 もう居ないのが当たり前なのだ。彼らの存在にもう寄りかかって頼ることは出来ない。自分達だけで立って前に進まなくてはいけない。寿くんが行ってしまったときに似た喪失感を私は再び味わっていた。

「ふん!! 何っでテメーに指図されないといけねーんだ!!」
「俺がキャプテンだ。副キャプテンは黙って従え」
「俺は認めてねーぞ!! テメーがキャプテンなんて! 真のキャプテンはこの天才桜木!! お前こそこの天才に黙って従え!!」
「誰がてめぇみたいなどあほうに……」
「なにィーーー?!」

 片やこの場所を飛び越えて校舎にまで届くのではないかという大声で怒鳴り声を響かせて、もう片方はそれにかき消されそうな静かな声なのに何故かずしんと響く低音で怒りを返す。
 この一月の間に幾度となく繰り返されているやり取りに体育館の中は焦りの表情やため息でいっぱいだった。三年生がいなくなった不安を埋めるどころか、それを増長しているのがここのトップ2人だなんて。

「いい加減にしなさい!!」

 二人の頭の上を滑り小気味いい音を響かせたのは彩子さんから譲り受けたハリセンだ。それを受けて大人しくなった二人は苦々しい顔をして互いに背を向けた。

「名前さん! やっぱ納得いかないっすよ! この天才が流川の下なんて!」
「下じゃないよ。ただ便宜上、副ってついているだけで立場は同じなの。一緒に手を取り合ってバスケ部をまとめようねって前にも話したでしょ?」
「そ……そうすけど……」

 彼特有の大きな身振りで不満を訴えていた花道は、諭すようにそう言うとようやく勢いがおさまってくる。この争いは絶対に起こるべくものだとリョータ先輩達が引退するときにも散々話し合った。
 花道も頭では分かっているのだろうけど、感情の部分でまだ納得が出来ないのだろう。

「流川も! リョータ先輩に二人で力を合わせて頑張れって言われたよね? 喧嘩するんじゃなくて協力していかないと!」

 未だそっぽ向く背中に声をかけると、鋭い視線を一瞬だけ寄越した流川は再び私に背を向けて溜息をついた。

「うるせぇ。てめぇに言われる筋合いはねー」
「……は?」

 瞬間、額の血管が浮き上がってぴくぴくと動いた気がした。まるで赤木先輩みたいに右手の拳がぶるぶる震え始める。大きく吸い込んだ息が私の口から怒鳴り声になって吐き出されるようとしたその瞬間、形の異なる影が目の前に飛び込んできた。

「る……流川くん! ほら、練習がストップしちゃってるから頼むよ!」
「そうそう! さっきの続きで1年に指示出してくれないかな!」
「こっち来て!桜木くんも一緒に! ね?!」

 桑ちゃん石ちゃんササくんが二人を取り囲むようにしてコートの中に引っ張っていくと、まだ不満そうにしながらも流川も花道も大人しく戻って行った。
 止まっていた練習が再開されたのを見てハァと溜め息がこぼれた。ジャージのポケットから引っ張り出したハンカチを口元に当てて気持を落ち着かせるようにゆっくりと呼吸する。すると布の奥に染み込んだフルーティーで甘酸っぱい香りが鼻を抜けていった。
 呼び起こされた気配にじわりと涙が滲む。そこにいるはずのない彼に抱き締められて居るような柔らかな感覚が私を包み込んだ。
 肩肘張ってないで力抜けよ。お前は一人で何とかしようとし過ぎなんだよ。
 寿くんならきっとそう言うだろう。強くならなくちゃ、強くあらなくちゃ。そんな想いばかりが私の中で前のめりになって存在している。思っていたよりもずっとしっかりチームを纏めようとしてくれている同級生達に目をやりながらハンカチを握りしめた。
 香水をふったハンカチは寿くんを近くに感じる新たなおまじない。




>October.

