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12.隣に立って


 ──陵南高校。県内ではバスケの強豪校だと言われているけど、まだインターハイの出場経験はない。それを阻んできたのが翔陽高校と、我が校……海南大付属高校という二つの壁だった。
 ちなみに翔陽高校は今回惜しくも決勝リーグ進出を逃している。2強の壁を崩したのはこの前海南が戦った湘北高校で、今年は大番狂わせが起きたと今まで以上に決勝の注目度が上がっているようだ。
 以上がバスケが好きだというクラスの子に聞いた話である。今までは意識してシャットアウトしていたことだけれど、それは頑張って手繰り寄せるまでもなくあっさりと手に入った。バスケの話になれば海南のライバルである翔陽の話がすぐに出てきて、その二番手として陵南の話題が上がる。そして選手の話となれば一年生のときから活躍していたらしい彰くんの名が出るのだ。「あいつは凄い」「今年こそ海南に次いでインターハイに行くのは仙道がいる陵南だ」そんな風に褒め称えられるほど、神奈川のバスケ界でも彰くんの認知度は高かった。
 もう一年も前から彼はここにいた。会おうと思えば会える、こんなにも近い距離に。気付かずに暮らしていた自分が間抜けに思えるほど。

**

 ぱら、と手に持った雑誌のページを捲る。目に入ってくる文字も写真も頭の中には入り込んでこない。躍動感のあるショットや大小異なる字面をただ右から左へ眺めているだけ。クラスメイトから押し付けられたこのバスケ雑誌がつまらないわけでも興味がないわけでもない、単純に気が削がれているからだ。ぱらぱらとページを送りながら見えた「海南」の文字にギクリとした私は慌てて雑誌を閉じた。雑誌から目を離して見えたきた好奇の目は相変わらずで、足元へと視線を落として小さな溜息を零す。
 授業を終えた私は今日は合唱部のお手伝いには参加せず真っ直ぐ駅に向かった。けれど乗り込んだ電車はいつもとは反対方向。自宅よりも少しばかり離れたこの場所へ乗り継いで来るためだった。
 見慣れぬ校舎を見上げた私は再び視線を足元へ戻した。橙色の光がだんだんと影を帯びてきた。そろそろ彼も部活が終わる頃だろうか。手に持ったままだったことを思い出した雑誌をしまおうとすれば先程目に入った自校の名が浮かぶ。刹那、くっきりと自分の耳にリフレインしたのは昨日の清田くんの声だった。

 ──名前さんのことが好きです

 込み上げてきた熱を冷ましたくてぶんぶんと首を振る。自分の身に起きていることがまだうまく処理ができていない。
 まだ先週のことだ、彰くんと再会したのは。二年と何ヶ月……三年近い空白をあけて私の前に現れた幼馴染み。その事実にまだ混乱していたところにまた彼は現れて、その上なぜか清田くんに告白されて……。

 気付けば握りしめて皺を作ってしまった雑誌の表紙を丁寧にのばして鞄の中へとしまった。頭の中はまだ混乱しっぱなしでなに一つ整理がつかない。だけどはっきりわかってるのは、昨日のことは彰くんに謝るべきことであるということ。
 いつしか足元を照らしているのは夕焼けの光でなく外灯の明かりに変わっていた。すっかり人の通りが減ってしまった校門のほうに、またざくざくと複数の足音が近付いてくる。

「誰か待ってんの」

 陵南高校の前に来て一時間弱、初めて声をかけられたことに驚き俯いた顔を上げた。

「そう、ですけど」
「彼氏?」
「……ちがいます」
「なら俺等と遊びに行く?」

 親切心かと思えば、出てきた軽薄な言葉と表情に顔を歪める。話していることも目を合わせていることも馬鹿らしく思えて私はなにも答えずまた視線を下げた。

「無視しないでよ。待ってる人呼んできてあげよっか」
「結構です」

 ニヤついた三人の顔がズイと近付いてくる。「堅いなあ」「一緒にどっか行こうぜ」なんて言いながら一人が肩を掴んできた。塀のほうに押し付けられるように囲まれてしまい、学校の前だから安全であるという安心感もいよいよ怪しくなってくる。

