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彼の家で遅く起きた朝


 微かに流れてきた煙草の匂いに窓の方を見ると、ベランダに出ている洋平くんの姿が見えた。ごしごしと目を擦り、ベッドから起き上がった私はその窓を静かに開ける。

「おはよ、名前ちゃん」

 太陽の光に照らされていつも以上に眩く見える彼に後ろからギュッと抱きつくと、なにも纏っていない上半身の硬い肉感が頬に触れる。服を脱ぐと現れる、思った以上に筋肉質な体に最初はドキリとしたものだ。

「そんな格好して寒くない?」
「別に大丈夫だよ。つーかそんな格好って言うなら名前ちゃんも一緒だろ」

 手に持っていた灰皿で火を消した洋平くんは、私の手を引き部屋に入る。綺麗に畳んで置いてある服の中からひとつ抜き取って私にそれをかぶせると、下着の上にスリップという心許ない格好が洋平くんのTシャツですっぽり隠れた。そんなに身長差はないように感じていたけれど、こうして彼の物を身に纏うと体格差を感じて気恥ずかしくなる。裾は膝上まで隠れているし肩幅も全然違うし見るからにブカブカだ。
 
「こんな格好で不用意に出てきちゃダメだろ。誰に見られるか分かんねーんだから」
「うん、ごめんね」

 よしよしと子供にみたいに頭を撫でられて、照れ隠しで少し顔を俯けると彼の口元が綻ぶのが見えた。私のほうが二つ上のはずなのになぜだかいつも立場が逆転している。実際、彼も私のことを年上だとは思ってなさそうだし私もこれが心地良い。
 バイト先で知り合った洋平くんは私より長く勤めている先輩で、付き合うようになってからもそのまま彼に面倒をみてもらうような形が続いている。

「もうこんな時間か。腹減ってねえ? なんか作るよ」
「洋平くん、ご飯作れるの?」
「まぁ一人暮らし長いからそれなりに」

 テレビの横に置いてある置き時計を見た後、洋平くんはワンルームの廊下スペースにあるキッチンで何やら作り始めた。もう少し早い時間かと思っていたけれど、時計がさしていたのは昼近い時間だった。同じシフトだった日は一緒に帰って何方かの家に泊まるのがお決まりなのだけど、洋平くんがなにか作ってくれるのは初めてだ。
 トントンと野菜を刻む軽やかな音や手際よくフライパンを振る音が聞こえてくる。レシピ本を見ている気配もないし、言葉以上に慣れている気がする。
 やがて運ばれてきた料理に私は目を瞠った。炒飯に野菜炒め。いかにも男の料理って感じだけど、私が作るものよりもずっと出来栄えがいいし、なにより私ならこんなに早く作ることは出来ないと思う。

「……すごい! 美味しいよ、めちゃくちゃ」
「そら良かった」

 私が感嘆の溜息を洩らす一方で洋平くんは涼し気な顔をしている。洋平くんて見た目はちょっと怖いけれど、器用というかなんでも卒なくこなせちゃうし、凄く頼りになる私にとってはスーパーマン的存在だ。この人には弱点なんてものはないのかもしれない。

「洋平くんいつでもお嫁に行けちゃうね」
「ハハ、俺が嫁さんかよ」
「だってお部屋もいつも綺麗にしてるし私より料理上手なんだもん」 
「名前ちゃんのご飯だってうめーよ。この前作ってくれた唐揚げと煮物、俺完食しただろ」
「あれはレシピとにらめっこして必死に作ったやつでして」
「レシピ通り美味しく作れるなら大したもんだよ」

 引き合いに出されたのは首を捻りながら何時間もかけて作った料理で、洋平くんの作ったものとは比べ物にならない。だけど洋平くんてば大袈裟に褒めてくれるものだからつい頬が緩んできてしまう。

「洋平くんて上手に褒めてくれるから私調子に乗っちゃいそう」
「乗ればいいじゃん。俺は本当のことしか言ってねーんだし」
「いやいや。そんな浮かれてたらいつか落とし穴に落っこちて痛い目見ちゃうよ」

 そもそも私が洋平くんと付き合ってるのだって異常事態なのだ。スーパーマンに見初められたからって調子に乗っちゃいけない。それこそとんでもないどんでん返しがやってきそうだもの。
 ところが洋平くんときたら、私が大真面目に言った言葉にケラケラと笑い出した。余っ程ツボだったみたいで珍しく涙まで流して大笑いしてる。一頻り笑うと涙を拭いながらポンと私の頭に手を置いた。

「誰が掘るの、その落とし穴」
「えっと。洋平くんかな」
「掘らねーよ。誰もそんなもん仕掛けねーから安心してろって」

 またしてもちっちゃい子にするみたいによしよしと撫でられて、私の心臓はきゅうきゅうと激しく伸縮する。そんな私を見ながら微笑む彼を見て、私は一つの仮説を立てる。洋平くんは私がこうされるのが嬉しくて嬉しくて堪らないって、気付いてやっているのだ。

「既に嵌ってるのかも」
「ん?」
「洋平くんの落とし穴に。私抜けられなくなっちゃったみたい」

 私のスーパーマンはなんでもお見通しなのだ。私はきっと彼の手の上で上手に転がされている。ならばこれは立派な落とし穴に違いない。だってもう私は、そうして撫でてくれる手がない日常なんて考えられないから。

「じゃあ一生抜けられねーな」 

 その言葉の意味することと、言葉通り彼から離れられないだろう予感に、私の心臓はまた痛いくらいに高鳴り始めた。

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