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07.見えないことへの不安、見えてきたことへの戸惑い


 全てが懐かしく感じた。

 あなたの熱い体温も、僅かに香る洗剤の匂いも。その奥から感じる汗の匂いとあなた自身の匂い。そして私をきつく抱きしめる腕の力も、少し早い心臓の音も。懷かしくて、愛しくて、落ち着くの。
 大きくぽっかり空いていた穴に隙間なくぴったり嵌まる。あなたこそが私を満たしてくれる存在なんだと実感する。ここが私の在るべき場所なんだと改めて思った。 ずっとずっとこうして私を抱きしめてて。離さないで。側にいて。
 心を蝕んでいた不安も寂しさも見て見ぬふりしてた醜い感情も、ここにいれば全て消えていくから。





 高校二年の熱い夏が終わったお盆目前のとある日。私はようやく寿くんの温もりをこの肌に感じることができた。

「そろそろ行くぞ」
「嫌。もうちょっと」

 抱きしめていた腕を緩めた寿くんのシャツをギュッと握って縋りつく。せっかく感じられたこの温もりをまだ手放したくない。まだ一緒にいられる時間はたくさんある。
 だけどだけど……それは離れている時間と比較してしまえばほんの僅かなものなのだ。

「ここ校内だぞ。人様が通る道のど真ん中だぞ」
「私は誰に見られてもいいよ。ここの学生じゃないし」
「……おい」

 焦るようにきょろきょろ周りを見渡した後に私の言葉でジト目になった寿くんにクスッと微笑む。こんなやり取りさえも懐かしいなんて。
 インターハイが終わり久しぶりの休日。やりたいことも、いきたいところも、私には一つしかなかった。

「ほら、来いよ。お前のこと紹介してやるから」
「本当に邪魔じゃない?」
「全体練習はもう終わってるから問題ねーよ。個別練習もあと少しで終わるから。……それとも外で待ってるか?」
「うんう……行く。寿くんの近くにいたい」

 少し先を歩いていく寿くんに続きながら、目の前に広がる見慣れない景色をゆるりと見渡す。寿くんの通う大学。私の知らない寿くんがいる場所だ。
 夏休みだから人気はほとんどない。このやたら広くて大きな建物が私の見ることの出来ない寿くんを毎日のように見ているのだと思うと、バカみたいだけど嫉妬のような感情がわく。
 変なの……。もっとわくわくするものだと思ってた。新たな場所で頑張っている寿くんが見れるのだ。ここに来るまでは逸る気持ちばかりだったのに、何故か自分の知らない寿くんを目の当たりにすることが怖くなってきてしまった。
 寿くんの後ろに隠れながら体育館を覗き込むと、湘北とは比べものにならない人数の部員がそれぞれ練習に励んでいた。寿くんが入っていくのに気付いた人達が何人かの視線が此方に向き、その中の一人が大袈裟に飛び上がって私を指差した。

「あーーーっ! 三井の彼女!!」
「げっ……。うるせーのに見つかった」
「こ……こんにちは」

 その茶髪の男性の大きな声で一斉に体育館中の視線が私に集まった。

「えっと……前に寿くんと電話してたときの」
「そうそう。俺、山内。マジで実物も可愛いね。わざわざ神奈川から会いに来たの? めちゃくちゃ健気じゃん」
「それはどうも」

 茶髪の男性……山内さんは、何処となく花道に似てる気がする。顔も体格も全然違うんだけど、持っている雰囲気が近いのかもしれない。
 彼が此方に駆け寄ってきたのを見て、その後次々に他の部員の人達が私達の周りに集まってきた。私をみんなに紹介してくれて……茶化されてちょっと照れてる”いつもの寿くん“を見て入る前に感じていた変なモヤモヤがようやく少しずつ流れ出していくのを感じた。
 だけど私は気付かなかったんだ。そんな私を冷たく見つめる視線がこの体育館の中にあったことを。


 その存在に気付いたのは各々の個人練習が終わり解散したあと。体育館近くのトイレを借りて個室を出ていくと、手洗い場に一人の女性が立っていた。その時点で少しおかしいな、と思ったのだ。
 だって私の前に入ってる人はいなかった。そしてその後誰かが入ってきた音も感じなかったのだから。

「あなたが寿の彼女?」

 今まで何をする様子もなかったのにその人は急に手を洗いだしてそう言うと、鏡の中の私をジロリと見つめた。もちろんその呼び方に違和感を感じない訳がない。

「……はじめまして。名字名前と申します」
「ふぅーん?」

 バサバサの長いまつ毛が上下に動く。彼女は私の足元から頭の上までじっくり品定めするような視線を向けてからクルッと再び鏡の方を向いた。手元にあるポーチから口紅を取り出してそれをゆっくり唇に引いていく彼女の視線が鏡越しからも感じる。

「こんなガキっぽい子のどこがいいんだか」

 それは本当に小さな響きだった。カチッと口紅の蓋をしめた音と一緒に耳に入ってきて、一瞬何かの聞き間違いかと思うほど。
 空耳……? いやいや、まさか。確実に言った。こんなガキっぽい子どこがいいんだって。
 こういった悪口に慣れている、と言うのもおかしいがある程度耐性がある。マネージャーになってから男目当てだなんだと言われることが少くなかったからだ。だけど、これは今までのものとは違う。学校で感じてきたちょっとした妬み嫉みではない。
 ……そう、これは完全な敵意だった。

