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13.褪せない想い


「ねえ、今日じゃなかったかしら」

 冷蔵庫に貼ってあるカレンダーを見て何やら言っているお母さんを横目にトーストに齧りつく。陶器のシュガーポットから一つ摘んだ角砂糖を落とし、ティースプーンを揺らしながら今度はミルクを流し入れた。適温になった紅茶を一口飲んでまたトーストを齧る。あれ、今日のパン、いつもより美味しいかもしれない。二口目でようやく味の違いに気付いた私に再び「ねえ」とお母さんが呼び掛けた。キッチンでうろうろしながらの呟きが私に向いていることに気付いたのも今になってようやく、である。

「ほら、書いてあるわよ。彰くんの試合、今日明日だって」

 今日の日付を指差しているお母さんの顔はなぜだか嬉しそうだ。今まであの人が私の行事であんな顔をしていたことがあっただろうか、というやっかみは今は置いておこう。先日、彰くんが私を送り届けてくれた日からこの調子のお母さんに私はうんざりしていた。
 部活終わりで疲れてるだろう人に送ってもらうのだって不本意だったのに、家に着いたら彼ってば「久しぶりにおじさんとおばさんに会いたい」とか言い出したのだ。まぁ、それはわかる。言う通り久しぶりだし、それを拒否したりはしなかったのだけど、そこからが長かった。久しぶりの再会にテンションが上がってしまったお母さんによる彰くん歓迎会が始まってしまったのだ。冷蔵庫の中身を空にする勢いでご飯作って、その上まだ足りないって彰くんの好物を買いに出ようとしたくらい。これ以上お母さんの暴走ぶりを思い出したくはないから割愛するけれど、とにかく大変だった。彼から聞いた試合の日程をしっかりメモしている様子からも想像できると思うけど、あの日以来お母さんの「彰くん」口撃が止まらないのだ。

「何時からだったかしら。……あらもうこんな時間。早く出ないと間に合わないわよ、名前」
「なんで私に言うのよ」
「なんでって、応援行かないの、あなた」
「行く約束なんてしてないわよ」
「あなたね、一人で神奈川まで出てきて頑張ってる幼馴染みを応援してあげようとは思わないわけ」
「応援はしてるわ」
 
 ごくごくと紅茶を流し込み息を吐く。耳栓があるのなら今すぐ挿し込んで声を遮断してしまいたい。

「ならさっさと食べて準備しちゃいなさい」
「ちょっと……だから私行くって言ってないわよね」
「なに冷たいこと言ってるのよ」
「だいたい明日は合唱部のお手伝いも頼まれてるし私にも予定があるの」
「なら今日は空いてるんじゃない。ほら、早く。お母さん差し入れの用意しといてあげるから」
「ちょっと……!」

 強制的に食べかけのトーストを下げられた私はダイニングから追い出された。後ろからやけに楽しそうな鼻歌が聞こえてくるけれど、私の気持ちはお母さんとは真反対で背中に錘でも乗せられたみたいに重怠い。

「……なんでよりによって今日なのよ」

 あえてゆっくり起きた朝。試合日時は二人から聞かされていたからお母さんが言わずとも覚えていた。



 ──試合、観に来てよ。

 清田くんが言っていたのと同じ日時の試合を彰くんがこう誘ってきたのはやはり先日送ってくれたときのことだった。なんとなく濁した私を押し退ける勢いでお母さんが勝手な返事を返したのもこのときである。
 彼を応援するのが嫌なわけではない。素人目で見てもとんでもなかった彼が今はどんなプレイをするのか気になっていたし、いつか見れたらいいという気持ちはあったもの。でもそれは別に今日じゃなくていい。わざわざうちの学校……清田くんと対戦する日でなくたって。

「……お母さんのバカ」

 手に提げた荷物をぎゅっと握りその場にしゃがみ込んだ私は大きな溜め息を零した。
 お母さんに強引に家の外に押し出されて試合会場へ向かったわけだけど、目にした圧倒的な熱量にただ息を呑むばかりだった。どちらか一方だけを応援できるわけでもないし、どちらが優勢になっても追い詰められても、喜んだり悲しんだりしていられない。観ているだけで複雑に絡み合っていく自分の気持ちに追いつけなくて、目下で繰り広げられる激しい戦いに口をぽかんと開けているだけ。なにに反応しているかわからない心臓だけがドクドクと大きな音を鳴らしていた。
 それは延長戦に持ち越された勝負が終えても緩まない。煩いくらいに鳴り続け、そしてどうしようもなく痛い。試合を終えても残り続ける余韻の中から早く抜け出してしまいたいのだけれど、しゃがみ込んだ私が気付いたのは手に持っている荷物の存在だった。
 お母さんに押し付けられた紙袋の中には彰くんへの差し入れが入っているのだ。

**

 紙袋の中身は近所にある某有名店のパン。それも一個二個ではなく一人では食べ切れない量がぎっしり詰められている。恐らくチームで食べることを想定しただろうこの量を私が食べるのは不可能だ。つまりは渡したことにして帰宅するという狡い作戦は通らないということ。
 恐る恐る持ち上げドアを叩こうとした手がだらんと落ちていく。……やっぱり絶対にムリ。陵南高校と書いてある張り紙の前で首を振った私は静かに踵を返した。私が対戦校の生徒だなんて彰くんはいちいち気にしたりしない。そんなことはわかっているけれど、私のほうがどんな顔をしたらいいのかわからないのだ。
 メモでも入れてドアノブにさげておこう。書くものを出そうとショルダーバッグを探り始めたタイミングで突然更衣室のドアが開いた。あまりのタイミングに口をあんぐりと開けた私の前に出てきたのは、前に陵南でも会った越野くんだった。

