20.比較対象サファリング(2)
着慣れぬ服に袖を通して、恥ずかしさと申し訳無さでモジモジしながら初めてのお宅の戸を開ける。
「あら、いいじゃない。私の服ピッタリね」
私を見て綻んだ顔は、まるっとそのまま彼を女性にしたみたい。そのせいか彼に見られているような妙な恥ずかしさを感じてしまう。
「あの、初めてお会いした上にシャワーと服まで貸していただいて……」
「堅苦しいのナシだよ。ノブの先輩なんでしょう」
頷くのを待たずに手を取った女性はグイグイと私を引っ張り進んで行く。リビングを出て、さっき使わせてもらったのお風呂の前を通って階段を上り、「こっち入って」と押し込まれた部屋には少々気まずそうな面持ちをした清田くんが居た。
「話もあるだろうし二人っきりにしてあげるけど、名前ちゃんに変なことすんじゃないよ、ノブ」
「はぁあ?! するわけねーだろ、バーカ!」
シッシッと猫を追い払うような仕草をされ、「ナマイキ」と舌を出したのちに部屋から出て行った女性は清田くんのお姉さんの紫さんだ。バタバタと清田くんばりの騒がしさで階段の駆け下りていく音を聞きながら、怖ず怖ずとベッドに腰を掛けている清田くんの方を見る。清田くんはお姉さんが貸してくれた服と私の顔を何度か往復するように見て複雑そうな顔をした。お姉さんの服を着ている私に違和感があるのかもしれない。
「顔は名前さんなのに、なんか姉貴に見張られてるような変な感じがする」
「ごめんね、なるべくすぐに返すから」
「いや、それはいいんすけど」
あの土砂降りの雨の中、奇跡的に私を見つけてくれたのは清田くんだった。昼前に私の家に行って、事情を聞いた彼はずっと私を探してくれていて……あの公園の前も何度か通ったらしいのだけど、ダメ元で遊具の中まで見に来てくれたと言うのだ。なんとなく名前さんの声がした気がしたから、と。
──あだな、みーつけた
頭の中に響いたあの声。朧気に見えていた子供の頃の私たち。感傷に浸って馬鹿みたい、そう思っていたけど……もしかしたら彼らが清田くんを連れて来てくれたのかな。なんて、それこそ夢みたいなことを思ってしまう。
それくらいタイミングよく現れた清田くんにとても驚いたから。
「寒くないっすか」
「うん、もう大丈夫」
「なら良かった」
私が居た公園のすぐ近くに清田くんのお宅があるという偶然にも驚いたけれど、何にせよ家に帰るより早いということで一先ず彼のお宅へお邪魔することになった。そして、ずぶ濡れの私を見た紫さんにお風呂に強引に押し込まれて……、今に至るというわけ。
冷えていた体はシャワーとお借りした服のお陰で温かくなったし、頭の方もすっかり冷静になった。色んな人に迷惑をかけてしまった申し訳無さでいっぱいだ。
「約束、してたのにごめんなさい」
清田くんの前に座って深く頭を下げると、頭の向こうからガシガシと頭を掻く音が聞こえてきた。
彼は見つけてくれたときも、ここに着いてからも、一度も私に対して怒ってはいない。ただずっと私の心配をしてくれていて、それが更に私の至らなさを際立てる。
「……子供みたいでしょう。お兄ちゃんと比べられるのが嫌で黙って逃げ出して」
「子供みたいっつーか、俺らまだ子供っすよ。そういうときもあるし、別にそこまで責められるようなことしたわけじゃないでしょ」
柔らかく肩を叩く手と、「顔上げて下さい」という声に促されてゆっくりと下げていた頭を戻す。眉を下げたままニッと笑った清田くんは、親指でドアの方をさして肩を竦めた。
「俺もさ、姉貴いるからちょっとわかるんですよ。何かにつけてお前も紫みたいにしっかりしろって言われるし」
つーか普通にしっかりしてますけどね、俺。なんて思い出したかのようにブツブツ言い出したのち、清田くんは「名前さんの辛さと比べちゃいけないですけど」と締め括った。
確かに辛かった。親に反抗も出来ない、することすら考えられないくらい幼くて、それが当たり前だったから。
だけど、今はもう立派に自分の意志が言える年齢になったのに。
「よしよし。頑張ってエラかった」
突然下りてきた手が小さな子を撫でるみたく頭を撫でる。小さいときの名前さんは頑張ってたんだな、辛かったな。そんなことを言いながら優しく。
