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12.Kiss me


 いつもと何ら変わらない景色が急にキラキラと輝き始めたような気がする。
 ホースから水を出すと一段と寒々さが増して憂鬱だった朝の水やりをすれば花壇のビオラが喜んでいるように見えるし、海から運ばれてくる冷たい潮風すら今日は心地良い。いつもと変わらない朝が訪れて、いつも通りに朝ご飯を二人分作って、早番のバイトのために朝一番にお店にやって来て決まり通り花壇にお水をあげているだけ。それなのにどうしてこんなにも心が弾むんだろう。

「名前ーーっ!」

 昨日と変わったことは一つだけ。自分に彼氏という存在ができた。まさにいま、その人の声が聞こえてきて振り返れば、より一層輝きを増した景色の中にその人の姿があった。

「おはよう。どうしたの、信長くん。今日からテストなんでしょう」
「行く前に顔見たかっただけ」
「へ……」

 間の抜けた声が出たあとには急激に顔に熱が昇っていく。いや、だって。登校前にわざわざ顔を見に来たなんて言われたら誰だって照れるじゃない。他でもなく自分自身に言い訳を並べながら手で小さく顔を扇ぐ。暑いなんて言う時期は疾うに過ぎてるのに、自分の顔は湯気が出ていそうなくらい熱く感じる。

「ん、」
「な、なに?」
「手。こっちちょーだい」

 徐ろに手を差し出された名前は首を傾げながらその上に自分の手を乗せた。その格好が昨日の告白とまんま重なって更に熱が上がっていく。
 けれど目の前の人はそんなこと全然気にはしてないらしい。ギュッと名前の手を握ってなにやら願掛けでもするように目を閉じた。

「……っしゃ。チャージ完了。これで思いっきし頑張れるぜ」

 手を離した清田は今度は自分の拳をギュッと握ってから踵を返した。
 
「じゃーな。終わったら来るから、待ってろよ」
「は……はい。いってらっしゃい」

 あっという間に豆粒みたく小さくなってしまった後ろ姿を見つめながらハァと息を吐く。彼の姿が消えてしまったこの町並みがやっぱりいつもより美しく思えて、ぼんやりと佇みながら暫くそれを眺めていた。




「危ねーって名前。こっち来て」

 腕をぐいと引っ張られて車道側から内側へと誘導された。それに「ごめんね」と小さく頭を下げれば、ぽんぽんと優しく頭を撫でられる。

「寒くねえ?」
「え、うん。大丈夫」

 大丈夫と答えたにも関わらず、清田は自身のブレザーを脱ぎ名前へ掛けた。

「……ありがとう」

 信長くんが寒くなっちゃうでしょう。そう断らなかったのは、自分を包み込んだブレザーから彼の匂いがして抱き締められているように感じたから。その心地よさをすぐに手放すのが惜しいなんて思ってしまったのだ。
 朝からランチ終了までバイトした名前は学校帰りの清田と合流していた。迎えに来てもらうのは久しぶりで彼と歩くのも久しぶり。でもその距離感は前よりもずっと近いし、彼もなんだか前と違う。前から優しかったけど、尚の事優しいと言うか気を遣ってくれていると言うか。いつの間にやら呼び捨てで呼ばれているし、この急な変化に対応出来ずにドギマギしている。

「なんか名前、今日静かだな」
「そ、そうかな。緊張してるのかも」
「なんで」
「なんと言うか……本当に付き合ってるんだなって」

 名前からしてみたら、付き合った初日から如何にもな彼氏をしている清田の方が不思議だった。出会ってから今までの少ない期間で彼の全てを知ることは到底不可能ではあるけれど、常日頃堂々としているように見えた彼は自分とは違って緊張の二文字はないのだろうか。でもでも、バスケの試合じゃないんだから流石にこういうときは緊張したりするのでは。どう思い返してみても、出会ったときから押せ押せだったのは清田の方なのに、いざ付き合うようになったら自分の方が緊張しているだなんてなんだか恥ずかしい。

「もしかして俺が初カレだったりする?」
「や、一応中学のときにそういう人はいたけど」
「なんだよ、マジかよ」

 それは耳も尻尾もダランと垂れているみたいな分かりやすい落ち込み様だった。ついなにも考えず答えてしまったことよりも、さっきとは一転したその反応に驚いて名前は首を傾げた。

「信長くんだっていたことあるでしょ」
「そりゃまあ……。俺も中学んときに」
「そっちのが最近じゃん」
「そうだけど、友達の延長線っつーか。寧ろ友達と殆ど変わんねー感じで卒業と同時に終わっちゃったし」
「私もそんな感じだよ」

 好きだったし一緒にいるのが楽しかった。けど友達含んでのほうが遥かに楽しかったし、付き合ったと言ってもそれっぽいことをしたのは手を繋いだことくらいだ。清田に対してのほうが余っ程ドキドキしてるし恋愛のそれとして見れば比べる次元すら違う気がする。しかし同じく彼女がいたらしいのに、清田は眉間にくっきり皺を作って不貞腐れたような顔をしていた。

