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18.わたしの中にいる二人


 手のひらを見つめては溜め息をついて蘇る温もりに頭を振る。思い出すのは一人の顔ではなくて、ショッピングモールで照れ臭そうにしていた後輩と、地元にいたせいかいつもよりどこか幼さを感じた幼馴染みが入れ替わるように現れる。自分の意志と関係なく浮かび上がってくるそれをどうにかしたくて、布団に顔を埋めてジタバタしていた私は、久しぶりにアップライトピアノの蓋を開けた。
 音を奏でれば雑念はきっと消えるだろう。そんな短絡的な気持ちを見透かすかのように、鍵盤に乗せた指はブルブルと震えて動きはしない。私は一体どうしたいのか、なにをしたいのか。考えるべきことも、やるべきことも、きちんと理解しているはずなのにまともに手がつかない。
 机の上にあるけれど、これまた投げ出してしまった本日やるべき課題も見ない振りして階段を駆け下りた。こんなんなら部活にでも入って活動したほうが余程健全な生活が送れるように思える。
 だけどそんな一時の感情で部活に入るものではない。第一にそれをよく思わない人が家族の中にいるわけで。キッチンで忙しそうに調理しているお母さんを横目に、冷蔵庫から麦茶が入った容器を取り出した。視線を感じつつ、食器棚からグラスを取って麦茶と一緒にダイニングテーブルへと運んだ私はそれを注ぎ一気に呷る。空になったグラスを置き、何度目かの溜息をついて思う。だめだ、家に居ると私はろくなことを考えない。

「最近彰くん来ないわね」

 キッチンから届いたお母さんの声は、よりそれを強く思わせた。こんなことばかり言われるから彰くんのことばかり思い出して付随するように清田くんのことまで頭に浮かぶのだ。
 この尤もらしい言い訳が、いかに自分勝手なもなのかは頭の隅では理解していた。全部全部、はっきりしない自分のせい。ちゃんと答えを導き出せばそもそも頭を悩ませる必要もないし、どっちつかずな自分に嫌悪感を抱く必要もないのに。

「最近って言うほど頻繁に来てないでしょう」
「でもあなたとデートに行った日からもう一週間近く経ってるわよ」
「彼は私と違って部活があるのよ」

 三年生も引退したし彰くんはキャプテンになったのだから忙しいに決まってるでしょう。続けてそう言えば、お母さんの声は消え、部屋の中はトントンという包丁の音だけになった。静かにはなったけれど、お母さんが引っ張り出してくれた“彰くん”やら“デート”というワードのお陰で頭の中はまたぐちゃぐちゃである。

「ちょっと外出てくる」
「あ、待って。もう少しで出来るから」
「何が? お昼ご飯ならもう食べたし夕食にはまだまだ早いじゃない」
「作り置きよ」

 聞こえた言葉が聞き間違えかと疑いたくなる私の気持ちがわかるだろうか。止んだ包丁の音の代わりに「タッパー足りるかしら」というお母さんの声が聞こえてきて私はキッチンの方へ振り返った。

「……お母さん、まさか」
「この前の好評だったのよ。彰くんにまた作ってくださいって言われてね」

 いい加減にして! という私の声が大きく響いたのは想像通りだろうけど、こうしてまた私がクーラーボックスをぶら下げて他校へ足を運ぶ羽目になったのもまた想像に違わないだろう。


 部活中に渡しても邪魔になるだろうし中身は食品だ。以前の反省も踏まえて今回は部活が終わる頃に陵南高校へやって来た。体育館まで行くか否か少し悩んだ私は校門を背にし壁にもたれ掛かり、クーラーボックスを地面に下ろした。恐らくそれほど待たなくてもバスケ部の誰かしらが出てくるはずだ。
 腕時計を確認してハァと息を吐く。外に出たかったはずなのに、外にいても考えることは大して変わらない。状況がそうだからと言うより、自分の脳が二人に侵食されてしまったと言ったほうがしっくりくる。

 彰くんはちゃんと部活を頑張っているのかな。

 清田くんはそろそろ合宿から帰ってくる頃だろうか。

 浮かんでは消え、また浮かんでくる顔を思いながら空を見上げた。深い青の下側から徐々にオレンジ色が混じり始めている。ころころと様変わりしていく空はまるで自分の心みたいだとぼんやりと思った。
 次第に校舎の方から足音や声が小さく聞こえ始め、はたと気付けばバスケ部の見覚えのある顔達が私の前を通った。

「あ、仙道さんの……!」

 その中のひとりが私に気付き指を差したので私もぺこりと頭を下げた。私のことを“仙道さんの”と、微妙なところで止めて呼んだ関西弁の子は、「一年の相田彦一言います」と丁寧に名乗ってくれたのちに眉を下げた。

「すんません、仙道さんは今日部活お休みしてはって」
「え……、どうしたの」
「体調崩しはったみたいで。熱が出たって連絡があったらしいです」

 そっか、と小さく返した私は地面を見下げた。持ってきたものをどうすべきかという心配より何より、一人で暮らしいていると聞いた彼のことが気に掛かる。
 ちゃんと水分は取れているだろうか。食事は? まさか熱のときに出歩くことなんてないだろうけど、きちんとベッドで休んでいるのだろうか。……なんて、まるで彼のお母さんみたいだ。足元に置いたクーラーボックスを取り相田くんにお礼を述べて帰ろうとすると、彼はクーラーボックスを指して言った。
 
