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09.よく似た笑顔


 
 滴り落ちてくる汗をタオルで拭って、息切れした呼吸を整えるようにポカリを一気に呷る。空っぽになったボトルを見つめて一つ溜息を零せば、部室のドアの向こうが徐々に騒がしくなってくる。自主練を終えた他の部員たちが戻ってきたようだ。
 一足早く戻っていた清田はその音を耳にベンチから立ちロッカーを開けた。ぞろぞろと入ってきた部員たちがそれぞれのロッカーの方へ散らばっていく。タオルをスポーツバッグへ投げ入れ、ハンガーに掛けた制服を取った清田の頬に突然強い衝撃が加わったのはそのすぐ後のことだった。
  
「い゛っ……!」

 その痛みに鈍い声を上げた清田はバッと真横を向いた。そこに立っていた神は全く悪びれのない表情で清田を見下ろしている。

「イキナリなんなんすか、神さん!」
「なんか凄いひどい顔してるから」
「……顔?!」

 つねられた頬をさすりながらロッカーについている鏡を見る。映っているのはいつもの自分に違いない。痛みで多少顔は歪んでいるけれど。

「最近してなかったのに。しかめっ面」

 背後からの声に、頬をさすっていた手を眉間へと伸ばした。眉を寄せた痕がくっきりと線になって残っていることにこのとき初めて気がついたのだ。
 しまった、前に先輩たちに心配かけたばっかなのに。皺を伸ばすように眉間を撫でていれば、鏡の中の自分の背後になにやら楽しそうな武藤の顔がちらりと映る。

「聞いてやるな、神。遂に振られたってことだろ」
「ち、違いますよ!」
「じゃあどうしたんだよ」
「それは……、最近彼女と会えてないから」

 こういうことを言うのはあまりにも格好がつかない。バカ正直すぎる自分の顔面に嫌気が差しながらも、自分の気持ちを素直に言葉に出した。

「避けられてんのか」
「だから違いますって!」
 
 どうしても振られた方向に持っていきたいらしい武藤へ叫ぶように言えば、彼らはやれやれと肩を竦めた。
 振られたわけでも避けられているわけでもない。……はずだ。事情があって彼女が忙しくて……。それでも会えていた以前の日々を思い出しながらぎゅっと拳を握る。ムキになってしまったのはその予感が実は自分の心うちにあるからかもしれない。
 
「彼女のお母さんが、入院してるみたいで……その」

 こうして言葉だけ出してみると、自分が会えずに駄々をこねている子供みたいに思えてくる。顔を見合わせた先輩たちは二人して目を見開いた後眉を下げた。

「親の一大事にお前になんか構ってられないだろ。落ち着くまでちょっと待ってやれよ」
「そのうちバイト戻ってくるだろうから、またそのときに信長が出来ることをやってあげればいいだろ」
「バイトには戻ってるらしいんですけど、俺が行けない時間帯ばっかで」

 二人が言ったことに否定の二文字はない。自分もそうすべきだと思ってるし納得はしているのだ。前に店のママに言われたこともあって、名前のことを助けてやりたいと言う気持ちは一旦は押し留めている。彼女がいつも通りにバイトに戻ってきたら、もしも自分に頼ってきたら、全力で出来ることをしてやりたい。
 けれどそう思い始めて早3週間。バイトに戻ってきたらしい彼女に会えないまま、宙ぶらりんの気持ちを抱えていた。

「お前が行けないって、昼間ってことか」
「みたいです。朝早くとか、ランチの時間とか」
「いよいよ年上説濃厚だな。大学生か」
「まぁ、年上は年上らしいんすけど、事情があって高校通えなくなったみたいで」

 人の家庭事情をペラペラ喋るのは良くない気がして、母子家庭であることとお母さんの体調がずっと思わしくないことを掻い摘んで話せば先輩たちはそれぞれ顔を曇らせた。

「なら余計大変だろうよ。親の入院費用もあるだろうし、お前に会ってる時間なんかねーんだよ」
「それは……分かってるんですけど」
「今は待つ時だよ。お前のことだから助けてあげたいとか思ってるだろうけど、出しゃばると彼女に余計な負担かけることになるぞ」

