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14.卒業


「卒業証書授与。名字名前」
「は……はいっ!」

 貰えるはずのなかった卒業証書。慌てて返事をすれば見事に声がひっくり返った。
 だけど誰一人茶化したりしない。自分に注がれているのは優しい眼差しだけだった。

「名前、おいで」

 その中でも一際優しい響きが私を呼んだ。何一つ現実感のないまま、その声に導かれるように名前は歩き出した。


・・・二ヶ月前

「お母さん、今年は仕事探すんだって」
「凄えじゃん。前向きな気持ちがあるってことだよな」
「うん」

 頷きを返して言葉を迷う。初詣に行った日からずっと心の中を占領している気持ちがある。と言ってもまだ数日だけれど、言葉なり形なりにしなければ、ずっと心の中に淀み続ける気がするのだ。
 
「……私も。今年は前向きに何かに取り組もうかな」
「例えば?」
「資格取るとか、勉強? もう一度高校通うとか」
「いいじゃん、それ。名前、先生になりたかったんだろ」
「昔の話だよ。高校行き直したとして、流石に大学行けないと思うし」

 いざ言葉に変えてみはしたけど、やっぱりそれは現実味を帯びることはなかった。なんだかありえない夢物語を話しているようだ。
 勉強、資格……。これは出来るかもしれない。高校へは……、頑張れば行けるだろう。でもその後は? 大学……、先生……、絶対無理だ。昔の話どうこうではない。叶う気がしない。

「やる気がありゃなんでも出来るし俺全力で応援するぜ」
「……確かに、信長くんが言うとなんでもできそうな気がする」

 不思議と清田の言葉はスッと自分の中に入ってくる。後ろ向きだった自分の背中をトンと優しく押してくれたような、萎んでいた心に元気を注入してくれたような、不思議な感覚。絶対に無理。ついさっきまでそう思ってたのに、俄然やってみようという気が起きてくるのだ。

「つーかさ、進学とか進路とかそういう話はプロに聞くのが一番じゃねえ?」
「プロ?」
「学校の先生だって。俺、担任に聞いてくる!」
「え……、の、信長くん? 待って!!」

 勢いよく立ち上がるやいなや、清田はどこかに走り去ってしまった。話の流れ的に行き先は予想がつくけれど、まさか今行ってしまうなんて誰が思うだろうか。始業式前日の夕方。たぶん……いや、ほぼ間違いなく清田の担任の先生は学校にいないだろう。
 暫くしてとぼとぼと落ち込んだ様子で帰ってきた清田が、別日に名前を学校へ連れて行った話は割愛させてらう。

 さて、そんなわけで名前は清田を通して学校の先生から進路について相談する機会があったわけなのだが、そこから話はトントン拍子に進んでいった。高校2年までの単位がある名前は編入という形で通信高校へ。そして、就職とまではいかないが、保育園で補助業務のアルバイトに空きがあり、折よくそこで働くことが決まった。どちらも4月から、まるっきり新しい生活に様変わりすることになる。

「寂しくなるわねえ」

 この話が纏まって以来、口癖のようにママはこればかり言っている。

「すみません。せっかく慣れてきたのに辞めるなんて」
「うんう、それはいいのよ。名前ちゃんが決めたことで、大事な将来のためなんだから。ただ会えなくなっちゃうのが寂しいだけで」
「また来ます。今度はお客さんとして」
「そうよね、待ってるよ」

 思い返せば、ここに面接に来たのもちょうどこの時期。あの頃の自分は、こんな今を予想だにしていなかった。苦しくて、悲しくて、前を向く気力もなくて、暗闇の中にいるみたいに思えた。だけどそんな中でこの店を選んだのは、やっぱり神様のお導きなんじゃないか。だって私はここでバイトしていなかったら、きっと信長くんに出会ってすらいなかったんだもん。
 カラン、と店のドアの開閉音が聞こえると、同時にお日様みたいな笑顔が視界に飛び込んできた。後ろには彼の先輩の姿まである。

「信長くん、それに神くんも」
「名前さん、今日が最後って聞いて」
「ありがとう。信長くんたら、先輩まで引っ張ってきて」
「こういう日はパーッとやるもんだろ」
「もう。お別れパーティーじゃないんだからね」
「わかってるって」

 言いながら親指を立ててニカッと笑った清田に肩を竦めた。彼が初めてこの店に来たときは、まさか付き合うだなんて思ってもいなかったのに。お客さんに彼氏を連れてきたなんて言われて全力で否定してた日が懐かしく思える。あの日彼はあっという間におばちゃん達のハートを掴んでしまったけれど、自分も同じよう急速に彼に惹かれていった。まるで魔法にかけられたみたいに。思い返してみれば、出会ってまだ7ヶ月。こんな風に惹かれ合って付き合うようになるだなんて。
 バイト最終日は清田が初めて来てくれた日と同じラストまでの遅番だった。恐らく清田が来るだろうことを見越してママが気を利かせてくれたのだろう。いつも通りなら夜の来客はそれほど多くないのだが、名前に会いに来る客が多く、珍しく慌ただしいディナータイムとなった。