「おい、なにやってんだお前ら!」
「やべ。うるせえのが来た」

 あとから来た人の一声でその人たちはあっさりと身を引いた。とは言え変わらずニヤニヤした顔がこちらに手を振っていたのは鳥肌ものだ。

「大丈夫か」
「すみません。ありがとうございます」
「悪かったな。うちの学年でちょっとタチ悪い奴らなんだ」

 丁寧に頭を下げれば、助けてくれたその人まで「うちの学校のヤツが悪かった」と小さく頭を下げてくれた。言葉や態度は少々ぶっきらぼうな感じがするけれど、その奥にある生真面目さと優しさが窺える。通りがかってくれたのがこの人で良かったと心から思えた。
 
「誰かの迎え? 呼んできてやろうか」
「いえ、お気になさらず」
「って言ってもな。暗いし現に絡まれてただろ。早く合流して帰ったほうがいいと思うぜ」

 部活なら大方もう終わっているはずだから名前と何部か教えてくれればすぐ呼んできてやるよ、という言葉に頬を掻いた。部活が終わっているのならこのまま暫く待っていればいずれ彰くんとは会えるはずだけれど、早く合流したほうがいいというのも頷ける。とは言え、この人にこれ以上面倒をかけるのも申し訳ない。
 即決できない私を催促するように覗き込まれると、彼はなにか気付いたのか目を瞠った。

「……ん、アンタどっかで──」
「越野」

 真後ろから聞こえた声に二人して後ろを振り返れば、待ち人がそこに立っていた。
  
「あれ、あだな」

 助けてくれた人はキョトンとしていた彰くんを見て「あっ」と大きな声を出したのち、私たち二人を交互に指差した。そこでようやく私も気付いたのだ。──そうだ、彼はこの前彰くんと一緒にいたチームメイトの……。

「思い出した。この前、仙道がちょっかいかけてた子」
「東京いたときに隣に住んでた子だよ」
「所謂幼馴染みってやつか」

 合点がいったと大きく頷いたコシノくんは、ふと私と彰くんを交互に見つめたのち眉間に濃ゆい皺を作った。

「幼馴染みの距離感だったか、あれ」

 尤もな疑問に私は気まずくて視線を逸した。まるで中学の頃にでも戻ったみたい。クラスメイトに限らず見たことすらない先輩後輩にまで、「本当に幼馴染み?」と聞かれたときの感覚と全く一緒だった。
 あの頃、彼はこんなときこう答えていた。質問の意図がわかったのかわかってないのか、よくわからないような顔してヘラっと笑って……そう、こんな顔。こんな風に笑って言うの、

「なんのこと?」

 中学の頃とそっくりそのまま同じ答えをした彰くんに、コシノくんはこれ以上聞くのも面倒だとばかりに「別に」と返した。

「とにかく合流できてよかったな。じゃあ俺帰るわ」

 軽く片手をあげて去っていったコシノくんの姿はあっという間に見えなくなった。最後にもう一言お礼を述べたかったけれど、彰くんが現れて以降ロックが掛かったみたいに閉ざされた口が開くことはなかった。
  
 ……そして、彼が居なくなれば当然今日のメインイベントが始まるわけで。笑んだままの視線が私を捉えているのを感じながら、恐る恐るそちらを見上げれば予想通りの微笑みが私を見下ろしていた。

「まさかあだなが来てくれるとは思わなかったよ」
「ええと……昨日は、来てくれたのにごめんなさい」

 彰くんは私の言葉にひとつ頷くとすぐに私の手を取って歩き出した。
 
 ノブナガくんとなにしてたの

 言葉は違えど確実に聞かれると思っていた疑問は一切ふってきはしない。歩調も私に合わせてゆっくり。昨日のことに気を悪くしているようにも見えない。なのにそれが妙に怖く思える。
  
