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06.強がりな心が隠すもの


 寝起きのコーヒーは砂糖とミルクをたっぷり入れる。最近はお気に入りのピンクのマグじゃなくて、寿くんが来た時に出してた来客用の黒いコーヒーカップ。
 コーヒーを口に運びながらテレビをつける。「そんなガバガバに甘くしたやつよく飲めるな」なんて寿くんの声が頭の中に響く。
 今日の天気予報は曇。寿くんの方は晴れだった。ねぇ、そっちは晴れだね。今頃ロードワークしてたりするのかな? 誰に伝わるわけでもないのに頭の中で呼びかける。
 無意識に開いたトーク画面に同じ文言を書いてみるけど、送信マークをタップすることなくスマホをスリープした。既読になれど返ってくることは殆どないからだ。
 ドレッサーの前で髪の毛を梳かしてから無造作に置いてある化粧ポーチの中からリップを取り出す。私はほんのり色づくテラコッタオレンジが好きだけど、寿くんは分かりやすいくらい塗った感が出るベリーレッドを褒めてくれた。と言うよりも、他のカラーは塗っていても気付いてくれない。彼の好むカラーを唇にのせて薄く微笑んでみせてから鍵を手に取り家を出る。
 全部全部、馬鹿げてるけど私だけのおまじない こうしてると寿くんを近くに感じられる気がするから。
 何をしたって埋まることのない物理的な距離、日が空けば空くほど薄くなっていくあなたの気配、ぽっかりと開いていくばかりの心の隙間。どうしたら埋められる?私はその方法を知らないの。
 毎朝のおまじないと制服のポケットの中でカチャカチャ揺れるあなたとのお揃いがついた鍵一つ。このふたつが今の私にあなたの気配をくれる。





「おーい! 名前ちゃん!!」

 インターハイ予選の決勝リーグ最終日。表彰式が終わって会場を出ようとしていた私達の方に手を振る大きな人影に気付いてそこへ駆け寄った。

「徳男先輩! 来てくれてたんですか!」
「そりゃあ母校のバスケ部だしな。今年も無事決勝進んだって聞いたから気になってたんだよ」
「徳男先輩は寿くんしか興味ないと思ってました」

 私がそう茶化すとバツが悪そうに彼は笑った。これはあながち間違いではないと思うけど。

「みっちゃんが来れない代わりに俺がみっちゃんの後輩の勇姿を見届けねーといけねぇだろ。ま、なんだ。今年もしっかり全国で活躍してこいよ」
「それ、私じゃなくてみんなに言ってあげて下さいよ」

 私が少し離れた所にいるみんなの方を少し振り返ってそう言うと、徳男先輩は照れくさそうに頬を掻いた。

「……俺なんかが言っても誰も喜ばねえだろ」
「そんなことないですよ! 卒業した先輩が応援に来てくれるだけでも嬉しいのに」
「……いや、俺はいい」

 何度か促したけど徳男先輩の意志が変わることはなかった。寿くんもいないし未だに負い目の様なものがあるのかもしれない。見かけによらずという言い方は悪いけど、彼はけっこう繊細で優しい人だ。
 徳男先輩は私が昔お世話になったプレハブ小屋の持ち主でもある。その頃に一度だけ顔を会わせてるけど、暗がりだったこともあり私達はお互いを認識してはいなかった。いつだったか寿くんに言われてその事実に気付いた時は、お互いに謝り合って収集がつかない事態になった。彼は自分の言葉で私が飛び出していった事をずっと気にしてくれていたのだ。

「みっちゃんとちゃんと連絡取ってるか?」
「連絡は取ってますよ。あんま会えない分たくさん話してます、主に私が」
「みっちゃん電話とか好きじゃねえもんな」
「”毎日電話してるから話すことねぇ“とか言うんですよ、寿くん。まぁ、電話くれてるだけいいんですけど」

 少し皮肉めいたことを言うと、微かに徳男先輩の眉が下がった。彼はあれからもずっと寿くんだけじゃなく、私のことも気にかけてくれている。私が寿くんの彼女だからというのもあるだろうけど、たぶんそれ以上の親しみを持って接してくれてる気がする。

「リーグ戦始まったらみっちゃんの応援行くか? 行ける日あるなら連れてってやるぞ」
「行けるなら……行きたいですけど」
「インターハイ終わった後だろ? 一日くらい休んでもバチあたんねぇだろ」
「でも、三年生引退した後ですし。二年の私が率先して休むのは……」

 寿くんとはこのところずっと予定が合わない。……と言うよりも最初から私達はどちらかが無理をしないと予定が合わないのだとようやく気づき始めた。
 休みはあってもお互い部活があるからどうしても自由な時間は少なくなる。そして私達はこの部活に重きをおいているからそれを疎かにはできないのだ。

「……大丈夫です! 全然会えないわけじゃないですし!」

 さっきより更に下がった徳男先輩の眉が眉間に皺を作っていた。別に大丈夫。きっとお盆には会えるだろう。何もずっと会えないわけじゃないんだから。
 無意識に手を入れていたジャージのポケットの中には家の鍵が入っている。それを掴むとキーリングが擦れる金属音が微かに私の耳に届いた。 




