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19.比較対象サファリング(1)


 大抵の場合起き抜けに夢の記憶はないが、今日は何故か居ないはずの人の温もりを感じた。

 ぼやっとしている目をこすり、一人で寝たはずのベッドを振り返る。特に膨らんでもないぺたんこの掛け布団を捲り、隠れられるはずもない枕の下まで確認してみる。……居るわけがない。だけど自分の体はつい今し方、彼女に触れたような感覚を感じていた。

 夢を見たのだ。

 そう結論付けるのは簡単だが、なんかそれじゃあ勿体ねえ。折角だから気分だけでも彼女に会った感覚を味わっておこう。寝起き一番、わけの分かんねえことを思いながら一人サイズの小さな冷蔵庫を開けた。

「やべ、飲みもんなんもねーや」

 飲み物どころか今から食べれそうな物すらないスカスカの冷蔵庫を閉じ、諦めて蛇口を捻り水道水をコップへ入れる。
 一人暮らしというものを始めて親のありがたみを嫌というほど感じる生活を送っているが、一年経過しても自分がしっかりしてきたという感覚は得られない。お茶を沸かさなくてもこうして蛇口を捻れば水が出てくるし、腹が減ればコンビニに走ればいい。ありがたいことに助けてくれる人は沢山いるし、“まぁ、どうにかなるさ”という感じで日々を過ごしている。
 水道水を一気に呷り空になったコップを流し台に置いて、適当に引っ張り出したTシャツとジーンズに着替える。ローテブルの下に放ってあった二つ折りの財布をポケットに捩じ込んで、朝食にありつくために近くのコンビニまで出ようとした俺は玄関脇にある作り付けの棚に置きっぱなしのあるものの存在に気付いた。

「あっ、これだけ返してねー」

 言いながら目を尖らせた彼女が浮かんでくる。

 ──もう、しっかりしなさいよ彰くん

 そこに居るわけでもないのに「わりぃわりぃ」と呟いて、置きっぱなしになっていたタッパーをキッチンへ戻す。一人暮らしの男子高校生の家に不釣り合いな可愛らしいキャラクターが印刷されたタッパーは、以前あだなのお母さんが作ってくれた作り置きの料理が入っていたもの。気を遣って大量に作ってくれた料理は彦一から受け取った翌日からありがたくいただいて、タッパーは綺麗に洗って返したはずだったのだが一つだけ忘れていたらしい。
 
 ──どうして私が持っていかなくちゃいけないの

 タッパーを見ていると、不服そうに口を尖らせるあだなが浮かぶ。おばさんにこれを持って行くように言われたとき、十中八九こんなことを言ったはずだ。
 くくく、と抑えきれない笑いが零れる。そうやって不満を言いながら、ちゃんと持ってきてくれんだから俺の幼馴染みは可愛い。校門の塀に少し寄りかかって、俯き加減で俺を待っているあだなの姿が容易に浮かぶ。何度か腕時計を確認して、ため息をついて。手持ち無沙汰になったら長い髪の毛をくるくる弄って、少しだけ頬を染めてまた下を向くのだ。

「……会いてーな」

 無意識に出ていた声に驚いて、小さく笑ったのちにその言葉に返すように呟いた。

 ──そうだよな。

 置いたばかりのタッパーをスポーツバッグの入れ、駆け出すように玄関の扉を開けた。
 

・・・AM08:20

***


 ──明日、会えませんか

 そう清田くんに言われたのは昨晩のこと。広島から帰ったその足で我が家に寄ってくれた彼は、準優勝の報せとお誘いを合わせてしてくれたのだ。

「何時に来るの」
「……さあ」
「どこか行くの」
「わからないわ」

 お母さんの問いにそっけなく答えながらティーポットにお気に入りの茶葉を入れる。「なにそれ」と不服そうに私の周りをウロウロしていたお母さんは、呆れたような顔をしてダイニングチェアに腰掛けた。別に隠しているわけじゃなくて、特に詳細なことは決めていないだけ。
 熱湯を注ぐと徐々に香りが立ち始めた紅茶の匂いに目を閉じる。あぁ、いい匂い。お母さんも娘の恋愛事情ばかり気にしていないでこれを飲んで少し落ち着いたらいいのだ。
 カップを二つ用意して注いだ一つを出すと、お母さんは角砂糖を三つ落としてティースプーンを回す。中央に寄った皺は、まだまだ言い足りない何かの表れだろう。

