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21.甘い苦みと願う気持ち


 ぽたりぽたりと、垂れる雫に思わず手を伸ばしたくなる。上げかけたのを誤魔化すように髪に触れ、くるくると弄びながらドクドクと早鐘を打つ心臓の前へと導く。溢れてくる想いは未だ表現できぬまま、ここで燻っていた。

「お風呂ありがとうございました」

 タオルで髪を拭きながらリビングに入ってきた彼と目が合うと私は慌てて視線を逸らした。さっき抱きしめ合っていたのがまるで夢のようで、自宅という場所が妙に自分をさめざめとさせる。
 なんで私は何も言えなかったんだろう。初めて回し彼の背中の感触をと、千切れんばかりに私を抱いた腕の強さは自分の体にリアルに残っていた。夢と現実の狭間でゆらゆらと揺れているみたいだ。

「まったく、この子は彰くんにもこんなに迷惑をかけて」
「大丈夫です、全然迷惑じゃないんで」

 本当に何も気にしていなそうな笑顔に燃えるような熱さと痛みを覚えた。ドクンドクンと胸が高鳴って、なのにズキズキと痛い。 
 家に帰ると待ち構えていたお母さんは、彰くんを見るなり「お風呂に入りなさい」と半ば強引にバスルームへ押し込んだ。私が清田家に訪れたときとまるっきり同じシチュエーションは、雨に濡れることすら厭わずに彼が私を探していてくれていたことの表れでもある。うちで借りたらしい傘を持ってはいたけれど、彰くんの衣服はあのときの私みたいに濡れていたのだ。

「だけどねえ。部活もあるのに風邪でも引いたら大変だわ」

 彰くんがお風呂に入っている間にこってりしぼられたけれど、お母さんはまだまだ言い足りないらしい。ぶつぶつ言いながら鋭い目で私を見た。その視線に亀みたく肩を縮こませていれば、「まぁまぁ」と彰くんが諌めるように私とお母さんの間に体を滑り込ませた。「風邪ならこの前引いたし免疫出来てるから」なんて、よくわからないフォローを入れつつ、「それよりも」と強調するように言葉を強めて話を続けた。

「あだなの気持ち、ちゃんと聞いてあげてください」

 真っ直ぐで、なにか訴えかけるような視線に、私もお母さんも暫しの間言葉を忘れてしまった。今の今まで一度も出なかった涙が思い出したように迫り上がってくる。
 ……どうして。あなたはいつでも私が欲しかった言葉をくれるのたろう。今にも零れ落ちていきそうな涙をぐっと堪えて。唇を噛んで。涙の代わりに静かにそっと息を吐く。
 帰宅後既に居なかった兄は、自身が所属する楽団のコンサートで横浜へ行ったのだと聞いた。別に我が家に滞在するわけでもなく、ただ顔を見せに寄っただけ。言わば私の取り越し苦労で沢山の人に迷惑をかけてしまった。だけど、幼い頃から植え付けられたコンプレックスが消えたわけではない。奥深くに眠っていたものが表面化して、なんの問題も解決しないまま、また先送りされようとしている。
 言葉を詰まらせていたお母さんは、頷くでもなく頭を振るでもなく。涙を堪えていた私のようにフーッと細い息を吐いたのち、僅かに上を見上げた。「わかったわ」と、小さく部屋に広がったか細い声に、堪えていた涙がぽろっと一雫零れていった。



「彰くん、ありがとう」

 今更すぎる言葉を述べると、彼の目は驚いたように丸くなった。
 直視するのが恥ずかしくて、そっと視線をずらして歩く速度を速める。歩幅がまるで違う彼は、私のペースに合わせながらゆっくり私の後ろへ続く。背中に目がついているわけではないけれど、こんな私見て微笑ましくしているだろう彼の表情はだいたい想像がついた。その視線から逃れたくてパタパタと小走りしながら洗面所へ駆け込んだ私は、なるべく顔を見上げぬよう、そこへ彼を引っ張り入れてドアを閉める。