「だから言ったでしょ?!」

 自分でも驚くほど大きな声が部屋の中に響いた。

 だけどそれを受けた当の本人は聞こえているのかいないのか、しれっとした顔で私のお気に入りのクッションの上に大人しく座っている。

「初めからちゃんと授業受けとけば良かったんだよ! そうしたらこんな二度手間みたいなことしなくてもいいのに」
「あのどあほうもいるんだから一緒じゃねーか」
「そのどあほうと同列なの分かってんの?!」

 去年の冬はリョータ先輩のお宅だったけど、今後のことも考えて今年の勉強合宿は私の家で開いた。リビングでは今頃花道がリョータ先輩と彩子さん二人にみっちり扱かれていると思う。そして、こんな私の大声に驚いているかもしれない。

「流川さ、もうすぐキャプテンになるんだよ? しっかりしようよ。みんなのお手本にならなくちゃ」
「宮城先輩も追試受けてた」
「キャプテンになってからは赤点ないよ!」

 今はリョータ先輩達がいるから何とかなるんだ。だけど、今後はそうもいかない。花道と流川二人一遍に勉強を教えるのは至難の業だ。他の部員も巻き込まなくてはいけない。
 恐らくキャプテンと副キャプテンになるだろう二人が揃ってこんな体たらくでいいわけがない。頭を抱えながら流川の向かい側に座ると、私を見据える切れ長な目が鋭く私の目を射抜いていた。  

「なにカッカしてんだ」
「……え?」
「最近機嫌悪い」
「そんなことは……」

 図星を突かれた胸がギュッとしまる。頭の中では「違う違う」と言い訳を並べ始めるけど、本当は分かっていた。最もらしいことを言って正論を振りかざしてはいるけど、こんな大声で捲し立てる必要はない。今やるべきことをやるしかないんだ。一番冷静でないのは私なのだと。
 無意識にカーペットの上を彷徨っていた手がローテブルの下に落ちていた鍵を見つけて、また小さな金属音を鳴らした。冷たいキーリングの感触が私の心の熱をほんの少し冷してくれる。その手元から次第にじわりじわりと寿くんの気配が染み込んでくるのを感じてキュッと瞼を閉じた。

 ──合宿もあるし暫く忙しくなる。

 ──試合と被ってんだ。誕生日、当日祝ってやれねぇかもしんねぇ。

 頭の中に浮かんできたのは数日前の寿くんとの電話のやり取りだった。

 落ち着きを取り戻したかったはずなのに、無意識にしていたその行為が今回は仇となった。みるみる喉元が締まり鼻がツンと痛くなってくる。

「……っ」

 すぐそこに涙が迫ってきているのが分かる。……だけど泣くわけにはいかない。

「泣きゃーいいじゃねぇか。何我慢してる」
「……何言ってるの。泣いたら怒るくせに」

 小刻みに震える様はさぞ分かりやすいのだろう。流川に言われても鼻をすすりながら必死に涙を飲み込んだ。
 最近よく分かってきたんだ。彼は寿くんの事で泣いたり落ち込んだりしている時ほど機嫌が悪い。それがきっとケンカの要因になっているだろうというのに、本人を目の前になぜ泣かなくてはならないのか。

「お前が泣くとイライラする」
「ほら! 怒られてまで泣きたくなんかないよ……! もういいの。大丈夫だから! もう放っておい……でっ?!」

 必死で涙を堪えて喚いていた私の顔に飛び込んできたのはローテブルの周りに置いてあったクッションだった。柔らかいから大して痛くもないけど、突然それが飛んできたことに呆然としつつ流川の方を見ると彼は珍しく柔らかい目で私を見ていた。

「顔伏せてろ」

 その言葉に彼がクッションを投げたのだと確信を得た。
 それを苛立ちを持ってやったのか、それとも優しさの意味もあってやったのかは分からない。両方なのかもしれない。だけど今はそんなことはどちらでも良かった。 言われた通りクッションに突っ伏して顔を隠すと、真っ黒になった視界の中に待ち構えていたみたいに寿くんの顔がぼんやりと浮かんだ。

「……うっ……ううぅ……っ」

 一度溢れてしまったらもう止めることは出来ない。次から次へと流れてくる涙がクッションと私の顔をひんやりと濡らしていった。
 寿くんとはあの誕生日の日から会えてはいなかった。 もちろん彼に休みがないわけではない。神奈川にもたまに帰ってきてはいる。だけど本当に私達はまるで予定が合わなかった。部活を休めば良かったのかもしれない。 学校を休めば良かったのかもしれない。そうしたら少しでも会う時間は作れたはずだ。
 だけどそれは出来なかった。インターハイ予選の真っ只中だ。そんな時期に一人で浮かれて恋愛に突っ走るなんてどう考えてもおかしい。それを誰も咎めないだろうことは分かっているけど、そうすることが許せなかったから。
 言い聞かせてた。大丈夫、大丈夫。ずっと会えないわけじゃない。電話もしてる。ビデオ通話もしてる。前に寿くんが言ってくれたプロポーズみたいな言葉もずっと胸にある。
 だけど直接彼の温もりを感じられない心はみるみるうちにささくれていった。いつもの何てことない減らず口でさえ心に溜まる。何でこんなにも会えないのかと不満が募る。誰が悪いわけでもないのに。
 ただ一つの”会いたい“という想い。これを叶えることがこんなにも難しい事だとは思わなかったのだ。

 ねぇ、寿くん。私、本当は全然大丈夫なんかじゃない。 会いたいよ。

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