そのうちに大きく広げられた腕の中に閉じ込められ、トントンと背中を撫でられる。それこそ子供にするみたいな抱擁は、何度か柔らかく私の背中を撫でたのちに解かれた。
再び髪に触れ、“これでお終い”とばかりに頷いた清田くんは小さく息を吐き、言い淀むようにしながら私の目をまっすぐに見つめた。
「名前さん、本当は俺じゃなくて仙道が来るの待ってたでしょ」
小さく呑んだ息は、もしかしたら変な声を零していたかもしれない。真っ直ぐに私を見る目から視線を外し、僅かに首を横に振る。
“違う”と明確に言葉にできない時点で答えははっきりしていたのに。
「嘘つき」
逸らした視線を戻させるように、私の頬を両手で挟み込んだ清田くんの強い視線が私を貫く。
「滑り台の下の遊具覗いたとき、あきらくんって言ってましたよ」
もーいいかい、もーいいよ。
定番の掛け声が終わってもいつまでも私を探しにこない鬼の代わりに、彼だけは絶対に来てくれると思ってたし、必ず私を見つけてくれた。
私は、心の何処かでそんな風に彼が来てくれるのを待っていたのかもしれない。
「たぶん、アイツも探してますよ名前さんのこと」
「え……?」
「名前さんが戻ってるかもしんないし探してる途中に何度か名前さんの家に行ったんですけど、仙道が来たみたいなこと言ってたんで」
何かに突き動かされるように私はゆっくりと立ち上がった。なんで立ったのか、自分でふと疑問に思うくらい。
「清田くん、私……」
行かなくちゃ。
そう言葉にするまでもなく、清田くんは頷きニッと微笑んでくれた。
「名前さん、頑張って」
ごめんね、
ありがとう。
私の背中を押してくれた声に二つ言葉を返して、いつの間にか過ぎ去った雨雲のない空の下へ飛び出した。
・・・PM06:55
***
一度帰ろう、という選択肢は不思議と浮かびはしなかった。兄がどうこうでなくて、ただ単純に彰くんのことしか考えていなかったから。
私のことをよく知っている彼ならどこへ行くだろう、どんなところを探すだろう。恐らくそれを考えるなら、自分自身が行きたい場所に行くのが一番な気がした。だって言葉通り、彰くんは誰より私のことをわかっているから。
「駅……!」
家を飛び出したとき、一番最初に行った家から一番近い駅。思いつくなり跳ねるように駆け出せば、地面のあちらこちらに出来た水溜りの水が返り足元を濡らしていく。乾ききっていないサンダルはまたぐっしょり濡れて重いけど、さっきみたいにもう足は止めたくなかった。
もう土砂降りじゃない。顔も体も濡れない、前だってよく見える。……それだけじゃなくて、そうじゃなくて。
雁字搦めだった自分の心が、今はよく見えるんだ。
走って、走って、走って。足が縺れてもひたすら走って。
昼間と違い暗く見通しの悪い夜の駅を見渡した私は切符売り場の方へ駆けた。もしかしたら地元に行っている可能性もある。家を出てきたときに浮かんだ選択肢の一つでもある場所だ。
ポケットから財布を引っ張り出して、じゃらじゃらと小銭入れの中を探り出す。早く、早く……! 掻き集めた百円玉をコイン入れに一つ、一つと落としていると、真後ろでタン、と走り止まる音が大きく響いた。
「あだな!!」
弾かれたように振り向いて、財布から小銭が零れ落ちていくのも構わずに彼の胸の中に飛び込んだ。
「……見つけた」
上下する胸と汗の匂いが私を包む。前に抱きしめられたときよりも熱い体温は、ずっと私を探していてくれたからだろう。珍しく息を切らしている彼は自分を落ち着かせるように、私ごとゆっくりと胸を撫でる。「良かった」と譫言みたいに呟きながら。
「彰くん、あの……私、……私ね」
言いたい言葉が見つからない。伝えたい気持ちは溢れんばかりに胸に込み上げているのに、それを表現する術が見つからないのだ。
ありがとう、とか、ごめんね、とかそんな単純な言葉じゃ足りない。もっと、もっと……私の中で出来る得る表現で示したい。
「うん、大丈夫」
全部、わかってるよ。
言葉にせずとも、彼がそう言っているのが分かった。頭の上からゆっくりと優しく背中を撫でてくれる手が、じわりじわりと私を解していく。撫でてくれるリズムに合わせるようにゆっくり、片手ずつ彰くんの背に手を回せば、優しく撫でていた手が私を掻き抱くように強く抱き締めた。
私の居る場所はここだ。
それを初めてはっきりと認識した、真夏のPM07:30。