「荷物、良かったら預かりましょうか。わい、仙道さんの家知ってますし、お渡ししときますよ」


***

 ラッシュ前の電車に乗れたのは幸運だったかもしれない。
 けれど空席のある座席には座る気になれなくて、扉近くに立ち外をぼんやり眺めた。後ろ髪を引かれるような気がするのはきっと彼が心配だから。でも大丈夫、お母さんの作り置きは相田くんに託したし、熱が下がったら食べて栄養つけてもらおう。
 ──大丈夫。誰に言うでもなく、自分に言い聞かせるように心で唱えるそれが何に対してなのか自分でもよくわからない。暗くなりすっかり見えなくなってしまった海を眺めて一駅、二駅……思うより離れている道のりの中、また唱える。「大丈夫よ」 
 声に出したつもりのない響きに反応し、向かい側にいた人が私を見た。うっかり心の声が出ていたことが恥ずかしくて、私は誤魔化すように視線を逸らした。それなのにその人はなぜだか私の方へ歩いてくる。目を逸らしていると言うのに、視線の隅っこでどんどんと影が濃くなっていく。なんで、なんで? 強張る肩にトンとその人の手が乗った。

「久しぶり。前に陵南うちに来てた子だよね」

 恐る恐る視線をずらし見えたのは陵南高校のジャージを着ている男の人。確かに見たことがあるような気がすると記憶を辿ってみれば、前に陵南高校の校門で声をかけてきた三人組の一人だとわかった。
 ぺこっと小さく頭を下げ、私はまた窓の外を見る。会ったことがあれど別に話をしたいわけではない。だけどその人は私の隣から動こうとせず、それどころか「今日もうちに来てたの」「家はこの辺なの」とか言いながら距離を詰めてくる。

「もしかしたら彼氏に会いに来てるの」
「違います」

 間髪入れず答えた私はすぐに自身の愚かさに気付いた。返答なんてしたものだから、緩んだ顔がニヤニヤと「じゃあ俺に会いに来たのかな」なんて言い始めたのだ。
 こいうタイプを相手にしてはいけない。越野くんもタチが悪いって言っていた気がするもの。手すりを握って 背を向けて足元を見つめる。早く諦めて欲しい。早く彼の降りる駅について欲しい。

 ……もし、私が先に降りたとして、着いてきたらどうしよう。
   
「ねえ無視しないでよ」

「キミ、すごく可愛いよね」

「どの駅で降りるの」

 あれから何ひとつ声なんて出していないのに、顔すら見ていないのに、止まない呼びかけはどんどん私に近付いてくる。
 お願い。早く。何処でもいい、どこか早く駅について。
 扉が開いているなら走行中でも飛び出したいくらい。

 早く、早く、早く……!

「ねえ、こっち向いてよ」

 ずい、と体を押し付けられたかと思えば肩に生暖かなな熱を感じた。私の顔を上げさせたくて肩を抱いたみたいだ。

「……や……やめ、……て」

 口から出た自分の声のか細さに自分自身驚いていた。だけどそれが精一杯なのだ、手すりを持つ手も、唇も震えていて、これ以上大きな声を出せるとは思えない。惟一でき得る抵抗として、肩を抱く手を払うべく必死に体を揺らした私は目を合わせぬよう下を向く。
 一瞬だけ見えた、遠巻きで私たちを見ている人たちはなにしてるの。私、困ってるの。助けて。お願い、お願い……! 

 ──ガコン、と大きな音と共に電車が揺れた。瞬間、少しバランスを崩した私の体も揺れ、同時に何かに抱き寄せられた。自分と違う体温に触れた体は強張り、必死で抵抗を試みる。
 でも違う、さっき感じた不快感はない。今、私の体を抱き留めてくれている手を、私は知っている気がする。

 
「てめえ、俺の連れに手ぇ出してんじゃねーぞ」

 いつもよりずっとずっと低い声と、怒りを滲ませた鋭い表情がまるで別人みたいで、それが清田くんだと認識するのに少しばかり時間がかかった。
 なんでここにいるの──なんて、今考えるにはどうでもいいことが頭に浮かんだのち、抱かれている安心感が急激に私を包んだ。

「なんだよ、誰だお前……」

 急に現れた清田くんに動揺した男は少しずつ後退る。そして、後ろを見ぬまま別の人にぶつかりよろけてしまった。ぶつかってしまったのがバスケ部の三年生の高砂さんという大きな人で、彼を見上げた男は青褪めた。気付けばガタイの良いバスケ部員たちに囲まれている状況に、小さく悲鳴を上げて男は別の車両へ走り去って行った。
 
「大丈夫でしたか、あんにゃろ、名前さんにベタベタ触りやがって……!」

 男がいなくなると険しい顔つきが一転、眉を下げた清田くんが埃を払うように私の肩や背中を撫でる。

「合宿の帰りだったんすよ。あっちの車両から名前さんが見えて」

 偶然同じ電車で良かったです。言いながら埃を払うようにしていた手が、今度はあやすようにヨシヨシと私の頭を撫で始めた。その柔らかな心地が、ピンと張った緊張の糸を切るには十分だった。じわり、じわりと込み上げてきた涙が一気に溢れて流れ落ちていく。

「ごめんなさい……ありがとう」
「あー、泣かないで下さい」

 わたわたと慌てるように右往左往したのちに、清田くんはまた私の背中を撫でる。とんとんとん、と優しく、柔らかく。まるで子供みたいだと思うけど、今は涙を止められない。 

「ごめん……」

 とんとんとん、尚も撫で続けてくれる優しさに目を閉じる。前にあるシャツを無意識に握って。

 とんとんとん、背中に心地良さを感じながら、閉じた瞼の裏に映っていたのは、なぜか子供の頃の彰くんの笑顔だった。


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