「昨日、なにか用だった?」
「会いたかっただけだよ、あだなに」

 柔らかな笑顔が私を見る。
 
 眩しそうに私を見つめる目。柔らかなカーブを描いた口元。私の手を優しく包む大きな手。全部あの頃と変わらない。……なのに、なんでだろう。こんなに近くにいるのに、彰くんのことをすごく遠く感じる。
 
 それ以上なにも聞けなくて、無言の時間が続く。彰くんに手を引かれながら、何を考えているのかよくわからない彼の横顔を時折見上げた。

 なんで当然のように手繋いでるの

 どうして清田くんのこと聞かないの


 どうして……黙って居なくなったこと、怒らないの

 
 ずっと頭の中に浮かんでいる疑問は言葉にはならない。どうして、と思うくらいなら聞けばいい。謝ればいいのに。

「……彰くん、私が神奈川いるって知ってたの」

 沈黙に耐えきれなくてようやく口から出すことが出来た疑問は、本意から遠くも近くもないなんとも中途半端なものだった。
 それを彼はどう思ったのか、目をぱちくりとさせたのちに眉を下げて微笑んだ。

「ちらっと聞きはしたけどこんなに近くにいるとは思ってなかったよ」
「こっちには……スカウトで?」
「うん。迷ったんだけど、今の監督に猛プッシュされて」
「思い切ったね。一人で出てきたってことでしょう」
「まーな。でも楽しいよ、一人暮らしも慣れてきたし」
「……え、寮じゃなくて?」

 残念ながら寮はないんだ、と言った彰くんに私は目を瞠った。だって私にはきちんと一人で寝起きして生活している彰くんが想像出来ないんだもの。

「嘘でしょ、絶対一人で起きれないじゃない。料理は? ちゃんとしたご飯食べてるの?」

 朝私に起こされて朝練行っていた人は誰だろう。毎日のように忘れ物して私に借りに来てた人は誰だろう。料理が出来るなんて聞いたこともないし、まともな生活が送れるとは思えない。なのに彰くんときたら、私の心配を他所に大きな声で笑いだした。

「なんで笑うの」
「まんま母さんと同じこと言ってっから」
「おばさんだって心配してるでしょ」
「うん。でも見ての通り元気にしてるよ」

 そうにっこりと微笑まれて私は口を噤んだ。それはそうだ、私たちの間には互いが知らない三年近い月日がある。その間彼は普通に生活してきているわけで、別に私が居なくたって……。
 心に靄がかかる。大丈夫よ、私が居なくたって。そう言い聞かせて黙って引っ越したのは自分のくせに。どうしてこんなに気持ちが沈んでいくんだろう。
 
「……やめて」

 俯いた顔を上げるように彰くんが頬を撫でる。

「なんでそんな顔してんの」
「別に、なんでもないわ」
「なんでもないって顔じゃないぜ」

 そう言う彰くんは悔しいくらいに穏やかな顔で私を見つめている。あやすように髪を撫でながら、「困ったなあ」なんて全然困ってなさそうな顔で言うのだ。
 
「ここにキスしてもいい?」
「……っ?!」

 ツンと突き出ていた私の唇をちょんちょんと指で触れられて瞬時にそこを覆い隠した。瞬間湯沸かし器みたく真っ赤になって羞恥でぶるぶる震えている私を見て彰くんはくすくすと笑う。

「だから、誂わないでって言ってるでしょう」
「だから誂ってねーって」

 そうして誂ってる誂ってないっていうなんの生産性のない言い合いを一頻り終えると、彰くんは私の手を繋ぎ直した。「じゃあ帰ろうぜ」と言って駅のほうに歩き始めた彰くんと、"家まで送っていく""送らなくていい"という言い合いが始まるのはこの直後のことだった。


 ──キミの隣にいる心地良さに、たぶん本当はずっと気付いていた。
 

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