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14.素直な気持ちと見透かされた気持ち


 一欠片ばかり齧ったトーストを皿に置いて息を吐く。食事が喉を通らないって言葉を聞いたことがあるけど、まさにそんな感じだ。体は欲しているけれど上手く喉を通っていかない。お気に入りの紅茶だけは残さずいただいて私は席を立った。

「ごちそうさま」
「お粗末様……って、全然食べてないじゃない」
「今日は食欲がないの」
「今日はって、あなた昨日もそうだったでしょう」

 大丈夫よ。と、心配するお母さんを適当にあしらいながらダイニングを出て玄関前のミラーで髪の毛を整える。既視感があるのは以前も似たような会話をしたことがあるからだろう。
 
 あのときも、彰くんから告白されたあとだった。


**


「名前さーーん!」

 月曜日の朝一番、教室内に届いた声に私だけでなくクラスメイトの殆どが目を丸くした。よく通る大きな声に驚いたのは勿論だけど、特進科のある校舎に別の学科の生徒が居ること自体が珍しいからだ。

「どうしたの、清田くん」
「土曜日、勝手に帰っちゃったじゃないっすか」
「あ……、ご、ごめんなさい」

 我が校と対陵南の試合を観に行って一日挟んだ今日、清田くんと会うのは二日ぶりである。と言っても、大半が試合を観ていただけで彼と喋ったのはほんの一瞬で、しかも彰くんに連れ去られるような形で別れたのが最後だ。申し訳無さやら、思い出された別の記憶による恥ずかしさやらで混乱しつつも手を合わせて謝れば、清田くんは態とらしく口を突き出した。怒ってますよ、と言わんばかりである。

「今度なにかお詫びするよ」
「本当っすか!」

 申し訳ないことをしたのは事実だから何らかの形でお詫びはしたいと思っていた。けれどパッと表情を緩ませた清田くんは、予想の斜め上をいくことを言い出した。

「じゃあデートしてください」
「で……?!」

 咳き込みそうになったのを堪えながらちらりと真後ろを見てみれば、聞き耳を立てているらしきクラスメイトの顔が数人ばかりでなく大勢目に入った。それはそうだ、私だって急にクラスメイトに見たことのない異性が訪ねてきてデートやらなんやらの話を始めたら釘付けになって見てしまうだろう。だけどその大勢の前で言われる側となればたまったものではない。
 少しばかり上昇し始めた体温と呼吸を落ち着かせるように静かに息を吸って吐いて。出来る限り慌てる素振りを見せずににこやかに返事を返すことに努める。

「そういうのは恋人同士がするものじゃないかな」
「恋人未満でもいいじゃないですか。お互いのことを知るためのステップとして」

 言うなり撃ち返された真っ当な答えにぐっと声を詰まらせた。なんでこの子は人前で顔色一つ変えずデートのお誘いができるんだろう。
 彼には他の人が見えていないのではないか。そう思えてしまうくらい真っ直ぐな視線にたじろげば、清田くんは拝むように手を合わせた。

「予選突破したことだし、ご褒美としてでもいいんで!」

 は、と大きく息を呑んだ。別のことに意識が飛んでいてこんな大事なことを忘れているなんて。
 昨日が決勝リーグの最終日で、つまりはインターハイに進むチームが選出されたわけで……。海南うちが一位抜けしたのなら、もう一校はどこなのか。今度はデートに誘われていることが吹き飛んで観ることの出来なかった試合の行方のことで頭が埋め尽くされていく。

「気になりますか」

 考えていたことを見透かされたかのような問いに、「え」と反射的に声が零れた。私を真っ直ぐに見ていたはずの期待混じりの瞳はすっかり色を変えている。彼はわかっているのだ、私が今なにを考えていたかなんて。
 一昨日みたいに騒ぐわけでもない、やけに冷静な清田くんの反応が不安を煽る。


「昨日の試合、勝ったのは──」

 聞くのがもどかしくなるくらいスローに見えた彼の口元から出た答えに、私はすぐに反応することが出来なかった。


**


 最近彰くん来ないわね。

 お母さんがそんな風にぼやく日々が続いていた。と言っても、彼が我が家に来てから一週間とちょっと。顔を見せなくて心配するほど日が経過したわけではないし、お母さんの口から「彰くん」が飽きるほど出てくるせいで常に彼が頭の中にいるような感覚だった。

 ──好きだよ。

 唇に触れながら言われた言葉がずっとリフレインして、清田くんから聞いた試合の結果がずっと頭の中に残っている。
 たぶん、お母さんが彼の名を出さなくても頭の中に浮かび上がる「彰くん」に私は頭を悩ませていただろうことに、自分自身なんとなく気付いてはいたけれど。




「越野くん!」

 初めて足を踏み入れた敷地内、初めて見る体育館にいた見覚えのある人物へ呼び掛ければその人は目を丸くしたのち、此方へ歩いて来てくれた。

「練習の邪魔しちゃってごめんなさい」
「いや、ちょうど休憩に入ったところだし大丈夫だ」

 コート外で談笑したり水分補給している部員たちを親指で指しながら越野くんは言った。その中には私に気付いて頭を下げてくれる人までいる。越野くんも「この前は態々ありがとう」とお礼を述べてくれるくらいだし、先週の差し入れで顔を覚えられたのかもしれない。
 そしてこうしてまた大きな荷物をぶら下げて登場したのだから、間違いなく私はまた彰くんへ差し入れを持ってきた人物として認識されたに違いない。越野くんも例外なく私が持っているクーラーボックスに視線を落としてから再び体育館の中を指した。

