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15.とある日常の裏側で


「名前さーーん!」

 二年特進クラスの教室で、このよく通る声を最近頻繁に聞くようになった。

「どうしたの、清田くん」

 それに毎度のこと対応するクラスメイトの名字名前は私の友達の一人。才色兼備な彼女に男が訪ねてくるようになったことは、我がクラスにとって見逃すことのできない一大ニュースだった。



「名前ちゃんて、あの後輩くんと付き合ってるの?」
「……えっ?!」

 きっと誰もが知りたがっているだろう疑問を素直に口に出せば、彼女は手からバラバラと楽譜を落とし、ひっくり返った声を出した。
 「あらら、大丈夫?」なんて平静を装いながら散らばった楽譜を拾い、頬を染めた彼女へ手渡す。明らかに動揺した友人に今すぐにでもアレヤコレヤと質問を投げ掛けたいけど、ここはぐっと我慢だ。変に焦って彼女が口を固く閉ざしてしまっては意味がない。

「……別に、付き合ってないよ」
「でもあの子最近よく来るよね」
「それは……そうだけど」
「名前ちゃん、部活後に残ってるのもあの子と会ってるからじゃないの?」
「そ……それは……、」

 口をパクパクさせたのちに俯いてしまった彼女は誤魔化すように咳払いをしてピアノ椅子へ座り直した。楽譜の枚数が合っているか丁寧に確認している横顔にもう一度問う必要もなく、最後のが図星だということはよーくわかった。
 名前ちゃんはあまり自分のことを話さない。美人で入学当初から目立っていた彼女とは席が近かったこともありすぐに仲良くなった。私が所属する合唱部のお手伝いをお願いするようになってからは更に距離が縮まって、恐らく彼女の中の親しい友人の部類に入っているだろう自覚もある。よく喋るようになったし、もちろん外で遊ぶこともあるし、相談に乗ってもらうこともたくさんあった。だけど名前ちゃんが自分のことを語ることは入学当初と変わることなく稀だ。
 だからって別に名前ちゃんのことをよく知らないと言うわけではない。此方から聞けばちゃんと答えてくれるし、話し始めれば割と多弁な方でもある。たぶんだけど、自己分析が苦手なタイプなのだと勝手に予想している。

「今日も後輩くんくるの?」
「さ……さぁ、どうかな。別に約束しているわけじゃないし」
「約束してないのに頻繁に残ってるのは、後輩くんに会いたいからだよね」

 名前ちゃんは私の問には答えず楽譜で顔を隠すように俯いてしまった。眉は下がって楽譜では隠しきれないくらいに顔が赤くなっている。同性から見ても可愛らしいその表情に、思わず発狂して抱き締めてしまいたい衝動に駆られたけど、ここはグッと堪えよう。そんなことをしている場合ではない。
 特に名前ちゃんの口から出ないのが恋愛の話だ。と言うか、たぶん入学してから一度もこの手の話を彼女から聞いたことがない。けれど彼女に纏わる恋愛話がないというわけではないのだ、なぜなら名前ちゃんは恐ろしいくらいにモテる。見ての通り麗しい顔面に心奪われる男子生徒は少なくなく、関わりのない普通科の男子に告白されているのを何度も見たし、同じクラスの男子の大半は彼女に憧れを抱いているという噂だって聞いたことがある。入学してからの一年で名前ちゃんに告って玉砕したという話は腐る程聞いた。
 彼女には他校にきっとイケメンの彼氏がいるのだろう、という噂が流れ始めるほど名前ちゃんは誰になびく事なくいつもきっぱりと告白を断っていた。……そこへきて、あのバスケ部の後輩くんが突然現れたのだから、我がクラス、主に男子の受けた衝撃は半端でなかったと思う。
 “名字名前が初めて告白を断らなかった野郎が現れた”静かに殺気立っている教室内の雰囲気に、恐らく彼女も後輩くんも気付いてはいないだろうけど。

