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02.わたしの知らないあなた


 寿くんが神奈川からいなくなってしまったことに、現実感を得られないまま二週間ほどが経過していた。
 数え切れないほど一緒に通ってきた学校までの道。一緒汗を流してきた体育館、部室 そして幾度となくキスをして体を重ねた私の部屋。至るところに彼の気配を感じる。
 今も近くに彼がいるんじゃないかと思える。後ろを振り向いたら、軽く手を上げて微笑み返してくれるんじゃないか。「名前」って、声を掛けてくれるんじゃないか。「ボケッとしてんな」なんて怒ってくれるんじゃないか……。そんな風に思えてしまう。
 知り合いも誰もいない所に一人旅立って行った寿くんの事を想うと、こんな事を言ってちゃダメなのは分かってる。
 だけど、ここには余りにも思い出が多すぎる。





「流川ー! 流川は休みか?」

 教室中に響いた先生の声に、クラスみんなの視線が一斉に突っ伏している流川の大きな体に集まった。

「寝てまーす」

 流川のちょうど真後ろの席の子が答えると、先生はチラッと流川に目をやってからハァと大きな溜息を吐いた。
 あんな大きな人が寝ているのに気付かない訳がない。先生なりのパフォーマンスか何かなんだろう。ところが困った事に、毎度のように先生達は寝ている流川を見たあとに私の方に視線を寄越す。

「名字! 流川を起こせ」
「え?! 何で私?」
「隣の席だし同じバスケ部だろ。マネージャーなんだからしっかり面倒見てくれ」
「はぁ……」

 二年生になり、私は流川と同じクラスになった。その事に対して何の感情も湧かなかったけど、困ったことが一つある。
 さっきみたいに、どの先生も必ず私に流川を起こせと言うのだ。


「ねぇ! ちゃんと起きて授業受けてよ」
「……起きてる」
「起きてないじゃん。さっき私が呼んだの聞えてなかったでしょ?」

 流石に進級してから毎日のようにあの一連の流れを流川が寝るたびにやるのはウンザリだった。そして、当然かのように流川が易易と起きることはない。
 授業中にたっぷり寝ているお陰か放課後はやたら機敏に見える流川を捕まえて文句を言ってみたはいいが、相変わらず真艫な返事が返ってこなくて余計に頭が痛くなる。

「朝練で早いからねみぃ」
「そんなのみんな一緒だよ! ちゃんと授業受けてないとまた追試になるんだよ?」
「そしたら、そんとき頑張ればいいだろ」
「今頑張ればいいことじゃん!」

 彼は覚えていないのだろうか。いや、そんな訳ない。夏も冬も赤点で、部を巻き込んで追試を受けたんだから。
 リョータ先輩はキャプテンになった責任感もあるのか、冬は赤点を回避。追試は花道と流川だけだった。正直、花道はどうしたら赤点を回避できるのか分からないけど流川はちゃんと授業さえ受けていれば赤点を取らずに済むと思う。なのに寝てばかりで真艫に受けない理由が分からなかった。

「ギャンギャンうるせー。部活はちゃんとやってんじゃねーか」
「だから、その部活を滞りなくやるために授業を……!」

 話は聞いてくれているものの、体育館へ向かう事を止めることは無かった流川の足がようやくピタリと止まった。彼をちょこちょこ追い掛けていた私の方に振り返った流川の目は少し怒気をはらんでいるように見える。

「おめーこそ、最近気合足りねーんじゃねぇの」
「え…?」
「空元気に上の空。やる気ねーのはどっちだ」

 そう言われてギクリと体が強張る。……ちゃんとしているつもりだった。だけど、体育館にはどうしても彼がいる気がしてしまう。3Pラインの外に立っている彼が。今にもシュートしようとボールを構えている彼が。シュートが決まって小さくガッツポーズしている彼が。
「名前、ポカリ」って私を呼ぶ寿くんの声すら聞こえてくるんだ。

「ボケッとしてねーで集中しろ」
「ごめん……」

 喉の奥が苦しい。気を抜いたら今にも涙が溢れ出しそうだ。再び体育館の方に足を進めだした流川の背中をぼんやり見送ってからその目を床に下ろした。……自分が情けなかった。

「名前、遅ぇ、置いてくぞ」
「……うん、ごめん」

 とっくに行ってしまったと思っていた流川が少し先の方で足を止めて私の方を振り返っていた。彼に私と一緒に部活に向かっているつもりがあったことに少しだけ驚いたけど、今はそれが嬉しくも感じた。溜まっていた涙をゴシゴシと手で拭って流川の後を追い掛けた。

 私は強くならなくちゃいけないんだ。




『流川も言うようになったな』

 夜、寿くんに今日の事を話すとこんな返事が返ってきた。言うようになったというよりも彼は元々そういう人だと思う。中学の頃から知っている私と、高校から知り合った寿くんとの間では彼に対しての感じ方が違うようだ。