「アイツならまだ来てないぜ」
「そうみたいね」

 どうしたって目立つ彼が居ないことはすぐにわかった。だからこそ越野くんに声をかけたのだけれど、今回は「みなさんでどうぞ」と、誰かに渡してお終いというわけにはいかない。クーラーボックスの中には正真正銘「彰くん専用」の差し入れで、私が朝起きたときからお母さんがせっせと作っていた彼への作り置き料理なのだ。

「いつ来るかな」
「普段だったらそろそろ来てもおかしくないんだけどな。さっき流川が来たからもしかしたら途中で捕まってんのかも」
「ルカワ?」
「湘北の。……って、知らねーか。来てもらって悪いけど、暫く来ない可能性あるぞ」

 お母さんのバカ。

 先週と同じ文句がつい零れ落ちそうになる。なぜ私が行かないといけないの、勝手なことしないで。家で散々本人に言ったけれど、出来上がった料理に罪はないし放置するわけにもいかない。重い腰を上げて出てきたのに尋ね人がいなければどうにもならないわけで。
 「仙道が来るまで暫く練習でも見ていくか」という越野くんの言葉に暫しの間逡巡した私は小さく頷きを返した。


***


 彰くんに会えたのは日が暮れたあとだった。と言っても彼と会ったのは陵南高校の体育館ではない。諦めて学校を出たあとに、偶然彼を見かけたのだ。

 駅に向かって歩いているときに聞こえてきたボールが弾む音。吸い込まれるように音の出元の方へ向かって行けば、息を呑むような激しい攻防が繰り広げられていた。


「……あだな?」

 いつから行われていたか分からない1on1は、辺りが暗くなりリングが見えなくなるとようやく終わりを迎えた。流川くんと別れて出てきた彰くんはフェンスのところに立っていた私に気付くと驚き目を丸くした。

「すげえ偶然。いつから居たの」
「さっき。ボールの音が聞こえたから」
「声かけてくれりゃ良かったのに」
「真剣に勝負してるのに入っていけないよ」

 尤もらしい言葉は決して嘘ではないけれど、声をかけるのを忘れてしまうくらい見入っていたというのが正直なところだった。余韻が抜けないままの心臓を落ち着かせるべく静かに息を吐いて、またゆっくりと大きく息を吸う。「凄かったよ」「カッコ良かった」口から出かかっていた陳腐な感想を飲み込んで、誤魔化すみたいに肩にかけていたクーラーボックスを彼に見せる。

「お母さんが作り置き持って行けって言うから来たんだけど、クーラーボックスとは言えちょっと心配」
「そっか、悪い。すぐ冷蔵庫入れねーとな」
 
 言うなり彰くんはクーラーボックスを自分の肩に掛け歩き出した。何を言うでもなくごく自然に手を握られて反射的に彼の顔を見上げると、彰くんは不思議そうに首を傾げる。

「なに?」
「ん……別に、何も」

 なんで手繋ぐの、という疑問文は既に出来上がって頭の中にあるけれど不思議と口から出てはいかない。それよりも以前と重なる彰くんと自分自身の行動に胸が騒いでいた。
 彼に告白されて、それに何の返答も出来なくて。だけど彰くんは別に答えを求めたりしない。いつも通り……だけれど距離はずっと短くなって、こんな風に手を握ったりして。以前とまるっきり変わらない、拒絶するでもなく受け入れるでもない自分自身が一番理解できない。
 昔と同じく、手を引かれるがまま彼のあとに続いて、いつもと変わりなく見える横顔にほんの少しだけ眉を開いた。
 
「もしかして心配して来てくれた?」

 なんの脈絡もなく降ってきた言葉の意味を一瞬だけ考えた私の顔にじわじわと熱が集まっていく。「違うよ、さっき言ったでしょう」と、彰くんが持ってくれているクーラーボックスを指して最初と同じ説明を繰り返す。だけど彰くんは私が指したのとは別の物を指してニッコリと微笑んだ。

「あだなって髪の毛触るクセ、昔からだよな」

 彼が指し示した先にあるのは、くるくると髪の毛先を弄んでいた私の指だ。指摘されてもなお動こうとする指を慌てて離したけれど、彰くんは「嘘ついたり都合悪いとき、よく触ってたよな」と追撃をかけてきた。既に熱かったのに更に熱が込み上がってきた顔は今にも爆発してしまいそう。

「ほ……本当に違うから」
「うんうん。そーだな、わかってるよ」
「……何をよ」
「あだなのことは何でも」

 そう自信満々に言ってのけた綺麗な笑みはあっという間に見えなくなってしまった。なぜなら、私の顔よりもずっと熱くて以前よりもずっと逞しくなった腕の中に閉じ込められてしまったから。
 やっぱり拒絶することのできなかった私は、伝わってくる穏やかな鼓動を聞き続けていた。


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