「そこ、座って」

 そう洗濯機の前を指差して、洗濯ラックにぶら下げてあるドライヤーを取りプラグをコンセントへ差し込む。不思議そうにしながら素直にそこへ胡座をかいて座った彰くんは、真上を見るようにして私を見上げた。

「もしかして乾かしてくれんの」
「前、向いてて」

 頭を押し戻すように前を向かせてドライヤーのスイッチを入れる。轟音と共に吹き出した風を流し当てた髪の毛には、まだ滴り落ちそうな雫が残っていた。

「ちゃんと拭いてから出てきなよ」
「わりぃ。いつもの癖で」

 ドライヤーの大きな風の音に紛れて聞こえてきた声は、“悪い”なんて言いながらも楽しそうで。嬉しそうに持ち上がっている頬が上からも見えた。珍しく、と言うか、ほぼ初めてに等しい彼を見下ろす格好に妙な擽ったさを感じる。
 あっという間に乾いてきた張りのある髪に手櫛を入れながらドライヤーを冷風へ切り換える。髪の毛が短いとすぐに乾いていいな。羨ましさを感じながら長めの前髪を撫でるように整えて、大人しく座ってされるがままでいる彼の後ろ姿を見つめる。
 さら、さら、と髪を撫でる。既に艶の出た髪はもうすっかり乾ききってしまった。だけどドライヤーのスイッチに掛けた指は動かない。まだ切りたくない。このままこの距離で、彼の髪を撫でていたい。
 さら、さら。髪を梳かして、触れて。今日一日を思い出す。いつから私を探してくれていたとか、自分のことは何も言わないけれど、必死で駆け回っていただろうことは彼自身を見ればわかった。濡れたTシャツにジーンズ。いつもツンと立ててた髪は昔みたいに垂れていたし、上がった息も、熱い体温も、全部が全部それを示していた。
 きゅうっと締め付けられた心臓はまた速度を速めていく。さら、さら、乾いた髪を撫でながら、今すぐにこの大きな体を引き寄せて抱き締めてしまいたい衝動に駆られる。

 どうして何も言えなかったんだろう。

 熱かった腕の中を思い出し、再び疑問に思う。
 会いたかった。顔を見たかった。笑いかけてほしかった。話を聞いてほしかった。傍にいてほしかった。……ごめんね、って言いたかった。
 漠然としていてもいい、彼に向かう気持ち全部、言葉に出してしまえばよかったのに。
 

「……すき」

 
 ぴくりと小さく肩を揺らした彰くんの反応がなければ、轟音に紛れた小さな声が自分のものだと気づかなかったかもしれない。
 単純明快なその言葉は、じわじわと私の中に入って大きく形作られていく。どうしてこの言葉が出なかったのかと、今になって疑問に思うほど。
 それはきっとずっと前。もっと昔から、私の中にあった気持ちのはずだ。

「……いま、なんか言った?」
「…………え」
「もう一回言って」

 轟々と大きな音を出していたドライヤーは彰くんによって電源を落とされていた。そのことに気付いたのも、随分はっきりと聞こえてくる彼の声に驚いてから。掴まれた手首にじわりと熱が伝わってくる。
  
「あだな」

 柔らかいけれど僅かな焦れを感じる声に急かされて、きゅっと服の裾を握る。今更怖気づいているわけではない。ようやくはっきりと形作られた気持ちは決壊寸前だった。
 溢れて、溢れて、どうしようもないくらい大きな気持ちに少しばかり戸惑いを感じて。なぜもっとずっと前に伝えなかったのかと泣きたくなって。真っ直ぐに私を捉える視線から目を逸らせぬまま、溜まった涙が溢れていく。