「彰くん、この前名前が居なくて残念そうにしてたのよ」

 数日前、彰くんがタッパーを返しに来てくれたときのことを持ち出してお母さんは溜め息をつく。これもここ何日かで耳にタコが出来るほど聞いた。
 ちょうど合唱部のお手伝いを頼まれた日で帰りが遅かった私と彰くんは会えず、デートの日から2週間ほど経っている。

「タイミングが合わなかったんだから仕方ないでしょう。だいたいなんで急に彰くんの話になるのよ」
「なんでって、お付き合いしてるんでしょう、あなた達」
「してないわよ」
「前のデートはなんだったの」
「友達同士でもデートって言うのよ」
「言わないわよ」
「お母さんの時代と違うの」

 ピシャリと言い放った言葉にお母さんはムッと口を尖らせたのち、ようやく紅茶に口をつけた。なんだかんだと一々口出しする母さんだけれど、これでも昔に比べたらだいぶ落ち着いたのだ。
 掘り起こしかけた心の奥底にある靄々を封印するべく熱い紅茶をコクっと飲み込む。嫌な思い出なんて、きっと誰にでも一つや二つあるはすだ。爽やかな香りが鼻を抜けていくと、スーッと心も落ち着いてくる。そうよ、態々思い出す必要なんてない。
 ソーサーにカップを戻すと、同じタイミングで家のインターホンが鳴り響いた。

「……あら、随分早いわね」

 首を傾げたお母さんに急かされて、私はパタパタ玄関へ走った。


・・・AM9:50

**

 
 憎らしいくらい真っ青で何処までも続いている空を見ていると、これ以上ないくらい自分がちっぽけな存在な思えてくる。
 ならば見なければいいのに、目が離せないままストローを咥えてジュースを流し入れる。独特の酸味と甘ったるさが口に広がって顔を顰めた私は思わず手元のパックジュースに視線を戻した。苦手なパイナップルがでかでかと描いてあるパッケージなのに、気付かず買ってきた自分の馬鹿さ加減に呆れてしまう。

「なにやってんだろ」

 本当に、なにをやっているんだろう。

 最寄り駅のロータリー、ぼんやりと空を見上げて苦手な味のジュースを買ってきて。お昼を過ぎてお腹の虫も騒いでいるし、燦々照りの太陽の下は暑すぎる。

 家に帰ろう、帰るべきだ。

 わかっているのに足は動こうとはしない。ピタリと地面に張り付いて、根っこを生やしたみたいに。

「清田くん、来ちゃったかな」

 既にあれから三時間。来ていてもおかしくないし、事情を聞いて心配しているかもしれない。
 結論から言えば、あのときのインターホンは清田くんではなかった。……私の兄が、押したものだったのだ。

「……あつ」

 流れ落ちてくる汗を拭ったハンカチで顔を扇ぐ。真夏にいつまでも外を彷徨いてたら熱中症にでもなりかねない。重い腰を上げてふらふらと建物の傍に出来た日陰の下に入る。
 帰りたくても帰れなくて、衝動的に家を出てきてしまった理由は、兄の突然の帰国が理由だ。

 私と兄は12、歳が離れている。それ故に、と理由付けるのはおかしいけれど、我が家に関して言えば年の離れた兄とはほぼ関わり合いなく育った。私が幼い頃は勉強や習い事に忙しかったし、小学生になった頃には彼は海外の大学に進学したから。
 会話したことすら思い出せない、故に喧嘩をしたこともない。そんな兄の帰国に心乱される理由なんてないように思えるだろう。事実、兄のことは嫌いではないし、嫌うほどの関わり合いなんて一切ありはしなかった。……けれど。

