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星に願いを


 流行りの時期でもないのにどこからかもらった風邪をこじらせて3日ぶりに登校した朝。教室にある異変があった。

「ねえ、なにあれ」

 それは教卓側の窓際に堂々と飾られていた。開け放たれた窓からの風に靡いてカサカサ音を立てて、つけてある飾りと一緒に揺れている。休む前にはなかったそれを指さして一緒に登校した友香を見れば、彼女は端的に言った。 

「笹」
「なんで?」
「今日七夕じゃん。アンタ見たことないの?」
「あるけどこういうのって小さい子がやるものじゃないの」
「別にそんなこともないでしょ。うちの中学でも七夕飾りしたし」

 へえー。と気の抜けた声を出しながら窓際へ向かい、3つ並べて置いてある笹を見上げた。見覚えのある折り紙の飾りや短冊が笹の葉と一緒にふわふわ靡いている。この時期、商業施設なんかで飾られているのはよく見るけど、実際に自分が飾り付けしたり短冊を書いたりしたのは園児くらいのときで随分と懐かしさを感じる。
 
「短冊、全校生徒みんな書いたの」
「うちのクラスだけ。イベント事大好きじゃん、加藤。一昨日突然持ってきたんだよ」

 担任の名前が出て私は大きく頷いた。なにかイベント事があると張り切るタイプの人ってたまにいるけど、まさにうちのクラスの担任はそれに当て嵌まる。先月あった球技大会もえらく張り切っていて、良く言えばクラスを引っ張ってくれていた担任がハイテンションで笹を持って登場する姿がすぐに目に浮かんだのだ。

「残念。こういう行事なら参加したかったのに」
「まだ間に合うじゃん、当日なんだもん。てゆーか、加藤が黙ってないでしょ」
「そうかな」
「絶対あんたに短冊書けって持ってくるよ」

 言われてみればそれはすぐ浮かぶもので、短冊を持って私の前に現れる圧のある顔が頭の中に現れた。みんなで一緒に飾りを作って吊るすっていうワクワク感はもう味わえないけど、いつぶりかの短冊への願い事だってじゅうぶんに楽しそうだ。
 いつもの授業とは違うちょっとした楽しみを抱きながら気付けば放課後。私のもとに短冊を持ってきたのは担任ではなく意外な人物だった。


「もしかして書けるまで見てる感じ?」

 指先に注がれる視線から逃れたくて視線を注ぐ張本人を見上げれば、彼はふっと柔らかな笑みを見せた。
 
「あぁ、わりぃ」
「心配しなくても一人で書けるよ、仙道くん」
「そーだよな。名字さんの手、綺麗だからつい」

 とびきりの笑顔でそんなことを言われてしまい、指先に再び緊張が走る。特にケアなんかしていないこの手のどこが綺麗なんでしょうか。汗ばんでしまった手指をぱたぱたと扇ぎ、ついでに火照っていた顔の熱を冷ました。
 今日の日直だからというよくわからない理由で担任が短冊を託したのは仙道くんだった。てっきり担任本人が来ると思っていたのに仙道くんが持ってきたことにも驚いたけど、そんな素振りひとつなかった彼が日直だと言ったことにもダブルで驚いた。恐らく今日一日仕事らしい仕事をしなかった彼に与えられた唯一の仕事だと想像する。

「仙道くんてみんなにそういうこと言ってるよね」
「そうかな。誰彼構わず言ってるわけじゃないし、本当に思ったことしか言ってねーよ」
「ふぅん」

 顔の熱は幾分引いてきたようだ。頬に触れた手をさり気なく机の上で広げてじっくり眺めてはみたけど、やっぱり大して綺麗には見えない。深い意味はなくても「綺麗」って言葉は一つだけでも効果は絶大だ。それが好きな人からの言葉なのだから尚更意識するし、心臓にも大きな影響を与えるわけで。もしも顔面だとか内面を褒められていたら危うく勘違いしていたかもしれない。こういうことをなんの気なしにサラリと言えちゃうんだから憎い男だ。
 
「部活はいいの」
「ちゃんと名字さんが書くの見届けてから行けってさ」
「なにそれ、本当に?」
「うん。せっかくだからのんびりしてから行くよ」
「そんなこと言って私のことサボる口実にしてない?」
「あはは。そんな信用ねーの、俺」
「うん」

 大きく頷いて言うと仙道くんはけらけらと笑い出した。正直に言っちゃえば、放課後に残って二人きりでいられることは口実だろうと凄く幸せな時間だ。だけどこのままだと一生短冊に願い事が書ける気がしない。だって頭に浮かんだ願い事と言えば、私の前でキラキラした笑顔を見せている彼のことだけなのだ。シャーペンは握ったものの、一向に動き出さない手に視線を落し溜息を吐いた。