「名前ちゃん、本当にお疲れ様。今までありがとう」

 閉店時間になり店を閉めると、裏から戻ってきたママが花束を差し出した。

「こちらこそありがとうございました」
「また遊びにおいでね」
「はい、もちろん」
「信長くんも一緒にね」
「そうですね」

 薔薇みたいに綺麗な赤色のラナンキュラスが入った花束を受け取った名前は店の中をぐるっと見渡した。今風のお洒落なカフェも良いけれど、私はここのレトロな雰囲気がとても好きだ。お客さんも圧倒的に年輩の方が多くてその分可愛がってもらったし、いつの頃からか自分の家みたいに落ち着く場所になっていた。
 年季が入ったテーブルやソファー、何百回と料理を取りに行ったキッチンカウンターに壁に飾ってあるよく分からない絵画。一つ一つに思い出が詰まっているようで感慨深く見ていれば、そのテーブルやソファーを隅に寄せ始めた二人が視界に映る。
 
「……信長くんたち、なにしてるの」
「すっげえ大事な準備」
「なんの?」
「すぐ終わるからちょっと待ってて」

 清田と神は二人がかりでテーブルとソファーを持ち上げて壁際に寄せて何やら真ん中の方に空間を作っている。店の片付けを頼んだ覚えはないし、そもそもいつもこんな風に大掛かりな片付けなどしていない。それに、自分の傍にいるママにも彼らの姿は見えているだろうに、なにも言わないということは恐らく彼女は事を把握している。
 困惑しつつも黙って二人の動向を見守っていると、片付けたフロアの真ん中に二人掛けのテーブルを一つ持って来てそこに神くんが立った。元々床に敷いてある赤い絨毯も相まって、何処となくステージのような雰囲気が醸し出されている。
 一体何をするんだろう。今からちょっとしたショーでもするのではないか。サプライズの予感はするものの、それが何であるかまでは予想がつかない。そのうちに自身のバッグから棒状のものを取り出した清田はそれを神へ渡した。

「神さん!」
「はいはい。分かってるよ」

 てっきりマイクだと思っていたそれは、よく見れば賞状なんかが入っている丸筒だった。神は蓋を開けて賞状らしき紙を出し広げて、大きな声でそれを読み始めた。

「卒業証書授与。名字名前」
「は……はいっ!」

 まさかその言葉が出てくるとは思わず、一瞬息を呑んでから名前は辿々しく返事を返した。
 丸筒であると分ったとき、頭に浮かんだのは感謝状とかそういった類のものだった。本当ならば……自分が高校を辞めずにちゃんと通うことができてたなら、このシーズンに受け取っていただろう卒業の証。どうしてそれを彼らは用意してくれたんだろう。返事だけしたものの、動揺と嬉しさでぺったりと床に貼り付いてしまった足はそこから動き出そうとはしない。
 こちらを見てほほ笑んでいるママ、卒業証書を持って待ってくれている神。……そして、発案者であろう清田が名前に向って手を差し出した。

「名前、おいで」

 その笑顔に、こわごわとゆっくり頷いて震え始めた足を前へと動かす。体育館に比べれば圧倒的に狭いのに、証書の待つ場所へはなかなか辿り着かない。一人一人名前を呼ばれて、すすり泣く声や緊張感に包まれて歩く卒業式とはやっぱり違うけれど、そこへ向かう心情はなんだか似ている。長いようであっという間に過ぎていった日々を思い返しながら、未来への期待感と恐怖、そしてこの場所から旅立つ寂しさを胸に一歩、また一歩と前に進んだ。

「卒業証書。名字名前はいつも素敵な笑顔でカフェ・サンフラワーの従業員やお客さまを明るくしてくれました。その頑張りに感謝すると共に、今後もその笑顔でたくさんの人に幸せを届けてくれること、その笑顔をまた見せにきてくれることに期待し、ここに卒業証書を授与します」

「……ありがとうございます」

 証書を受け取るのと同時に涙が一筋落ちていった。形式的な「ありがとう」だけでは足りようもない。
 こんな素敵なことを考えてくれてありがとう。私のために卒業式を用意してくれてありがとう。手伝ってくれた神くん、店長、ありがとう。いっぱいの感謝を余すことなく伝えたいけど、止め処なく溢れてくる涙がそれを邪魔する。
 いつかみたいにトントンと優しく背を撫でてくれていた手に思わずしがみつけば、温かな腕の中へ抱き留めれた。
 
「……信長くん、ありがとう」

 私と出会ってくれてありがとう。

 私を好きになってくれてありがとう。

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