「何してんすか!! せっかくのチャンスじゃないすか!」

 花道のよく通る声が大きく木霊した。

 日が沈み、繁忙時間を過ぎたホテルのロビーは静まり返っている。そんな中にこの声は行き来する人達の注目を集めるには充分だった。
 突き刺さるような視線を感じながら慌てて人差し指を立てて合図してみるも花道には何の効果もない。

「それは分かってるよ。だけどね……」
「この辺なんすよね?! ミッチーの大学! 俺が名前さんならすぐ会いに行くのに!」
「でも……遊びに来てる訳じゃないし」
「そんなん、ちょっとの間でしょ! 誰も怒りゃしないっすよ!」

 捲し立てる花道の言葉から逃れるように視線を外すと、大きな窓ガラス越しに赤くなり始めた木々が見えた。季節の移り変わりの早さにうら悲しさを覚えながら、その見慣れない景色をぼんやりと眺めた。
 10月の国体、今年はここ茨城県で開催されている。……そう、寿くんの大学がある県だ。花道が言うようにここからそれ程離れていない場所に大学がある。行こうと思えば行けるのだ。

「最後に会ったのいつすか?」
「お盆だけど……」
「ぬぁ! 2ヶ月も経ってる……!!」

 大袈裟なポーズで頭を抱えた花道を見て少し笑みが漏れる。あの花道がこんな風に私と寿くんのことを心配して気にかけてくれていることが意外で……そして嬉しかった。
 だけどやっぱりここには試合の為に来ているし湘北だけではない選抜された他の高校の面々もいる。私一人が勝手な行動をするわけにはいかない。それを分かってるから寿くんだって何も言わないんだから。
 もし寿くんが試合を観に来てくれたら……。それこそ少しでも会えるかもしれないという期待もなくはなかった。だけど向こうも試合の真っ只中だ。結局私達に会うという話が浮かび上がらないまま時が流れていた。

「ほら!! 早く!!」
「えっ?! 待って、何?」

 背中を押されてエントランスの方へどんどん押し出されていく。抵抗はしたけれど花道の力に勝てるわけもなくあっという間にホテルの外へと出ていた。

「行ってきてください! 流川達にはこの天才が上手く誤魔化しときますから!」
「いや……! でも!!」
「明日が最終日なんだから今日逃したら会えねーっすよ!! 早く!!」

 花道の強い瞳に背を押されるように躊躇していた足が走り出した。


 夜の闇の中でぼうっと光るディスプレイからコール音だけが響く。画面をタップすると現れた時刻表示は20時を過ぎたところだった。
 いつも通りなら全体練習があと一時間ほどあるはずだ。奥の方から薄っすら明かりが漏れてくる大きな建物を見上げながら小さく息をついた。自分のやる事だってまだ残ってるのに何で飛び出してきたんだろう。
 花道の勢いに押された……だけではない。やっぱり会いたかったんだ。だけど流石に終わるまで待ってるわけにもいかない。何の考えもなく勢いだけで動いてしまった後悔が胸に沁みていく。
 せっかく来たけど……約束もしてないのに会えるわけないよね。ボールの音が響く建物を暫く見つめてからぎこちなく踵を返した。ホテルに戻ろうと歩き始めて程なくして、後ろから足音が聞こえてきて振り返ると体育館の奥から出てくる人影が見えた。
 見間違うはずのない大好きな人のシルエットに反応した体が一瞬間を置いて急ブレーキをかけた。続く小さな足音と一緒に見えてきた女性の姿が私の心を凍りつかせたのだ。

「寿! どこ行くの?!」
「ちょっと電話」
「まだ練習中だけど」
「名前からなんだよ。言ったろ、今アイツんとこ国体でこっちの方来てるって。だから……」
「だから何? こんな時間にかけてきたって会えるわけじゃないじゃない!」
「おい……。だとしても別に何時間も抜ける訳じゃねーんだから」
「ダメ!! うちだって今大事な時期でしょ?! あの子もマネージャーやってるなら分かってるはずじゃない! それなのに電話かけてきて寿の足引っ張るようなことするなんて、彼女としてもマネージャーとしても失格よ!」

 根が張ったように動かなくなっていた足がぶるぶると震えだす。遠くの方に見える光景がまるでドラマの様でもあり、自分とは全く別世界の出来事みたいだった。私もそこの一員に違いないはずなのに。

「大事な時期なのは分かってるよ。俺も、アイツだってそうだ」
「……だったら! あの子と会う必要ないなんてないでしょ!」
「何でお前、名前が絡むとそうムキになんだよ。アイツお前に何かしたか?」

 遠くからも切羽詰まったように見える樹里さんの次の言葉は聞かなくても分かった。それを聞きたくなくて動いた手が耳を塞ぐ前にすり抜けるように私の頭まで響いた。

「………好きなの!!」

「寿が好きなの……。だから……っ!」
「……悪ぃけど。お前の気持ちには答えらんねぇ」
「私ならずっとそばにいられるじゃない! 離れちゃって会えない子なんかよりずっといいでしょ? あの子なんかよりもずっとずっと寿のこと大切にする! ねぇ……お願い……!」
「俺がアイツに心底惚れてんだよ。アイツにずっと支えられてきたし、だからこそ大切にしたい。……だから、悪い」

