momentum+






22.夢見て、覚めて、乱されて、


 ──なんだかずっと、夢の中にいるみたいで落ち着かない。


「欲しいの、それ」

 すぐ斜め上から聞こえてきた声にビクッと小さく体が揺れる。
 何をしていたんだっけ。いつの間にか手に持っていたマグカップから右隣へ視線を移せば、柔らかな視線が私を捉えていた。

「持ち手がハートになってんだな。初めて見た」
「うん、可愛いよね」

 ようやく思考が戻ってきた私は手にしていたマグカップをやや上へ持ち上げる。パッと見た感じは至ってシンプルな白いマグカップだけれど、ハートの形をした持ち手がとても素敵で目を奪われてしまったのだ。
 
「せっかくだから買ってこうぜ。俺の家、カップ全然ねーし、あだな用に」
「え」

 言うなり手元からマグカップが消えたかと思えば、近くのレジカウンターからレジを打つ音が聞こえてきた。あっという間に会計を済ませた彰くんは、可愛らしいピンク色の袋を満足そうな顔で私に差し出した。

「ごめん。ねだったわけじゃなかったんだけど」
「わかってるよ。あだな、よく家に来るようになったし欲しいと思ってたんだ」

 俺が欲しくて買ったんだし。と、お財布からお札を引っ張り出そうとしていた手にマグカップが入った袋を引っ掛けられる。それが「あだなは出さなくていいよ」という意味なのはわかったけれど、いくら彼の家に置くものとは言え自分が使うものにお金を出して貰うのはどうなのか。

「素敵な彼氏さんですね」
「え……あ、……」

 やっぱりダメ。既に雑貨屋さんの出入り口付近まで先に行ってしまった彼の背に向かってそう言おうとしたけれど、微笑ましそうにしている店員さんの一言で私は彼に掛けるべき言葉をすっかり見失ってしまった。

 ──彰くんは、私の彼氏なんだ。

 
 その事実にはとっくに気付いている。
 お互いの気持ちを確認し合って、付き合おうと言われてそれに合意しているわけだから、気付くなんて言い方はおかしいのだけれど、それ以外にしっくりくる言葉が見当たらない。ずっと昔からの幼馴染みだった彼が、彼氏になった。この曲がりようのない事実に、私は未だに現実感を得られないでいる。

「なんか顔赤いぜ」
「そ……う、かな」

 出入り口で待ち構えてた彰くんにつつかれた頬にそっと指を運ぶ。部活帰りに待ち合わせて、ぶらっと街で買い物して。それから一緒に食事したり、どちらかの家でまったりしたり。していることはどう考えても高校生らしいデートそのものなのに、未だ夢でも見ているように思える。
 私たちに特に大きな変化はない。こうして二人だけで過ごす時間は確かに増えたけれど、私たちの関係性が幼馴染みから恋人同士に変わっただけで。
 だから違和感を感じているのかもしれない。熱を持った頬に触れながら彰くんを見上げた。

「せめて、何かお礼したいな」
「……カップの? 別に気にしなくていいのに」
「そういうわけにはいかないよ」
「あだながウチでそれ使ってくれるだけで十分嬉しいよ」

 ──あぁ、違う。ついさっきの考えはすぐに打ち消された。大きくはないかもしれないけど、目に見えた変化はここにあった。
 元々優しかったけれど、彰くんは以前より優しくなった。“甘くなった”と言うべきなのかもしれない。私を捉えている視線そのものが前と違う。熱があって、ずっと甘やかで。視線を合わせているだけで溶けてなくなってしまいそうになる。
 すっかり続く言葉を忘れてしまった唇の輪郭を彰くんの指がなぞっていく。ぞわりとした感覚が唇と肩震わせ、彼の瞳の中に囚われていた自分の心をはたと気付かせる。ねぇ、待って。ここ、それなりに人通りのある場所よ。

「あのう……、こういうことはもっと違う場所で」
「こういうことって?」
「き……キスとか、ハグとか、そういうの」
「どこだったらいい?」
「ひ、人の居ないところよ」
「ふぅん、そっか」

 変わらない表情からはそれに納得したのか否か読み取ることは出来なかったけれど、彼の手はあっさりと私の唇から離れていった。

「……っ」

 けれど次の瞬間、その手は私の後頭部をしっかりとホールドした。おでこにチュッと甘い響きが触れたのはそれから間もなくのことだ。

「さ、行こうぜ」

 何が触れたのか、改めて確認する必要もなかったけれど、おでこへ伸ばしかけていた手は気付けば彰くんがしっかりと握っていた。
 反論の言葉は震えた唇からは出てはこない。真っ赤に染まった顔を俯向けて、彰くんの後をついていくのがやっと。どんな小さな変化や大きな変化があろうと、私は変わらず彼に翻弄され続けていくのかもしれない。
 