「仙道くんはなんて書いたの」
「俺? 大物が釣れますように」
「……なるほど」

 部活とか学業のことじゃないのがなんとも彼らしい。私にも仙道くんみたいな趣味とか得意なことがあればこんなに悩まずに済んだかもしれない。無難なところで成績が上がりますようにとかそんな感じのことを書いて終わらせてしまおうか。
 だけどもう少し。書いてしまえば二人だけの時間も終わってしまう。シャーペンから手を離して如何にも悩んでます風に頬杖をつく。

「こういうの書くの、たぶん園児のとき以来だから悩ましいね」
「確かにみんなけっこう悩んで書いてた気ぃするな」
「仙道くんは悩まなかったの」
「悩んではねーかな。すっと頭に出てきたこと書いただけだし」

 仙道くんの頭に一番に浮かんだ釣りという存在が羨ましい。彼は好きな人とかいないのだろうか。願い事と言えば恋のこと、なんて考える私が恋愛脳すぎるのかも。だいたい仙道くんならこんな短冊にお願いする必要なんてなさそうだし、もしかしたら内緒にしているだけで彼女がいるかもしれない。

「こうして悩んでても叶うかもわからないのにね」

 私はどうしてこの人に恋をしてしまったんだろう。クラスの女子の半分、いや全学年の女子の大多数はこの人に一度は恋に落ちているといっても大袈裟ではない気がする。そんな人を好きになるなんて無謀だ。馬鹿げている。恋が実るわけないのに。
 だけど好きになってしまったものは仕方がない。それだけ仙道くんは魅力的なのだ。

「でもさ、願いが強いほうが叶うって言わねえ?」
「仙道くんてこういうの信じる人?」
「信じてるって言うか、叶うかもって思ってたほうが面白れーだろ」

 彼の言葉一つで簡単に心持ちが変わってしまうのは彼のことが好きだからだろうか。

 もちろんそれは大いにあるだろうけど、やっぱり仙道くんてとてつもないパワーというか、魔力みたいなものを持っていると思う。トン、と背中を優しく押してもらったみたいに心が軽くなって、書く気すら起こらなかった指がスラスラッと短冊に字を書いていく。窓際で揺れている笹たちの方を見ている彼にもっと近づけますように……。
 
「……よしっ、書けた。つけてくる」

 さっきまで踏ん切りがつかなかったのが嘘みたいにあっという間に書き終えた短冊を手にぱたぱたと窓際の方へ駆け寄る。比較的短冊のついている数が少なく見える右端の笹に決めて枝を掴んだとき、カーテンが大きくたなびいた。

「あっ……!」

 突然の強い風に攫われたのか。それともその風で揺れたカーテンに弾かれたせいか。持っていたはずの短冊は私の右手から忽然と消えてしまった。

「名字さん、どーしたの」

 教室の中央にある私の席の前に座っている仙道くんが不思議そうに私を見る。

「な……なんでもない。大丈夫」
「ほんとに?」

 コクコクと必死で頷きを返した私の頭の中は真っ白になっていた。


◆◆◆

 心配する仙道くんを無理矢理部活へ送り出したあとの教室。廊下に校舎の裏や中庭、校庭。思いつく限りのところを探してはみたけど、消えてしまった短冊は見当たらない。段々と太陽も落ちてきて探しものをするには絶望的な状況に陥っていく。
 記名のない短冊はしっかり笹につけさえすれば、誰が書いたかなんてまずわからない。仙道くんに憧れている女子が一人いる。いや、下手したら似たようなこと書いた子が他にもいるかもしれないし、誰かに見られたって「仙道モテるな」くらいで終わるはずだった。
 だけど風に攫われた短冊なんて、私が書いたものしかない。なんとなく状況を把握しているだろう仙道くんに見つかったら終わりだ。間違いなく伝わってしまうに違いない私の気持ちに気付いて距離を取られてしまうかもしれない。仙道くんに限ってそんなことしない。そう思ってはいるけど、気まずくなるのは確実なのだ。私のほうが正気を保っていられない。

「なにやってんの、名字」

 突然上から聞こえてきた声に驚いて顔を上げると、同級生の男子が私を見下ろしていた。 

「越野、アンタこそ何やってんの」
「何って普通に部活。ここ体育館だぞ」

 言われてようやくボールの音が耳に入ってくる。シューズがこすれる音も、部員たちの掛け声も、聞き逃しようもないくらい大きく響いているのに今の今まで全く耳に入ってはいなかった。這いつくばって必死に探してやってきた先が仙道くんがいる体育館の前だなんて笑えない。