「後輩くんに告白されたんだよね」
「……なんで柚羽ちゃんが知ってるの」
「なんとなく雰囲気で。みんな気付いてると思うよ、あの子わかりやすいもん」
「……」

 “嘘でしょう”声に出さずともその愕然とした表情から彼女の心の声はしっかりと察知した。私たち二人以外いない部活後の音楽室。ここなら少しは名前ちゃんの本音が聞けるかもしれないと思っていたけど、今日はこの位が限度かもしれない。

「ところで、合唱部に正式に入ることは考えてくれたかな」
「あぁ、……うん。ごめんね、まだ迷っていて」

 恋愛トークにもっと花を咲かせたいのは山々だけど、あまり深追いするのは避けよう。今日の続きはいつかまたゆっくり。いつもキッパリさっぱり告白を断る彼女がどうにも煮え切らない態度でいること自体がきっと答えなのだ。以前から持ち掛けていた入部の話に舵を切れば、名前ちゃんはこちらでもはっきりしない返答をした。

「活動自体は楽しいでしょ?」
「それは勿論。だけどお母さんがいい顔しないの。勉強に支障が出たら困るって」
「今までお手伝いしてくれてて特に成績下がったりしてないでしょう」
「そうね。……けどたぶん、正式に入るってなったら目を吊り上げて怒ると思う」

 ご家族の反対を聞いて、こちらもあまり深追いするべきでないとそこそこで話を切り上げた。三年生が引退して部員数が激減してしまった我が合唱部は、部の存続の危機に立たされている。弱小部ゆえ、毎年入部希望者が少ない我が部は部活動として活動できる最低人数を割ってしまったのだ。あと一人、あと一人部員が入れば危機は免れるのだが、友人に無理をさせてまで部員数を増やしたいわけではない。のんびり勧誘活動を続けるか、最悪は同好会降格を受け入れるしかないだろう。
 名前ちゃんと別れ、今後の方針について思案していると廊下からバタバタと大きな足音が聞こえてきた。聞き覚えのある騒がしさは自然とある人物を思い出させていた。最近よくクラスに来るあの人物に違いない。

「名前さん……は、帰っちゃいましたか」
「うん、ちょっと前に。ごめんね、せっかく来てくれたのに」

 予想を裏切らず登場したバスケ部の清田くんは、名前ちゃんの不在に顔を曇らせた。その様はまるで尻尾をだらんと垂らしたワンコのようだ。

「熱心だね、キミ。そんなに名前ちゃんのことが好きなの」
「え! ……いや、まあ。そんなこと……ありますけど」

 ちょっぴり意地悪にも思える質問に清田くんは、へへ、と赤くなった鼻を掻いた。なるほど、この素直な可愛らしさに名前ちゃんは惹かれるものがあるのかもしれない。
 名前ちゃんから聞けない分、この子から根掘り葉掘り聞いてしまおうか。という厄介な好奇心が芽生えたけれど、早々に摘み取って大人しく帰ることにしよう。友人の恋の行方は気になるけど軽々しく首を突っ込んでいいわけではないのだ。


 そう思ったのも束の間、私はその衝動を抑えきれなくなる事態に陥ってしまう。

「ノブナガくん、おつかれ」
「……なんの用だよ、てめえ」

 尻尾を垂らしたまま先を歩いていた清田くんを待ち構えていた人物に私は目を瞠った。


***

 
 この時期は太陽が見えなくなろうが暑いものは暑い。暗くなったから少し涼しくなった、なんて些かも感じずパタパタと手で顔を仰ぎながら暑さをしのぐ。寄ってくる煩い虫を払い、見つめる先は外灯に照らされている小さな広場の中だ。
 どこぞのパパラッチのような真似をしていることを先に謝っておきたい。……だって、清田くんを待っていた人が、超イケメンで爽やかで優しそうで、その上足が長くて背が高くて……つまり私のタイプど真ん中だったわけなんだけど。そのタイプの彼と清田くんが火花散らさんばかりに睨み合って名前ちゃんの話を始めたんだから、追い掛けて来ずにいられなかったのだ。現在私は、彼らがやって来たバスケットゴールのある広場の裏手にある木の陰に隠れてこっそり彼らを見守っているわけである。
 今から試合がスタートするみたいな熱い空気。それにどうやら友人が関わっているらしい、ときて心が滾らないわけがない。
 

