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08.大切なもの



 足元に転がってきたのは自分が知っているのとは少し小さめのバスケットボールだった。こんな可愛いサイズのものがあることにちょっとした感動を覚えて、名前は手に取ったボールをマジマジと眺める。そうすれば近付いてきた遠慮がちな足音に振り返ると、5、6歳くらいの男の子がもじもじしながら名前の手の中にあるボールを見つめていた。

「これ、君の?」
「……ありがと」

 照れ臭そうにボールを受け取った男の子は、そのまま後ろにある公園へと駆けて行った。遊具の横にあるグラウンドには一般的なバスケットゴールと並んで可愛らしい子供サイズのゴールが設置されている。
 そこへ戻って行った男の子はピョン、とジャンプしてその年令らしからぬ綺麗なシュートを放った。

「わ……、すごい」

 思わず足を止めてそのシュートを見ていると、此方を振り返った男の子とバチッと目が合った。さっきみたいに恥ずかしそうに頬を染めたその子は口をツンと尖らせてプイッと顔をそらした。なぜだか分からないけど、名前にはその感じが清田に似ているように思えた。こんな小さな子とダブって見えるなんて末期も良いところだ。
 もうその子が見ていないのは分かっていたけど、名前はそちらに小さく手を振ってから歩き始めた。ああいう子が信長くんみたいになるのかな。元気で真っ直ぐで、何事にも全力で向かって行く凄いプレーヤーに。
 零れそうだった溜息を呑み込んで、名前は公園のそばにある大学病院へと入って行った。




「今日も休みっすか」

 カウンター越しに沈み込んでしまいそうなほどの落ち込み具合を見せた清田に店のママは眉を下げた。

「せっかく来てくれたのに悪いわね。ご家族が体調悪いみたいで」

 洗ったお皿を拭き上げながらママは言う。名前が店長と呼ぶ彼女は、40代半ばのSUNFLOWERカフェのオーナーママである。一週間前のデートで名前が途中帰宅してしまって以降ほぼ毎日のようにここへ寄っている清田だが、店に居るスタッフはずっとママだけなのだ。

「それって、もしかして白波病院に……」

 ショッピングモールでの突然の呼び出しに、半信半疑でサービスカウンターへ向かった2人に報されたのはこの病院からの伝言だった。すぐに折り返し電話をかけて慌てて帰って行った彼女の雰囲気と、なにより病院からの伝言が家族になにかあっただろうことを物語っていた。
 ママは「知ってたのね」と頷くと大きな溜息を吐いた。

「大変よね、あの子も。お父さんが亡くなって、今度はお母さんが体壊しちゃって」
「え……。お父さんが亡くなったって……」
「一年前にね、不運な事故だったみたいよ。あの子も辛いだろうにショックで寝込んじゃったお母さんのお世話ずっとしていたみたいでね。それで高校も通えなくなったんですって」

 見開いた目と同じように開いた口からは何の言葉も出てこなかった。単純にショックだった、なんて言葉だけでは言い表せない。彼女の気持ちを考えれば辛いし、なんで自分はなにも気付かなかったのかと憤る気持ちもあるし、話してくれなかったことへの悲しさもある。一気に噴出した感情がうまく処理できなくて、清田は頭を抱えて項垂れた。

「俺、何も知らなかったです」
「……そっか。まあ、進んで言いたいことではないからね」

 頭の向こうでカチャ、とお皿を重ねる音が聞こえる。ママが片付けをする音だけが静かに響く店内は清田以外の客はいない。名前が休んでいることもあってか、ママはずっと忙しそうにしていてこうやって話すこともままならなかったのだ。
 聞けて良かった。幾分気持ちが落ち着いた清田が顔を上げると、皿を拭き終えたらしいママがじっと清田の方を見ていた。

「余計なこと、しちゃダメだよ」

 その忠告の意味が分からず、清田は眉を寄せた。

「なんとか助けてやりたいって顔してるから」
「そ、そりゃそうっすよ。俺に出来ることがあれば力になりたいし」

 なにも悪いことだとは思わないし、なぜそれが余計なことなのかが分からない。拾ってあげたポーチとか、ストーカーから守るための送り迎えと何ら変わらない。困ってるのなら助けてやりたい思うのは当然の気持ちなのだ。しかもそれが好きな人なら尚更だ。
 大人からしたらナマイキに映るのかもしれないけど、ここは譲りたくない。いや、譲るべきことでは絶対にない。自分を見つめる目に負けじと真っ直ぐな視線を向けてやると、ママは小さく首を横に振った。

「頼まれてもないのにデリケートなことに口を出すのは決して褒められることじゃないよ。少なくとも名前ちゃんは信長くんには家族のこと話さなかったんだから」

 理解できるようで理解しがたい大人の言葉に、清田はぐっと拳を握りしめた。




 ナースステーションで挨拶を終え病室に入ると、一番奥のベッドに座っている母の姿が見えた。

「起きてて大丈夫なの」
「もうだいぶ落ち着いてるわ」

 母の背中をさするとゴツゴツとした背骨の硬さを手のひらに感じる。手指も、足も、全部数年前とは比べ物にならないくらい細くなってしまった。そんな母親を見ていると悲しくて泣きたい気分になってくるけど本人の前でそんな顔が出来るわけもない。出来る限り不自然にならないように名前は口角をあげる。

「まだ安静にしてたほうがいいよ」
「寝てばかりいても疲れるのよ」
「それでも寝てなきゃ良くならないよ」
「退院しても結局殆ど寝てるようなものなのに」

 ぶつぶつ言いながらも横になった母親に名前そっと布団をかけてやる。愚痴を零したくなる気持ちは分かるけどしっかり養生して欲しい。
 夫に旅立たれたショックから体を壊してしまった名前の母親は今回のように入退院を繰り返している。元々持病を患っていたのもあるが、やはり心の問題が大きい。以前はこなせていた家事もパートもすっかり出来なくなってしまい、今は殆ど名前に任せきりに状態になっている。

「名前」
「ん?」
「ごめんね」
「……なにが?」
「色々。私が倒れたときも遊びに行ってたんでしょう」
「気にしなくていいよ。私こそ、お母さんの様子がおかしいことに気付けたはずなのにそのまま出かけちゃってごめん」

 大きく首を振った名前はスカートの裾をぎゅっと握る。謝らなくていい。そんな申し訳けなさそうな目で私を見ないで欲しい。それよりも──貴方が前みたいに元気になってくれれば、それだけでいいのに。
 名前は清田と出掛けた日のことを思い出していた。初めての"デート"。ちょっぴり浮かれて準備して、待っているだろう元気な笑顔のことばかり考えていた。母親の部屋に声を掛けたとき、返事がないことに違和感を感じていたのにどうして自分はそのまま家を出てしまったんだろう。

「もしかしてデートだった?」
「……違うよ」
「別にいても怒らないよ」
「なんのこと」
「彼氏。名前はもう18歳なんだから」

 青白くて細い指が名前の前髪を撫でる。そうしてもらうのは何年ぶりだろう、なんて思ったら喉の奥がきゅっと苦しくなってきた。 

「いないよ。彼氏も、好きな人も」

 ──俺、初めて会ったときから名前ちゃんのことが……

 ほんのり色付いた頬と、真剣な眼差し。私を包んだ大きな手。
 あのとき、最後まで聞けていたなら返していただろう言葉を、名前は心の奥にしまいこんだ。

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