  
**

 
 ──夢を見ているみたいにぽやぽやとしている彼女が、どうにも可愛くて仕方がない。


 買ってきたカップを軽く洗い、冷蔵庫から出したミルクティーを注ぐ。炭酸飲料を入れた飾り気一つないシンプルな自分用のグラスと共に運び、彼女が気に入っていたハートの持ち手がちゃんと見えるようにテーブルへ置いた。
  
「はい、どーぞ」
「ありがとう」

 細い持ち手にそっと指を掛け、慎重に持ち上げた彼女はそれを繁々と眺めた。雑貨屋でこれを見ていたときみたいに目を輝かせているその表情だけで、買って良かったと思える。
 
「なぁに」
「早速役に立って良かったな」

 あまりに可愛らしいその表情に、つい漏れてしまった小さな笑い声はしっかりと彼女に届いてしまったらしい。ツンと唇を突き出し頬を染め、拗ねるように言ったあだなの前髪をそっと撫でた。
 ありがとう。と、また返ってきた礼の言葉に頷くと、彼女はようやくカップへ口をつける。コク、コク、とゆっくりミルクティーを飲んだあだなはカップから口を離すと、再びそれを見つめた。眉間に皺を寄せたその表情は何を考えているか一目瞭然で、また小さな笑いが零れる。

「お礼ならさっき貰ったからいいよ」

 何でわかるの。言わずとも聞こえてきた心の声は、そのうちに疑問へと変わる。私何かあげたっけ、と考えている表情が暫くすると何か思い至ったらしく朱色に染まった。家に来る前にした額へのキスを思い出したようだ。

「あれは……お礼とは違うよ。ちゃんとしたお礼がしたいの」

 指と指をもじもじと絡ませながら、恥ずかしさの消えない表情であだなは言う。別に高価なものを買ったわけでもないんだから別にいいのに。と言っても彼女は頑なに譲りそうにないが。

「じゃあ、あだながしてくれる?」
「……なにを?」
「キス。ここに」

 思い浮かんだことはあだなが素直に頷くようなことではなかったが、自分の唇を指してやれば思った通りさっき以上に顔を赤くしてあわあわと唇を震わせている。
 
「お礼っていうのはそういうのじゃ……」
「するの嫌?」
「ち……違うけど」

 こう言えばきっと彼女ならこうするだろうと、ある程度予測できて言っている自分は狡いのかもしれない。だけど想像通りあだなは顔を真っ赤にさせて小さく頷いて、そして今までに見たことのない艷やかな表情で俺を見上げるのだから心臓はずっと落ち着かない。
 怖ず怖ずと近寄ってきたあだなは俺の肩に手を置いて、覚悟を決めたようにぎゅっと目を閉じた。それじゃあ見えねーんじゃねーかな。なんて余計な突っ込みを入れないように大人しく自分も目を閉じて彼女からのキスを待つ。1秒経っても、2秒経っても、なかなか触れない彼女の唇は暫くするとチョンと鼻に触れたのちに俺の唇の左端をとらえてすぐに離れていった。
 目を開ければ変わらず赤い顔のあだなは恥ずかしそうに俯向いていた。「良く出来ました」と言わんばかりに髪を撫でてやると、更に恥ずかしそうに顔を背ける。照れ屋なところは昔から変わらず、と言うより恋人関係になってからの方がより顕著になった気がする。
 もしも再び俺たちが出会っていなかったら、彼女は別の男にこんな表情を見せていたのだろうか。考えたくもない妙な嫉妬心が心に渦を巻く。以前よりずっと長くなった髪を撫でながら、染まった頬と照れ臭そうな表情が自分以外に向いていたら、と。
 
「……っ、ん」

 気付けば肩を引き寄せた彼女に唇を重ねていた。さっき彼女がしてくれたのより長く、はっきりと彼女の唇に自分の余韻が残るように。
 何度も重ねていると次第に甘やかな息が零れてくる。僅かに開いた唇から舌を挿し込めば、じわじわと彼女の体が熱くなっていくのがわかった。ぎこちなく舌を絡ませて、次第に芯がなくなっていく自身の体を抑えるべく俺にしがみついて。
 緩やかに髪を撫でていた手が彼女の耳に触れ、鎖骨を撫で、腰のラインを下りていきブラウスの下へ潜っていったのもまた無意識的な行動だった。