 
「すき。


 彰くんが、好き」

 言い切る前に引き寄せられた体は、彰くんの腕の中にすっぽりとおさまった。今度は躊躇なく彼の背に手を回して、ピタリと彼の胸に密着する。
 私の居るべき場所だ、と。改めて感じてまた涙が頬を濡らす。

「あだな、もう一回」
「……好きよ」
「もう一回言って」
「好き」
「んー……、あと一回だけ」
「ねえ」

 いい加減にして。繰り返されるアンコールに、頬を膨らませてついそんなことを言いたくなってしまう。噛み締めるように私の声を聞いていた彰くんは、フフと笑いながら「ごめん、ごめん」と言った。
  
「ずっと聞きたかったから」

 強く私を抱いていた手が髪を撫で始める。以前よりも伸びた髪の上を、毛先までゆっくり滑らせて。今まで一度として言うことのできなかったこの言葉を、彼はずっと待っていてくれていたのだろうか。

「好き、だよ」

 ならばもう一度。怖ず怖ずと出した言葉に柔らかく笑んだ彰くんは、うん。と一つ頷いて、また髪を撫でる。

「知ってたよ」
「知ってたってなに」
「言葉通りだよ」
「……私のことからかってるの」
「そーいうんじゃねーけど」

 参ったなぁ。とでも言いたげに眉を下げて、乾きはじめた涙を彰くんが拭う。何度かバスタオルを目尻に押し付けたのち、乾いた瞼の下を指し示すようにトントンと彰くんの指が滑った。

「俺のこと好きって目が言ってる」 

 昔からずっとそうだったぜ。と言われて思わず目元を覆った。昔って、いつからでしょうか。自分でも認識していない気持ちを彼は気付いて黙っていたってこと……だよね。
 あまりに恥ずかしすぎる事実に、目を覆いながら暫し悶える。くすくすと小さく笑う声が耳元で聞こえたかと思えば手を取り払われ、彰くんは再び私の目尻に触れた。
 
「最近は俺以外にもそーゆー目、してたけどな」

 それが誰のことを言っているのかわからないほど鈍くはない。「頑張って」と私を送り出してくれた笑顔が過ぎり、チクチクと刺すような痛みが走る。
 
「でも、誰にも渡さねーけど」

 頬を包み込まれ、「こっちを見て」と言わんばかりに顔を斜め上に向けられる。視界の中は彰くんでいっぱいだ。
 徐々に大きくなってくる彼の顔はあっという間に影が落ち見えなくなる。ふわ、と触れた唇の感触で、キスをしたのだと気付いたの私は遅れて目を閉じた。


 三年ぶりにしたキスは、砂糖菓子よりも甘くて、心の底から幸福感を感じた。


***


 目に映る景色がモノクロに変わった。燦々とした太陽の光さえも薄寒く見えて余計に心を冷たくさせる。
 いつまでも女々しく落ち込んでんじゃねーよ。自分に喝を入れるべく呟いた文言は、悲しいかな更に自分を落ち込ませた。うるせーよ。わかってんだよ、失恋ごときで凹んでる自分が女々しいことくらい。
 そこに居るだけで世界が輝いて見える。恥ずかしげなく言ってしまえば、彼女は自分にとってそんな存在だったのだ。“失恋ごとき”なんて言葉で片付けたくなんかない。出会って数ヶ月だろうと、大きな存在に違いなかった。
 ──名前さん、頑張って。引き止めたいのを必死に堪えて、精一杯カッコつけて彼女を送り出した日から二週間。姉貴の服を返しに一度は家に来たらしい彼女とは顔を合わすことなく、部活三昧の日常に戻った。
 彼女と出会う前の日常に戻っただけ。音楽室にも二年の特進クラスにも行くことのない、いつも通りの毎日。……の、はずだけど、見える景色はすっかり色を失ってしまった。
 八つ当たりみたいに足元にあった石ころを蹴っ飛ばせば、いびつな石ころは明後日の方向に転がっていった。ああ、情けねーな。自分の中にある靄々も哀しさも、なんも取っ払えないで鬱々としている自分が嫌になる。
 とぼとぼと部活からの帰り道を歩いていれば、大通りに差し掛かり赤信号。反対側の歩道に背の高い髪をおっ立てた野郎が居るのが見えて、俺は目を見開いた。今一番見たくない顔だ。