「ノブナガくんさ、あだなから手引いてくんねーかな」

 先制攻撃とばかりにどタイプくんが放った台詞に鼻血が吹き出そうになる。い……言われたすぎる。という個人的な興奮はさて置き、目の前で起きているのは想像通り名前ちゃんの奪い合いなのだと、心臓が跳ね踊る。

「引くわけねーだろ。なんなんだよお前、急に現れて名前さんのこと誑かしてんじゃねー!」
「こっちから言わせりゃ、急に現れたのはノブナガくんだぜ」

 大きな身振りで清田くんがどタイプくんを指差し、反対にどタイプくんは困ったように眉と肩を静かに下げた。私は私で悲鳴を抑えるのに必死である。こんなやり取りを目にして興奮せずにいられるだろうか。

「てめーはただの幼馴染みだろ」
「そうだな。でも、キスはしたぜ」

 思わず出そうになった叫びは既のところで呑み込んだ。なんとなく見えてきた名前ちゃんとどタイプくんとの関係に益々ボルテージが上がる。一方で清田くんは耳を疑うように目を見開くとわなわなと震え出した。

「……はァ?」
「キス。念の為言っとくけど、あだなとな」

 そう自信たっぷりに語った笑みが余りに艶めいて見えて私はふらふらと後退った。あの人に迫られて落ちない人がいるのでしょうか。名前ちゃんはあの人とどんな風に過ごしてきたんだろう、なんて別の方向に飛んでいきそうだった思考を呼び戻す。このままではモロにダメージを受けてしまっただろう清田くんが劣勢だ。
 どちらを応援したいとか、名前ちゃんがこの人と上手くいって欲しいとか、今はそういうことは全く考えられない。だけど、同じ学校の後輩である清田くんがこのまま引き下がってしまう姿を見たいわけでもないのだ。固唾を呑んで二人の出方を見守っていると、清田くんがブルブルと震わせていた指をどタイプくんに向けて指した。

「……っ、で、でもずっと会ってなかったんだろ! 名前さんから聞いてんだよ、偶然再会しただけだって!」
「まあな。だから今度はしっかり捕まえとかなきゃいけねーだろ」
「要するに振られのに未練がましく追い掛けてるってことだろ」
「否定はしねーよ」
 
 物凄い攻防にまたしても零れそうだった声を抑えるべく口に手を当てる。名前ちゃん、二人の男子が名前ちゃんの為に争ってるのよ。彼女がここに居たらなんて言うだろう。顔を真っ赤にして声すら出せない名前ちゃんが浮かんだところでフゥと息を吐く。
 目線の先では、さっきまで暗い顔をしていた清田くんが勝ち誇ったような表情でどタイプくんを見ていた。

「言っとくけど俺はデートの約束取り付けたからな」

 え、と小さな声が漏れたのと同時にどタイプくんの目が大きく見開いた。そういえば教室に来た彼がそんな話をしていた記憶はあるけど、いつの間に話が纏ったんだろう。
 これは形勢逆転では。一見元通りの爽やかな笑みを浮かべているように見えるけど、どタイプくんの表情はどこかぎこち無い。

「へえ。よくオーケー貰えたな」
「そりゃあ、何回も頼み込んで……じゃねえ! とにかく、名前さんは俺が貰う」
「安々とくれてやるわけねーだろ」

 恐らくこれが試合開始の合図だったのだろう。気付けば一つのゴールを奪い合う1on1が始まっていた。両者の動きに目も心も奪われてしまったのは言うまでもないけれど、これから本当に始まるだろう彼女を奪うための恋の駆け引きに心の奥が大きく疼いた。


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