**

 ──夢見心地でふわっとしていた私の心は、今現実へと帰ってきた。

 違う。まだ半分夢に足を突っ込んでいるけど、脳がそれどころじゃないと私を引っ張り出そうとしている。確かにそれどころじゃない。だって予期してなかったことがこれから起ころうとしているんだから。 

 静かにバスルームのドアを開け、バスマットの上に立った私はその場へしゃがみ込んだ。ぽたり、ぽたり、と滴り落ちていく雫がマットを濡らしていくのを感じながら、自分の肌からするボディーソープの香りに身悶える。
 彰くんのボディーソープやシャンプーを借りたんだから彼と同じ匂いがするのは至極当然なのだけど、今はその事実ですら私を惑わす。だって、彼のお宅でお風呂を借りるという行為そのものが、これからするだろうことを匂わせていて。ほんの少しのクールタイムを願い入れただけなのに、熱は冷めるどころか増しているんだもの。
 閉め切った洗面室のドアの向こうはシンと静まり返っていた。突然「待った」を入れたことに怒ってはいないだろうか。うんう、彼はそんなことで怒ったりはしない。わかってはいるけど不安は消えなくて、肌を滑った指の感覚と熱い瞳を思い出しながら膝を抱える。怖いという感情は、たぶんない。なのにどうして「待って」なんて言ったんだろう。
 ぽたり、ぽたり、と落ちていく雫が段々と少なくなってくると、今度は冷えてきた体がぶるっと身震いした。いい加減着替えなくては。脱いだ服を置いておいた洗濯機の上へ手を伸ばした私は、あるべきもの……と言うか頼み忘れたものの存在に気付いた。バスタオルが見当たらないのだ。

「彰くん」

 無駄なものが置かれていない洗面室は綺麗に片付いていて、見回さなくてもタオル類がないのは一目瞭然だった。洗面下の棚を開けさせてもらおうか一瞬悩んだけれど、それも気が引けてドアの向こうにいるだろう彰くんに声を掛けた。

「どうした」
「あの……タオル借りてもいいかな」
「あ、そっか。悪い、今持っていくよ」

 静かだった部屋の方から足音や引き出しを開け閉めする音が聞こえ、私はバスルームへと舞い戻り扉を閉めた。さっきみたいにしゃがんで、膝を抱えて。近付いてくる足音と一緒に今にも壊れそうな心臓の音に耳を傾ける。バクバクとありえない速度で音を刻む鼓動の間に、ゆったりとした足音が混ざり、段々と大きくなってくる。

「あだな」

 ノック音と共に聞こえた声に、「ありがとう」と返事をしようとしていたときだった。振り向いてドアに手を掛けたわけでもないのに、ガラリとバスルームのドアが開き、刹那、ふわりと何かに包み込まれたのだ。
 
「……あ、……の」

 自身から出た、カラカラの声より何よりも。今の信じ難い状況に体が強張る。
 背中からそっと掛けられたバスタオルを巻き付ける余裕すらない。真後ろに彰くんが居る。その上、なにやらもう一つ持ってきたらしいタオルで私の髪の毛を丁寧に拭いている。

 ……なんで?

 素直な疑問を口に出来ないほど混乱していた。だって、だって……、彼が掛けてくれたこのタオルがなければ私は何も身に着けてない状態で。これから全てを余すことなく見られようとしていた、という状況だったことは分かっているけど、それとこれとは別であって、なんの心構えもなく訪れたこの事態に混乱しないわけがない。

「私……一人で拭けるから……その、」
「うん」

 ぶるぶる震えている唇からやっとのことで出したのに、頷いた彼の手は止まない。熱くて堪らない首や頬をそっとタオルで撫でて、長い髪の毛に滴る水を拭き取っている。焦れったくなるくらい、ゆっくり優しく髪の毛を拭いていた彰くんは、暫くすると「ドライヤー持ってくる」と言って立ち上がりものの数秒で戻って来た。言った通り持ってきたドライヤーの熱風が背後でブワッと私の髪を靡かせる。
 どう扱っていいのか悩んでいるのか少しぎこちない手つきは、髪が柔らかくなるにつれ、いつもみたいな私の頭を撫でる優しい触り方へ変わっていった。