 耳を塞ぐようにその場から駆け出していった樹里さんの後ろ姿を見つめる寿くんが段々と滲んでいった。私の頬を伝う涙は一体何で流れているんだろう。
 寿くんの言葉が嬉しかった? ……違う。そんな単純な気持ちなんかじゃない。
 握りしめていたスマホがブルッと震え始める。遠くの方で立ち尽くしている彼に目をやってから確認すると、ディスプレイには「花道」と表示されていた。タイムリミットだ。
 今すぐ彼の元に駆け寄れば、ほんの僅かな時だろうと話すことができるかもしれない。だけど私には出来ないかった。それをすることがとんでもなく無神経な気がしたから。
 スマホをタップする前、私の耳に響いたのはあの日の囁き声じゃない。

 彼女としてもマネージャーとしても失格よ!

ヤキモチから出た言葉だろうと的を得た、私を蔑む言葉だった。




>November.

 月あかりの下にカラカラと自転車の音がゆっくり響く。街灯の明かりが2つの長い影を作って私達をぼんやりと照らしていた。
 肌寒くなってきた夜は、まだ白い息を作ることはないけど人恋しさを煽る。だけど日々の忙しさが私の心を繋ぎ止めていた。

「だからね、さっきのとは違う文法を使ったほうが分かりやすいの」
「……」

 私の隣を歩く人を見上げながら今日の授業の内容をゆっくり説いてみているものの、その反応は会話しているとき以上に鈍い。ハンドルを握る手はしっかりしているが前を見る目は閉じかかっている。

「ねぇ、聞いてる? 流川!」
「……眠い」
「眠いじゃないよ! 今度こそ期末落とさないように頑張らなきゃ!」
「まだテストじゃねーだろ」
「そうだけど! せっかく珍しく一緒に帰ってるんだからちょっとでも勉強しようよ。今日の授業だって寝てばっかりだったでしょ」
「珍しく一緒に帰ってんだから勉強の話はヤメロ。お前の小言聞いてると眠くなる」
「……もうっ!」

 大袈裟にため息をついてから見上げていた視線を前に戻した。
 流川と一緒に帰ること自体本当に稀だ。たまたま帰り支度後に鉢合わせしたけれど、彼が一緒に帰ろうという気になってくれること自体が珍しい。二週間後にあるテストを前に少しでも勉強を……なんてつい考えてしまったのだけど、せっかく流川の気が向いたのだから今日は大人しくしていよう。
 相変わらず私への当たりの強さは変わらない。だけど桑ちゃん達、周りのフォローなんかもあるお陰か私達の喧嘩自体は減っていた。それもあって部活も変な気負いがなくなって割に穏やかに過ごせていた。

「……なに? 人の顔じろじろ見て」
「なに笑ってんだ」
「え? うそ……笑ってる?」

 勉強の話をしていたときは全く感じなかった遠慮のない流川の視線にたじろいでいると、そんな言葉を言われて驚いた。笑ってる自覚はない。だけど頬をぺたぺたと触ると確かに私の頬は緩く持ち上がっていた。

「お前、今日一日そんな顔してたな」

 笑っていたと言うのなら思い当たることは一つしかなく、流川にまでバレるほどダダ漏れだった自分の感情に呆れ、そして恥ずかしく思う。

「明日、寿くん……三井先輩が来るから」

 お盆から数えると三ヶ月ぶりだ。国体のときに大学に行ったのは一方的に見ただけだし、未だ複雑な感情が残っている出来事だったから。
 ようやく目を見て話せるのだ。抱きしめてもらえる。温もりを感じられる。考えるだけで胸がいっぱいだった。

「単純だよね、私」

 寿くんのことだけで簡単に浮き沈みしている自分が今日に限っては少し可愛らしいとさえ思えた。会えるという喜びに満ちているからこその感情だけど、それほど寿くんが好きなんだ、と。

「流川とワンオンしたいって言ってたよ。明日付き合ってあげてよ」
「いーけど」
「寿くんもだいぶ腕上げたと思うよ。今度はどっちが勝つかな」

 寿くんが在学中にたまに行われていた勝負は両者とも譲らない激しいものだった。思い返して懐かしくなり、去年よりずっと強くなった二人の勝負が見られることに胸が踊る。
 自然に緩んでいた表情に注がれた視線を感じて流川を見上げると、何か言いたげな顔で私を見下ろしていた。