 ママが言っていたのと似たような言葉を神にも言われて清田は肩を落とした。 
 分かってる。分かっているけど、待った後に彼女と会える日は本当に来るのだろうか。中途半端なままの告白をしたデートの日が随分と昔のことみたいに思えた。




「名前ちゃん、そろそろ上がっていいよー!」

 お昼のピークタイムが過ぎた頃に声をかけられた名前は、挨拶をして厨房奥のロッカールームに入り大きく息をつく。人手が少ない夕方から夜をメインに出ていた名前だが、母が入院してからはムリを言って朝昼をメインにしてもらっている。夕方以降のバイトは名前一人であることが殆どだったが、ティータイムにバタバタとすることはたまにあるくらいでそれ以外の時間は比較的のんびりしていた。一方でモーニングからランチの時間は客足が途切れることはなく、忙しくしているうちにあっという間に時が過ぎている。

「お疲れさま。ちょっといい?」

 ノックと共に入ってきたママは名前に茶封筒を差し出した。首を傾げながらそれを受け取った名前は、封のされていないそれを開けて息を呑んだ。中には結構な枚数のお札が入っていたのだ。

「え……と、これは……?」
「バイト代よ」
「でも、給料日は月末ですよね。それにいつもよりだいぶ多い気がするんですけど……」
「物入りだろうから今回は早めにね。少ないけどお見舞金も入ってるから受け取ってちょうだい」

 鼻にツンとした痛みが走る。出てきそうな涙を堪えてぎゅっと封筒を握りしめた名前は深々と頭を下げた。 

「……ありがとうございます。凄く助かります」

 本当は遠慮するべきなのかもしれない。けれど実際問題名前の一馬力状態の家計事情ゆえ、正直かなり有り難い心遣いだった。ママは暫く頭を下げ続けていた名前の背中をあやすように撫でた。

「あの子、毎日来てたよ。信長くん」

 名前を聞いて肩が小さく震えたのは負い目があるからに違いない。

「名前ちゃん、暫く夜はシフト入らないって言ったら凄いショック受けてた」
「……ごめんなさい」
「私はいつ入ってくれても良いんだけど、名前ちゃんはいいの?」
「朝は面会出来ないし、今はたくさん働けると有り難いから出来れば朝昼はバイトにして夜は空けておきたくて」

 その尤もらしい言い訳が誰へ向けてなのかは、ママは十分に分かっていると思う。たくさん働いてお金を稼いでおきたいのは事実だけれど、朝昼に固執する必要はない。夜のシフトでも面会に行く時間は作れるし、本来はムリに頼むまでもないのだ。

「分かった。また来たらそう伝えとくよ」

 もう一度背中を撫でてくれたママの言葉が、名前には心底有り難かった。




 病院から出てきた名前の耳にダンダンと弾むボールの音が届いた。

 その音の方へ無意識的に視線を向けてしまうのはあの日からだと思う。息をするのを忘れてしまいそうなほど凄い戦いを観た、国体のあの日。
 けれどそこにいるのは清田ではない。ちいさな体で一生懸命にジャンプしてゴールへボールを投げている男の子だ。
 いつか見たことのあるその子の方へ歩いて行ったのも、半ば無意識的な行動だった。ふと我に返ったのは、その子が真剣に見つめるゴールのすぐそばまで来たとき。向けられた警戒心いっぱいの視線に今更気まずさを感じつつも名前は笑顔を投げかけた。

「この前もいたよね、君。バスケ好きなの?」

 前みたいに口を尖らせて照れ臭そうにしながら、その子はコクンと小さく頷いた。

「前にシュートしてるの見たよ。すっごく上手なんだね」
「……別に、あんくらい普通だし」

 その言い方に小さな笑いが零れたのは、ちらちらと別の人の影が見えたせいかもしれない。

「ねえ、私も一緒にやっていい?」
「いいけど。おねえちゃんバスケ出来るの?」
「学校でやったことはあるんだけど。……そうだ、君が教えてくれない?」
「オレが?」
 
 名前が頷くと、その子の顔にじわびわと期待の色が広がっていった。

「しょーがねーな。どうしてもって言うなら教えてやってもいいけど」

 言い方も仕草からも、やっぱり思い起こされるのは彼の姿に違いなくて、気付けば名前はけらけらと大きな笑いを零していた。

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