「あ。あー、ちょっと待ってろ」
「え! ちょ……待っ……!」

 私の顔を見るなり心得たように頷いた越野くんは再び更衣室の中に消えて行った。違うの、呼び出されても困るの。手を伸ばすのみで出ることも届くこともなかった声は虚しく消えた。そうして越野くんと入れ替わるように出てきた彰くんは私を見てにっこりと微笑んだ。
 
「あだな、来てくれたんだ」
「ええと……お疲れ様でした。これ、お母さんから」

 よろしければみなさんでどうぞ。と紙袋を手渡すと彰くんは目を丸くしたのち、ふっと笑った。

「気ぃ使わなくていいのに」
「お母さんに言ってよ」 

 彰くんが呼び掛けた後輩らしき子によってパンが部員の人たちに配られていく。お礼がてら顔を出してくれる人がいたり「美味そう」とはしゃぐ声が聞こえてきたり。それを楽しそうに眺めている横顔を見ていると、あれこれ悩んでいたのが馬鹿らしく思えてくる。
 
「観に来てくれて嬉しいよ」
「……それはどうも」

 人目も憚らず髪を撫でられた私は小さく身じろいだ。単に恥ずかしさを感じているだけで、それを咎めようとも思わなかった私はすっかり彼の距離感に慣れた、と言うか昔の感覚に戻ってしまっているのかもしれない。

 
「あーーーーっ?!」

 突如聞こえた大声の主はすごい勢いで私と彰くんの間に入ってきた。  
 
「名前さんっ! 離れてくださいっ、今すぐに!!」

 タイミングの悪さに頭を抱えたくなるのは今日何度目だろう。目を吊り上げて走ってきたのは言わずもがな清田くんで、私を引っ剥がすなり彰くんに威嚇するような視線を送っている。
 
「お母さんから預かった差し入れを渡しに来ただけよ」
「だからって距離が近すぎますって」

 和やかな雰囲気が一転、ぴりっとひりつく試合前のような空気になってしまった。遠巻きに海南バスケ部らしき人たちが此方を見ているし、すぐそこの更衣室からは「要チェックや!」なんて声まで聞こえてくる。変わらず穏やかな彰くんの笑顔も心做しか不穏さを漂わせている気がするのだ。

「ずいぶん懐かれてんだな、あだな」
「犬みたいに言うんじゃねー。お前はただの幼馴染みだろ」
「そう言われればそうかもしんねーけど、ただの幼馴染みってわけでもねーし」

 そうだよな。と言わんばかりの視線に心臓が嫌な音を立てた。すぐに思い起こされた最後の数ヶ月は、彼の言葉通り私たちは"ただの幼馴染み"だったとは言い難い。
 一方でその言葉の意味を測り兼ねたらしい清田くんは「はあ?」と眉間に皺を寄せたのち、私の腕を掴んだ。

「とにかく行きましょう。名前さんは海南うちの生徒なんだから」

 清田くんに引っ張られたはずなのに私はその場から動くことが出来なかった。なぜならいつの間にか彰くんが私を抱き寄せていたからである。
 
「そう毎回勝手に連れてかても困るんだよな」

 言うなり彰くんは私の手を引き走り出した。現れたとき以上の清田くんの大きな声が後ろから大きく木霊していた。

**


「いいの、勝手にこんなところ来ちゃって」

 遮るものもない眩しい日差しに手を翳し僅かな影を作る。汗ではりついた髪の毛をかきあげてパタパタと手で顔を扇いでも暑さは柔らがない。この前のお返しだと悪戯っぽく言った彰くんは試合後とは思えないほど涼やかな表情をしていた。
 
「ノブナガくんと一緒に居たかった?」
「そういうことを言ってるんじゃないよ」

 彰くんは会場からそれほど遠くない位置にある海岸まで来ると防波堤へ私を座らせると自身も隣に腰を下ろした。着替えこそ済ませていたけど自分の荷物すら持ってきてはいない。考えが読めないところは昔からあるけど、こういう勢いだけで突っ走るようなことはしなかった気がするけれど。
 「荷物は越野がどうにかしてくれるだろ」と楽観的に笑った彰くんは、手うちわで小さな風を作る私の横顔をじっと見つめていた。 
 
「……なあに」
「んー、別に。思ってたよりノブナガくんが本気っぽいからどうしようかな、って」
「なにそれ」

 告白されたことも言ってないのに本気だとか本気じゃないとか見ただけでわかるものなのか。と言うか、もしそうだとしてそれがどうして今回の行動に繋がるのか理解ができない。

「ノブナガくんといつ知り合ったの」
「……先月よ」
「じゃあ出会ったばっかだな」
「そうだけど、なに突然」

 先日とは打って変わって続く清田くんについての話に軽く混乱する。この前は話す気配すらなかったのに彼の中でなにか変化があったのか。眉を下げた私と同じく彰くんも眉を下げて微笑んだ。
 
「急に出てきたヤツにあだなのこと掻っ攫われちまうのは癪だろ」
「……なに、言ってるの」

 ぶるっと震えた唇は上擦った声を出した。
 私が動揺しているのがわかってか、彰くんは私の頭へ手を伸ばした。落ち着かせるようにポンポンと柔らかく触れてからゆっくりと髪の毛を撫でられる。
 だけど落ち着いてなんかいられない。だって、それじゃあまるで今でも私を――。

 そんなわけない。
 
 勝手に居なくなった幼馴染みを今でも想っているだなんてありえない。三年も移ろわない気持ちなんかあるわけがない。
 必死で探した言い訳を否定するかのように髪を梳き毛先を掬った指が唇に触れる。

「好きだよ。あのときも、今も、あだなが居なくなってからもずっと」

 
 触れた指が唇をなぞる。昔そうだったように、反応を確かめる目が艷やかに私を見つめていた。

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