「そういえば、あなたもうすぐ誕生日なんでしょ?」
「はぁ……、よくご存知で」
「寿がさぁ、相談のってくれっていうから、いつも色々聞いてるの。プレゼント楽しみにしてて? 私がしっかりアドバイスしといたから」
「……それはご丁寧にありがとうございます」

 派手な顔立ちが目を引くしっかりめのアイメイク。綺麗にアップしている髪の毛は後れ毛までちゃんと巻いてある。彩子さんみたいなグラマラスな体型で、持っている雰囲気は私とは真逆で色気がある大人の女性。
 そんな彼女が私に対して敵意を向ける理由なんて出会った端のあの一言が全てを語っていた。この人は"寿くんの彼女"そのものが気に食わないのだ。

「何だよお前ら一緒にいたのか」

 トイレから出ていくと私を迎えに来てくれたらしい寿くんが私達をみて目を丸くした。

「トイレでたまたま会っちゃったのよね? 名前ちゃん」
「……はい」
「ねぇ、私のこと紹介してくれないの?」

 トイレにいたときとはまるっきり違う態度が鼻について仕方がない。媚びるような甘ったるい声を出しながら彼女は寿くんの腕に自分の手を絡み付けた。

「ああ。名前、コイツはマネージャーの樹里」
「名前ちゃんもマネージャーなんでしょ? こっちでは私がしっかり寿の面倒見てるから安心してね」  

 にっこり笑った口元とは反対に、彼女の目は全く笑ってはいなかった。冷たく光るその目に…私はどんな風に映っていたんだろう。
 ちゃんと笑えていたのかな。それとも……怒れば良かったのかな。「寿くんに触らないで」「馴れ馴れしくしないで」って。
 言えるものなら言いたかった。だけどここで怒りを露わにしたら負けだと思ったんだ。




「どうした? 何か暗くねーか、お前」

 せっかく寿くんに会えたのに。二人きりになれたのに。浮かんでくるのはさっきの光景ばかりだった。
 腕に絡んできた他の女の人の手を振りほどこうともしなかった。一見すれば恋人の様にも見えるあの光景。……分かるよ。寿くんは何の意識もしていないのだ。

「大丈夫。……ちょっと移動で疲れちゃったかな」

 首をふるふると横に振った私の頭にポンと寿くんの温かい熱が重なった。その温かさが自分のバカみたいな感情を際立たせて泣きたくなる。

「明後日から神奈川帰るっつったろ。無理しなくて良かったんだぞ」

 私を心配して言ってくれてるだろう言葉さえも今は痛い。
 寿くんは会いたくなかった? 私は寂しくてしかたがなかったのに。何で平気そうにしていれるの?
 頭ではそんなことないのだと分かってる。だけど私の感情が別の生き物みたいに渦を作って大きく広がっていくのだ。

「早く会いたかったんだもん」
「……そうだな。俺も会いたかった」
「……本当に?」
「当たり前だろ」

 頭の上にあった彼の手に抱き寄せられてトクトクという優しい響きが耳に入ってくる。その音と彼の体温が私の中に流れ込んでくると、渦を巻いていた黒い感情がじわじわと溶けて薄くなっていった。
 しかしようやく解かれてきた渦は次の言葉でまた広がり始めてしまう。

「そうだ、お前の誕生日プレゼントさ……」

 ──プレゼント楽しみにしてて? 私がしっかりアドバイスしといたから

 それはたった今囁かれたみたいにリアルに私の耳の中に入ってきた。ドクンドクンと心臓が嫌な音で伸縮を始める。
 この後に続く言葉を聞くのが怖かった。 きっと実際はそうでないのに、寿くんの口の動きがやたらスローに見えたんだ。

「祝うにはまだ早ぇけど、これから一緒に選びに行かねぇ?」
「……え?」
「何がいいかよく分かんねぇから、色んなやつに聞いたんだけどよ。よくよく考えてみれば他のヤツに聞くよりお前に直接聞いた方が確実だろ?」

 ……私はなんてバカなんだろう。一人歩きして勝手に大きくなっていく自分の感情に嫌気がさす。ほんの少しでも疑うような気持ちを抱いた自分を本気で嫌いになりそうだった。

「あー、でも疲れてんなら別の日に……」
「行く!!」

 通行人が振り返るほどの私の大きな声に一瞬だけ目を見張った寿くんはクックと笑った。そうして私の頭をぐりぐり撫でてくれた寿くんの私を見つめる瞳は凄く綺麗で優しかった。 
 ……私はこの人が本当に、本当に好きなんだ。

「何でちょっと涙目なんだよ」
「一緒にいれて嬉しいからだよ」

  本当だよ。嬉しいよ。幸せだよ。寿くんといられる時間が私にとって何物にも代えがたい宝物だから。
 それなのにどうして私はこんなに不安なんだろう。苦しいんだろう。こんなに近くにいるじゃない。こうして大切にしてくれてるじゃない。

 大好きで大好きで……ただそばにいたい。それだけなの。それさえ簡単に叶わないのにどうして私にこんな気持ちを抱かせるの? 神様は意地悪だ。
 私は自分のこんな醜い感情を見たくなんかない。

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