「比べられる方にならなければ、気持ちなんてわからないのよ」

 ぽつりと零した小さな呟きに通りすがりの人が振り返った。誤魔化すかのようにストローに口をつけ、苦手な味を吸い上げる。このジュースみたいに終わりがあるのなら、嫌でも苦しくても、多少我慢すればいい。だけど私はそうじゃなかった。全てが優秀な兄が基準で、兄みたいになれとずっと比べられてきたのだから。


「おいおい、マジかよ」
「今日は晴れ予報だったはずだろ」 

 駅から出てきた人が空を見上げて嘆く。いつの間にか真っ青な空はどんよりと暗いグレーに変わっていた。
 さっさと帰ろうと小走りで駆け抜けていく人や、今のうちにとタクシーを止める人が私の前を通り過ぎていく。ゴロゴロと雷の音が聞こえたかと思えば、ぽつりぽつりと雨滴が零れる。
 あっという間に様変わりしてしまった空は大粒の雨を降らしていた。


・・・PM01:15

** 


 雨は酷くなるばかりで止む気配がない。

 雨の中に飛び込む前にコンビニに行けば良かったとか、ジュースより傘を買えば良かったとか、今更なことを考える。そもそも真っ青な空には降る気配するなかったのだけど。

「……くしゅっ」
 
 身震いした肩をさすると、びっしょり濡れてしまったTシャツの冷たさが肌に伝わる。
 暫く駅前で佇んでいたけれど、中々止まない雨の中に覚悟を決めて飛び込んだ。流石に帰るつもりで家の方向に走っていたけれど、強すぎる雨足のせいで視界は悪く、ぐっしょり濡れてしまったサンダルのせいで何度も足が縺れる。堪らず通りがかった公園の遊具に入って雨宿りをすることにした。……わけだけれど、この雨は一体いつ止んでくれるのか。

「あーあ、なにやってるんだろう」

 滑り台と登り棒のついた家型の遊具は、今日何度となく言った言葉を大きく反響させた。

 なにもかも最悪な日だ。 
 
 大雨に降られて、嫌いなジュースを飲んで、清田くんとの約束をすっぽかして、兄が来て……。
 最初から飛び出さなければ良かったのだ、わかっている。比較されていたのなんて昔のこと。兄がオーストリアに行ってからは少しずつ少なくなっていって、お母さんもだいぶ落ち着いてきていたのに。

 でも、だからこそ、落ち着いた日々に兄が戻ってきたのが恐怖だったんだ。


 バラバラ、と雨粒が落ちているとは思えない大きな音が遊具に響く。
 そういえば、地元の公園にもこんな遊具があった。登り棒を使って高鬼したり、かくれんぼでこういう家を模した遊具の中に隠れてみたりして。私はいつも彰くんにくっついて遊んでいた。 
 ジャーンケーンポン、の掛け声で手を出し合って鬼を決めて、鬼が数を数えるときは公園のど真ん中にある時計塔でするのが定番だった。この公園にもある……、ほら、文字盤を棒で支えたシンプルなやつ。あそこで目を隠して、鬼ごっこでもかくれんぼでも決まって20数えるの。 

 ──いーち、にーい、さーん、しーい……

 叩きつけるような雨の中に、一斉に散らばっていく子供たちが見える。
 それは思い出の中の自分たちの姿。其々が見つけたとっておきの場所に隠れて、息を潜めて鬼を待つのだ。
 

 ──もーいいかい

 ──もーいいよ!
 
 息を潜めて、潜めて。だけど楽しくなっちゃってくすくすと笑ってしまって鬼にバレちゃう子。途中で飽きたりふざけだしちゃって態と見つかっちゃう子。一人、一人と見つかっていき、私はよく最後の方に残っていたっけ。
 ああ、あの日もそうだった。ひとり残ってしまってずっとずっと誰も来なくて。


「もーいいよ」

 涙が流れ落ちても、止まらなくても、最後は必ず見つけてくれる人がいたんだ。


 ──あだな、みーつけた



 腕時計の時刻はPM05:30。

 パシャパシャと雨粒を散らす足音と共に、幼いころの彰くんの声が聞こえた。

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