「大丈夫か、お前。なんか変だぞ」
「変じゃないよ、いつも通り。ちょっと探しものしてて慌ててただけ」
「探しもの?」

 越野の眉間の皺がゆっくり刻まれていく。いま何時頃かわからないけど、こんなところで一人で這いつくばってるのを見られたのが仙道くんでなくてひとまず良かったと思おう。

「なに失くしたんだよ」
「あー、えっと。た……短冊、見てない?」
「は? たんざく?」

 益々深くなった皺は訝しがる越野の顔を際立たせた。必死になって紙切れひとつを探してるんだから変な奴だと思われても仕方がない気がしてくる。
 
「短冊ってもしかしてあれか、七夕に飾るやつ?」
「そうそれ」
「なんでそんなもん探してんだよ」
「うちのクラスで七夕の笹飾ってて。それで短編が風で飛んでっちゃったの」
「じゃあ新しく別のもん貰えばよくねーか」
「うん、まあそうなんだけど」

 風に乗って誰にも見られないような遠くのほうに飛んでいってくれたのなら確かにそれで解決だ。今更欲張って同じ願いを書く気にはなれないけど。

「見てないならいいや、ありがとう。邪魔してごめんね」

 越野の後ろに見える開け放たれたシャトルドアの向こうに、こちらを向いている仙道くんが見えた気がした。

◆◆◆

「名字さん」

 全てを諦めた午後8時。

 教室に戻っていた私を呼んだのは紛れもなく仙道くんの声だった。

「あ、……お、お疲れさま。部活おわったの」
「うん」

 仙道くんの席は窓側の前から2番目。そこへ自分の荷物を置いた彼は窓を開けて席に座った。そよそよとした風がまた笹を揺らし始める。

「短冊、風で飛んでっちゃんったんだって?」
「……うん。実はそうなの」
「あのとき言ってくれればよかったのに。すぐ二人で探せば見つかったかもしんねーぜ」
「そうだね。あのときは恥ずかしさが勝っちゃって」

 吹き流しや短冊がカサカサと音を鳴らしながら揺れている。もしもきちんとあの場所に短冊を飾れていたなら、今頃私はちょっぴり期待を込めて星にお願いしていたのだろうか。
 仙道くんが態々戻って来てくれた優しさが嬉しくもあり、次に問われるだろう言葉にキュッと身を固くする。越野に短冊のことを話したとき、いや、体育館に辿り着いてしまったときにバレてしまうことは覚悟していたけれど、いざそのときがくるとやっぱり怖い。
 
「七夕ってあれだっけ、織姫と彦星が会える日」

 予想外の言葉に驚いて仙道くんを見れば、彼はいつも通り穏やかな笑みを湛えていた。てっきり聞かれると思っていた願い事の内容も、偽ることなく答えるつもりで用意していた言葉も、驚きで喉の奥に引っ込み、私は動揺を隠せないまま頷いた。

「……天の川を渡って一年に一回だけ会えるんだよね」
「じゃあ今頃空の上で会ってんのかな」
「仙道くんて意外とロマンチストなんだね」
「そうかな。童話とか創造上のもんでもなんでもハッピーエンドのがいいだろ」
「そうだけど、私は織姫と彦星のこと想像すらしなかったもん」

 仙道くんと同じように窓の外を見れば、小さな星がいくつか空に浮かんでいた。小さいときは織姫と彦星が会えるようにてるてる坊主を作って空を見上げていたのに、いつしか七夕はお願いする日になっていたみたいだ。

「好きな人と一年に一回しか会えないってどんな気持ちなんだろうな」
「やっぱりきっと、すごく寂しいよね。今日が来るのをずっと待ってたと思う」

 言いながら自分の薄い答えに泣きたくなった。だけどどれだけ考えてみてもきっとわからない。大好きな人と離れ離れにされて、今日という許された一日が来る喜びも今日という日が終わってしまう悲しさも。仙道くんが言うみたいに今頃この星空の中で二人が会っているのかと思うとちょっぴりセンチメンタルな気持ちになってくる。今日が終わってしまえば、また彼らは別々の日常に戻るのだ。

「……でもさ、確か二人とも働かなくなっちゃったのが原因で引き離されちゃったんじゃなかったっけ」

 ふと思い出した七夕伝説の内容を話せば仙道くんは目を丸くした。

「マジで? そんな話だっけ」
「うん。一緒にいるのが楽しすぎて二人して遊んでばかりいたから怒られちゃったんだよ」
「へーえ。そんだけラブラブだったってことだよな」
「そういうことだよね。仕事サボらず真面目にしてれば二人ずっと一緒にいられたのにね」

 こんなこと言ったらそもそも七夕伝説は生まれてないけれど、きっと恋に溺れてばかりじゃダメだという戒めみたいなものだったのだろう。

「もし織姫が名字さんだったら引き離されることもなかったかもな」
「それはわかんないよ。好きな人と一緒にいたい気持ちはすごいわかるもん」

 急に持ち出された例え話に異を唱えれば仙道くんは少し目を丸くして「意外」と言った。方方に迷惑をかけるほど仕事を休むのは問題があるけど、投げ出してでも傍にいたいという気持ちは少しわかるのだ。