「俺のはあっという間に乾いちまうけど、あだなのは長いから大変だな」

 ドライヤーの轟音に紛れた声に頷きすら返せない。恥ずかしくて堪らなくて硬直したまま、ただ髪に触れる柔らかな心地を感じていた。
 前に私が彼にしたみたいに、あら方髪が乾くと彰くんはドライヤーを冷風に切り替える。手ぐしを通していた髪を今度はブラシ梳かす。どこでそんなこと覚えたんだろうとか余計なことを考えながら、優しく扱ってくれることが嬉しくて、だけどそれがどうにも恥ずかしくて、熱い顔を伏せた。
 耳に届く轟音が静まり返り、「あだな」と優しい響きが私を呼ぶまで。


**

 ──ようやく見えた潤んだ瞳が、情欲を煽っていることをきっと彼女は気付いてはいない。


 終わったよ、と声を掛けてもブルブルと首を振り、うずくまったままのあだなの髪を撫でると乾かしたばかりで艷やかな感覚が指を通る。暫くそうやって撫でたのちに、僅かに見せた彼女の顔は今までにないくらい真っ赤で、それでいて艶めいていた。

「恥ずかしくて死んじゃう」
「それは困るな」
「なんで彰くんはそんなに平然としていられるの」
「平然って、そんなことはねーよ」

 そんな風に見えることに驚いて軽く目を見開いた俺の顔を見ず、彼女はまたブルブルと首を振る。

「嘘ばっかり。私は心臓が爆発しそうなほど苦しいのに」
「俺だってそうだよ」
「嘘!」

 終わりそうにない平行線の議論に頭を掻く。何がどこでこんがらがってこうなってしまったのか。
 止められなかった衝動のせいか、それともタオルを持っていくだけで終わらなかったついさっきの行動のせいなのか。少し考えたところで彼女よりも小さく首を振り溜息を吐いた。過ぎたことを考えても仕方がないし、恐らく時間を巻き戻しても俺は同じ行動をとるだろう。
 タオルを掛けたままうずくまっている彼女を抱き上げると、小さな悲鳴を上げたあだなはジタバタと腕の中で藻掻き始めた。

「そんな動くとタオル取れちまうぜ」

 ビクリと大袈裟に肩を震わせたあだなは体まで熱を伝染させ、赤い体にタオルを巻き付ける。ああ、可愛いな。見ていると緩んでいく俺の口元が、この子には見えてねーのかな。
 平然となんかしていられるわけがない。可愛くて、好きで、愛しくて堪らないのに。
 優しくベッドにおろすと、あだなは真っ赤な顔を横へ反らした。両腕とタオルで固くロックされている胸元目掛けて、鎖骨へ置いた指をするすると滑らせていく。

「嫌?」

 視線を合わせないままの彼女の顔がまたブルブルと横に振れる。僅かに緩んだ両腕を胸の前から外し、「見せて」と囁やけば、彼女はその手で顔を覆った。危なげに体を隠しているバスタオルをそっとずらせば、彼女の全てがさらけ出された。
 綺麗だな、と息を呑んで、露わになった二つの膨らみへ手を運ぶ。
 
「……っ、彰く……」

 やわやわと触れながら首すじへ口付けると、あだなは僅かに体を撓らせた。何度も口付けながら鎖骨、胸元へと唇を運んでいき、その度に甘い吐息を零していた彼女は、柔らかさを確かめるように触れていた胸の頂を弾くと遂に嬌声を上げた。
  
「隠さないで、聞かせて」

 自分の出した声に驚いたように彼女は口を覆った彼女にそう言えば、あだなはまたブルブルと首を振った。

「恥ずかしい……」
「可愛いよ」

 目を潤ませて顔を紅潮させている彼女はきっと、さっきみたいに「恥ずかしくて死んじゃう」とか思っているのだろう。

「それは困るんだよなあ」

 小さな呟きは必死で口をおさえている彼女の耳には届いてはいないらしい。あだなを困らせるつもりも嫌がることをするつもりもないのに、こうして耐えている彼女の全てを暴いてやりたい自分もいる。そして、彼女自身も本当はそれを望んでいる気がするのだ。

「名前」

 恐らく初めて口にした呼び方に、彼女が目を見開いた。口元にあった手を絡め取り、そっと唇へ口付ける。

 誰よりも近くて、誰よりも理解していて、誰よりも強い気持ちを持っているつもりでいたのに。自分の元へ舞い戻ってきた蝶をまだ手に入れたという感覚はない。
 だから受け入れてくれ、とは思ってはいないけど。自分が思っているよりずっと、目の前にいる男が自分のことを好きだということに気付いてくれたらいいのに。 

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