「あの人は昔からだよ。私に遠慮も容赦もないもん」

 よくよく考えてみたら私が悪いのは勿論分かるけど、流川が授業で寝ている件に関しては完全に有耶無耶にされてしまった。

『そんだけ気ぃ許してるってことだろ。夏終わったら彩子いねーんだし、今のうちにしっかり操縦出来るようにしとけよ』  
「……待って。そうじゃん! 彩子さんとリョータ先輩が居なくなったら問題児2人をどうしたらいいの!?」

 いつかはそうなると分かってはいたけど、もうそれがすぐそこに迫っているという衝撃的な事実だった。スマホを持つ手とは反対の手で目を伏せて思わず空を仰いだ。
 赤木先輩でも手を焼いていた彼らを…?彩子さんのハリセンや、リョータ先輩のキックもなくなって…私達2年だけでどうすればいいのか。


『だからお前がどうにかするしかねーだろ?』
「ムリムリムリムリ!」

 腰を掛けていたベッドから突っ込みを入れるようにがばっと立ち上がってそう答えていた。桑ちゃんも石ちゃんもササくんもみんな人が良い優しいタイプだ。彼らを制御出来るとは思えない。そして私だって流川一人に手をこまねいているのに、二人なんて……。

『ムリじゃねーよ。お前なら出来るだろ』
「……寿くん面白がってない?」
『んなことねーよ』

 何となく電話の向こうでクックと笑っているような気配がする寿くんの声を聞きながらついこんなことを思う。
 寿くんが居てくれたらいいのに。それは当然叶わぬ願いな訳だけど、やっぱり寿くん達がいた頃の安心感は大きかったのだと今更ながら感じてしまう。私生活に於いても、部活に於いても……寿くんの存在は計り知れないほど大きなものだったんだ。

「……寿くん、カメラオンにして?」

 何だか無性に寿くんの顔が見たくなってしまった。声だけじゃ足りない。本当は手が届くところで側にひっついて話したい。

『あ……? やだよ、恥じーだろ』
「寿くんの顔見たいの!」
『……わーったよ。ちょっとだけだぞ』

 本来、彼はマメな方ではない。だけどなるべく時間を作ってはこうして電話をくれている。それは凄く嬉しいけど、それだけじゃ足りないなんて思ってしまうワガママな私がいる。
 渋々了承してくれた寿くんの返事から暫く間が空いた後、スマホの画面に彼の姿が映し出された。ちょっと前までは毎日の様に見ていたのに。たった二週間で懐かしさすら感じてしまう。前より少しだけ伸びた髪の毛、何処を見たら良いのか所在無さ気にきょろきょろ動いている瞳。形のいい厚めな唇。全部全部私の大好きな寿くんだ。  

『何見惚れてんだ、お前は』
「だって寿くんカッコイイ」
『……』

 そんな風にウットリするようにスマホの画面に見入っていると、今度は寿くんの頬が少しだけ染まる。

「照れてる寿くん可愛い」
『あんま変なこと言ってっと切るぞ』
「ダメ!! あとちょっとだけ」

 つい声に出てしまった言葉に反応して寿くんの眉間に皺が入る。何故可愛いはダメなんだろう。寿くんはカッコイイし可愛いのに。もうこのままスクショでも撮ってしまおうか、なんて悪戯心が出てきてしまう。
 まぁスクショは兎も角、寿くんの気が変わらないうちにしっかり彼の姿を目に焼き付けておこうとジッと見つめていると、彼の後ろに誰かの影がチラチラと映り始めた。

『おい! 三井何やってんの?』
『げっ!!』
『おっ!もしかして彼女? ……激可愛じゃん!!』

 寿くんの顔を追いやって入ってくるように茶髪の男性がアップで映った。

「こんばんは」
『バカ! 返事してんじゃねー! 山内、てめぇは入ってくんな!』
『いいじゃん別に。こんばんはー! 三井と同じバスケ部の山内です』
『だーーっ! もういいからあっち行け!!』

 ヒラヒラと私の方に手を振ったその人を寿くんが画面の外に追いやった。「じゃーねー」と言うその人の声と笑い声が小さくなっていく。
 何か不思議な感覚だった。高校の外で私の知らない人とそんな風にしている彼を見るのは。

『悪ぃ。今、談話室にいるから色んな奴が出入りしててよ』  
「うん。大丈夫だよ」

 大丈夫、なんて言ったけど何故か心に錘でもくっついたみたいに一気に気分が沈んでしまった。

 そこには私の知らない寿くんがいた。寿くんには新たに別の世界が出来ていくんだ。私の知らない名前を呼んで、私の知らない人達と世界を作っていく。
 私だって新しく一年生が入って、寿くんの知らない湘北バスケ部を作っていこうとしているのに。
 寿くんが知らない人になってしまうような私の手が届かないもっとずっと遠くに行ってしまうような……妙な不安が胸にこびり付いてしまった。

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