「私って仙道くんから見てどんな感じなの」
「学級委員もやってたことあるしドがつくくらい真面目なのかなって。俺が彦星だったら名字さんはちゃんと怒ってくれる気がすんだけど」
「ただの同級生と恋人とは話がちがうよ。誰でも彼氏彼女ができたらちょっと浮かれちゃうでしょ」
「名字さんも浮かれちゃうんだ?」
「たぶん、浮かれると思う。すごく」

 仙道くんが恋人になったら。傍にいてほしいなんて言われたら。間違いなく舞い上がってしまうしいつもの自分を見失ってしまう気がする。いまだって心臓が弾け飛びそうなくらいドキドキしていて感情のコントロールも上手くいかないのに、いま以上の関係性になったときなんて想像が追いつかない。

「俺もさ、彦星だったらすげー浮かれると思う。で、仕事サボっちゃうってのもすげーシンパシー感じる」
「たまに部活サボってるもんね」
「でもそれで一年間離れ離れってのは嫌だな」
「それは私もそうだよ」
 
 ロマンチックな伝説のようだけど許されたのが年一の逢瀬というのも少し気の毒な話だ。いまはそんな時代じゃなくてよかった。仙道くんと顔を見合わせて二人してくすくすと笑う。

「じゃあそうならないようにお願いしようか」

 笑ったのちにそう言った仙道くんは立ち上がって3本の笹の方へ向かった。突然の行動と言葉の意味が理解できなくて私は黙って彼を目で追う。一番手前の笹の前で止まると、仙道くんへ胸ポケットから紙切れを取り出し、彼の目線の高さにある枝にそれを括り付けた。

「せ……仙道くん、今持ってたのって……」

 驚きと恥ずかしさでぶるぶる唇と指が震える。彼がいま出して笹につけた物体は短冊で、見間違いでなければ私が失くしたものと同じ色をしていた。相変わらず動揺ひとつ見せない仙道くんはにこっと微笑みながら窓の外を指さした。

「そこの木に引っ掛かってたやつ。ほら、あそこの」
「そういうことじゃないよ」
「名字さん困ってるって聞いたから少しでも探そうと思ったらたまたま見つけてさ、ビックリしたよ。仙道くんともっと仲良くなれますようにって──「きゃーーー!」」

 口を塞ぐべく伸ばした手は身長差がありすぎて全く届きはしなかった。悲鳴を上げながらぴょんぴょん跳ねて手を伸ばしている私を見て仙道くんはアハハと笑う。聞かれたら言う覚悟もできてたのに、こんな時間差でしかも本人の口から願い事を言われるなんて恥ずかしいにも程がある。

「み、見つけたなら見つけたって言ってくれれば……っ!」
「そう思ったけど本当に名字さんが書いたやつかわかんねーし。クラスの他の子が失くしちゃった可能性もなくはないだろ」

 些か意地悪く思える行動だけれど、すぐに言わなかったのは彼なりの優しさなのかもしれない。反論する言葉は見つからず「うぅ」と小さな呻り声ばかりが出る。

「名字さん。……名前ちゃん」

 言い直された呼び方に違和感と恥ずかしさと、そして喜びを覚えながら辿々しくか細い返事を返す。溶け出しちゃうんじゃないかと思うくらい熱い顔は見上げるのも憚られて俯いていると、髪の毛にポンポンと優しい感触を感じた。

「願い事叶っちゃったね」
「……あの、無理に気を使ってもらわなくても」
「んー、俺ももっと仲良くしたいと思ってたし」

 ぎぎぎ、と機械みたいにぎこちなく上を見上げた。変わらず笑みを湛えたままの仙道くんに「嘘ばっかり」そう言ってやりたくなったけれど、引き結んだ唇は動かなかった。緩やかなカーブを描く瞳がいつもよりもずっと優しくて甘やかに見えるのは気の所為なのかな。

「俺も叶ったよ、願い事」

 仙道くんがちょんちょんと触れた場所は私の短冊の隣。"大物が釣れますように"彼が言ったのと一文違わぬ願いが揺れていた。

「……え、いつ釣りに行ったの」
「アハハ、そう来るか」

 短冊を指していた仙道くんの指がちょんと私のおでこをつついた。
 
「名前ちゃんのことだよ」

 さやさやとそよぐ風が揺らす笹の音に紛れて聞こえたその言葉が嘘でないことを仙道くんの真っ直ぐな視線が告げていた。


□お題ガチャ
『短冊に願いを書く君の横顔』『尊い時間』より             2024.4.19 miu*



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