「もしかしてヤキモチ妬いてたりしますか?」

 名前は前に映画デートをしたときを思い出しながら清田に聞いた。自分の気持ちとは全く別のところがもやもやと重苦しくなる変な感じは今もよく覚えている。

「すっげーしてるっつーの」

 清田は面持ちを変えないまま、間髪入れずに答えた。そのストレートさが如何にも清田らしくて名前は思わずふふっと吹き出してしまう。

「……なに笑ってんだよ」
「だって可愛い」
「男に可愛いとか言うのナシだぞ!」
「ごめん。信長くんのそういうところ好き」

 自然に出ていた言葉に名前は口を抑えた。勿論、心からの気持ちではあるけれど言うつもりは1ミリもなかったのだ。そうすれば今度は清田の顔がみるみる緩んでいく。

「名前のが可愛い。好き」

 彼の顔いっぱいに広がった喜びは抑えきれずにオーラにまで出ている気がする。そういうところがやっぱり可愛いと思うし、お返しみたく言ってくれた「可愛い」も「好き」も凄く嬉しい。だけどそれを上回る恥ずかしさに耐えきれなくて名前は顔を覆い隠した。

「自分は言われると照れんのかよ」
「もう勘弁してください」
「やだ。照れてんの凄え可愛い」

 覆っている手を引っ剥がされて、猫のどを擽るみたいに上を向かされる。赤く染まった頬と彼を直視できない瞳を満足そうに眺めた清田は名前の頬にぴたりと手を添えた。その行動から出来得る想像は一つしかなくて、名前は慌てて唇をきゅっと結んだ。
 リップ塗ったのいつだっけ。皮剥けてないかな、カサカサじゃないかな。そこへ伸ばしたくなる手を抑えるべくスカートの裾をぎゅっと掴む。愛おしそうに名前を見つめながら添えた手で頬を撫でていた清田は、次の瞬間なにかを思い出したように目を瞠った。

「……やっべぇ。今日竜馬の迎え頼まれてんだった!」

 膝が砕けるかと思った。目を瞑ろうか否か、そんなことを考えていたというのに、もしかして彼にはキスするつもりなんてさらさらなかったのかもしれない。一気に込み上げてきた恥ずかしさを隠すことすら出来なくてぶるぶると唇と手を震わせた。
 
「悪い! 埋め合わせするから! 二人っきり時間は今度ぜってー作る!」 
「違うよ。怒ってるわけじゃない」

 手を合わせて申し訳なさそうに謝る清田に首を振った。自分がどうしてショックを受けているのか考え至らない清田とのギャップにまた恥ずかしさが募る。口を尖らせながらぼそぼそと「キスされると思ったのに」と言うと、目を丸くした清田の顔が一気に真っ赤になった。

「え……と。……し、してもいい?」
「それは聞かないでよ」
「だって、その。……嫌な思いさせたくねーだろ」

 言いながらこわごわと肩に置かれた手に応えるようにコクンと一つ頷いてみせる。
 
「嫌じゃないよ。したい」

 急に追いついてきた自分の変化が可笑しく感じつつ急く気持ちが止められない。つい昨日まで付き合うことすら考えていなくて、ついさっきまで付き合っているという事実にドギマギしてたというのに。今は踵を目一杯あげて、もっともっと彼の近くに行きたいと感じている。

「こーゆーときは照れねーのかよ」
「信長くんのが伝染っちゃった」
「そーゆーのは伝染るとかじゃねーだろ。つか俺だって照れんだけど」

 さっきよりずっと赤い肌と上擦った声は言葉通り彼が照れていることを示していると思う。けれど肩に手を置いたままゴクンと喉を鳴らした清田は、それっきり全くの無言になってしまったので名前は急かすように清田のシャツを引っ張った。

「……竜馬くんのお迎え行く?」
「ちょ……っ、待って!」

 ぶるぶると大きく首を振った清田はふぅと息を吐いて肩にあった手を置き直した。"照れてんの凄え可愛い"清田がさっき言っていたことを今度は名前が清田に対して感じていた。もうすぐ体験するだろうファーストキスに自分だって緊張しているけど、それよりずっと彼のほうが緊張していて段々と口元が緩んできてしまう。
  
「い、いくぞ」
「うん」

 その合図から間もなくして触れ合った唇はすぐに離れていき、またすぐに同じところに舞い戻ってきた。ふにふにと何度もくっつき合っているうちに、徐々に触れ合っている時間が長くなっていく。さっきまで照れていたのはなんだったんだろうと思えるほど、いつの間にやら長いキスへと変わった。
 唇を離した二人が自分たちがキスしていた場所がわりと往来の多い道路であることを自覚するのはこのすぐ後のこと。

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