「どうしたの?」
「……別に」

 今日はやたらと流川から見られている気がする。それだけ私が浮かれているのかもしれない。
 流川が視線を戻した先に見えるT字路で、ちょうど私達の帰り道が別れる。

「あ、じゃあ私はこっちだからまた明日ね」
「送る」
「………え、と。大丈夫だよ? 知ってるとは思うけど、私だいぶ前に引っ越したから電車乗らないといけないし」
「……じゃあ駅まで」
「じゃあ……お願いします」

 珍しいな。今日は珍しいこと続きだ。流川が一緒に帰る気になったことも、送るなんて言い出したことも。普段の突慳貪な態度から考えると少しくすぐったい。
 それを嬉しく感じながら駅へ向かう道へと曲がると、通学バックの中から振動音聞こえて慌ててバックのファスナーを開いた。

「寿くん! どうしたの? ……うん、今帰ってるところ」

 スマホに表示されていた名前に飛び上がるほど嬉しくなって、流川に断りもなく通話をマークをタップしていた。

「え? ……大丈夫だよ。今日は流川が送ってくれてるし。……うん。あはは、珍しいよね。
 うん! 明日いつ来る? ……え? ………そう、なの」

 大好きな人からの電話で綻んでいた顔がみるみる強張っていった。そんな私を黙って見つめている流川と視線が混ざる。私と違って表情の変わらない彼は何を思ってるんだろう。

「いいよ、気にしないで。………うん、分かってる。………うん、絶対だよ」

 耳から離したスマホを持つ手が力を失ったようにぷらんと落ちていった。未だ私を見つめ続ける視線から顔を逸して取り繕うように静かにゆっくり息を吸い込んた。それでも詰まる喉をコクリと動かして視線を下に向けたまま口を開いた。

「……やっぱ、一人で帰れるから大丈夫」

寿くんの声は聞こえなくとも、たぶん会話の流れと私の表情で全て気づいているだろう。
 出来るなら流川の前で泣きたくない。また喧嘩の種を撒くのはこりごりだった。できる限り自分の表情を見せないようにしながら一歩踏み出した。

「名前」

 もう一歩踏み出そうとした足は地面を踏むことなく、元いた場所へと引き戻された。流川に腕を掴まれていたからだ。

「……来れなく……なっちゃったって。急遽チームでミーティングすることが出来たからって……それで、」

 私の名前を呼んだときの声と腕を掴んだままの彼の手にほんの少しの優しさを感じた。思い込みなのかもしれない。だけどいつかみたいに"泣けばいい"って言われた気がしたんだ。
 吐き出した言葉の直後に落ちてきた雫は雨の様に私の頬をあっという間に濡らしていった。

「……ごめ……っ、止ま……ない……」

 仕方ないと分かってる。責めることなんてしたくない。だけど辛うじて電話越しでは止められた言葉が心の中で渦巻いていた。
 嘘つき。嘘つき。来るって言ってたじゃない。嘘つき。嘘つき。いつだって飛んでってやるよって言ってたくせに。
 止め処なく流れ落ちていく涙を何度も拭いながら無意識にポケットの中のハンカチに手を伸ばしていた。ハンカチを掴むと同じようにポケットに中に入っているキーリングがチャリッと音を立てた。
 金属音と共に彼の声が聞こえた。"いつか迎えに行く"と言ってくれたあの言葉が。
 しゃくりあげて浅くなっている呼吸を鎮めるようにゆっくりと息を吸い込んだ。手に持ったハンカチから香水が香る。呼吸と一緒にゆっくりじわじわと自分の中に寿くんの気配が入っていった。
 本当なら明日、感じられるはずだった本当の温もりはここにない。それがどうしようもなく寂しくて苦しい。柑橘系の香りが頭にまで回ってきたときに寿くんの笑顔が瞼の裏に浮かんだ。
 ちょうどそんなときに私の体は温かな熱に包まれた。
 寿くんが来てくれた。抱きしめてくれた。
 一瞬そう体が勘違いしてしまうほど柔らかな温もりに浮かされた熱は、すぐに驚きに変わって頬を伝う涙を止めた。
 抱きしめられたときの胸の位置も、匂いも、腕の強さも……全部違う。

「る……かわ………?」

 寿くんとは違う人に抱きしめられていることに気付いたとき、私の耳には少し早めの鼓動がやたら鮮明に響いていた。

prev< return >next


- ナノ -