「げ」

 横断歩道の手前で止めかけた足をくるっと別の方向に向け、来た道を戻る。こうなりゃ今日は別のルートで帰るしかねえ。
 なんでアイツが俺の家の近くに居るのか。考えるだけ腹が立つが答えは一択だ。俺ん家から然程遠くない彼女の家に来たのだろう。足を速めて住宅街の細い路地に入り込めば、後ろからもう一つの足音が響いてくる。
 マジかよ、アイツなんで追い掛けてきやがんだ。俺の名前を呼ぶ声をガン無視して早足から全力ダッシュに切り替える。曲がり角をくねくねと何度も曲がって走っているうちに、完全に自分の居る場所を見失った俺は行き止まりにぶち当たった。めげずに追い掛けて来た野郎の足音が近付いてくる。

「なんで逃げんだよ、ノブナガくん」
「てめーこそ、なんで追い掛けてくんだよ」

 散々走ったにも関わらず、それを感じさせない涼やかな笑顔が余計に苛立ちを煽る。

「前にあだなの件でお礼言ってなかったから」
「別にてめーに言われたくねーし」
  
 名前さんのために自分がしたいことをやっただけで、コイツに礼を言われる筋合いはない。「そらそーか」と、何処となく悲しそうに眉を下げた仙道の前を通り過ぎ、俺は走って来た道を戻る。
 全速力で通り抜けて来た道を、今度はゆっくりと落ち着いた足音が二つ響く。何でまたついて来やがんだという文句は一旦堪えて、無言で元いた大通りを目指した。たぶんコイツも道が分かんねーんだろう。
 見覚えのある大きな通りが見えてきた頃には自分の中にあった苛々が少し薄らいでいた。さっきと同じく赤信号で止まった俺は、斜め後ろに立った背の高い影をチラリと見る。

「良かったな」

 自然と零れた言葉に、ヤツが目を丸くしただろうことはなんとなく察しがついた。それ以上何か言ってやるのは癪だから誤魔化すように咳払いをして、赤いランプが点灯した歩行者信号に視線を戻す。
 ふ、と笑ったような声色が後ろから聞こえると歩行者信号が緑色に変わり、カッコーと陽気な音を鳴らし始めた。

「あだなも言ってたけど、ノブナガくんて良い奴だよな」
「いい男の間違いだろ」
「そうだったな」

 互いに顔を見ずに横断歩道を渡りながらそんなことを言い合って。どんなことだろうと名前さんが自分のことを話していてくれていたことが嬉しくて、同時にぎりぎりと締め付けるような痛みを覚えた。
 横断歩道を渡りきり後ろを振り返った俺は、今日初めて真っ直ぐに仙道の目を見る。同じく真っ直ぐに俺を見る目に不思議と不快感はない。寧ろ前から変わらず、好ましいとすら思える。悔しいけど、俺はコイツのことを嫌いにはなれないらしい。

「泣かすなよ、名前さんのこと」
「わかってるよ」
「もしそんなことがあったら俺、全力で奪いに行くからな」
 
 ハハと小さく笑ったのちに、仙道は「それは困るな」と大袈裟に肩を竦めた。

「ノブナガくんだけは二度と敵に回したくねーや」

 どこまで本気かわからない言葉に「言ってろ」と返してやり、試合のときみたく肘でタッチし合った俺たちは別の方向に歩き出した。

 前に広がるいつもと同じ景色にほんのりと少し色が戻った。胸の痛みは消えないけど、ちょっとだけ前向きになれた夏のある日。
 願うのは名前さんがずっと、笑顔であること。

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