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05.本当はまだなにも知らない


 ベッタリと張り付いてしまった不快な感触を上書きするかのように、お日様みたいな温かさが私を包んだ。子供をあやすみたいにゆっくり背中を撫でて、いつもよりもずっと柔らかな声で私を呼ぶ。
 
 大丈夫。大丈夫だよ、名前ちゃん。

 恐怖で震えて全速力で走って馬鹿みたいに煽った心臓は元に戻るどころかずうっと早鐘を打ったまま。だけどそれすらも心地良くて、私はその穏やかな熱の中にずっといたいと思ったんだ。


「あら、信長くんが来たわよ」

 彼の名前にびくりと肩を震わせた名前は慌てて前髪に手を伸ばす。サッと前髪を整えて、キッチンの窓に反射して見える自分の姿をチェックする。それは殆ど無意識的な行動だった。

「今日は早いんだね」
 
 出来るならリップくらい塗りたかった。そうは思えどそんなことで持たせるわけにもいかない。小走りでいつもの入口近くの席に向かえば、清田はニッと爽やかな笑みを見せる。

「ちょっとだけ早く終わったからダッシュで来た」
「そんなに慌てなくても大丈夫だよ」

 大丈夫。自分で口にした言葉にドクッと心臓が跳ねた。トントンと優しく背中を行き来する手の感触と、穏やかな声が鮮明に蘇る。

「どした。まだ体調わりぃ?」

 思わず俯いてしまった名前を心配そうな瞳が見上げた。熱くなった頬を手で隠してぶるぶると首を横に振る。丸一日休んだのだから熱はとっくに引いている。ただ、思い出してしまったリアルな感覚に心臓が騒いでいるだけ。
 いつも通りに見える彼に「大丈夫」と、また同じ言葉を返し少し乱れた髪を整える。なぜこんなにもドキドキしているんだろう。

「せっかくだからなにか食べる? オーダーストップしたけど今ならまだ作ってくれると思うよ」

 高鳴る心臓をこれ以上気にするのはやめよう。平静を装いながら清田にそう聞けば、彼は「そうしよっかな」とメニューに目を通し始めた。まだ閉店まで30分以上ある。
 あんな風に怪我までして助けてくれたのに、彼はまだ私のところに来てくれるんだ。それに有り難さと申し訳なさ両方を感じつつ、メニューを見ながらぶつぶつなにか言っている清田の横顔をじっと見つめる。お礼の一つ二つでは足りないくらいだ。
 ふと視線を感じて顔を上げれば、窓の向こうに蠢くものが見えた気がした。

「……ひっ」 
「名前ちゃん?」 

 もしかしてまた……。じり、と後退りすれば、それを見た清田が弾かれたように窓の方へ視線を向ける。「あーーーっ?!」と大きな声が轟いたのはその直後のことだった。



「なんでついて来てんすか!」

 外にいた面々に大きな声を上げれば、気まずそうに顔を掻いたりケロリした笑みを見せたり、それぞれ別の反応を見せた。

「いやー、お前の挙動がおかしいからつい」
「言っておくけど俺はついて来る気はなかったからね」
「そんなことねーだろ。お前もコイツの様子がおかしいって言ってただろ、神」
「それは認めますけど、後輩の後つけてまで確認しようとは思わないですよ。ね、牧さん」
「そうっすよ、牧さんまで……!」

 高砂を除くレギュラーメンバーが揃ったテーブルの視線は一気に大黒柱牧に向いた。自分の後を先輩たちがつけてきたことに全く気付かなかったことよりなにより、こんなことをしなさそうな牧が一緒にいることが一番の衝撃だった。

「悪い。コイツの勢いがあまりに凄かったんでついな」

 当の本人は気まずそうに咳払いをして隣に座る武藤を親指で指した。武藤さんは一体なにを言って二人を引っ張って来たんだろう。嫌な予感がしつつもそれに言及するのを躊躇っていれば、人数分のお冷がテーブルに置かれた。

「みなさん何か飲む?」

 ついさっきとは違う落ち着いた表情の名前に清田はホッと胸を撫で下ろした。兎にも角にも、来たのがこの前の野郎じゃなくて良かったのだ。
  
「あ、俺アイスコーヒー」
「俺も同じのを。ブラックで」
「信長くんはコーラでいい?」
「流石、分かってんじゃん」

 それぞれの注文をオーダー票に書いていた名前がまだメニュー表に目を落としていた牧を見る。 
  
「先生は?」
「む……?」

 瞬時に自分の血の気サーッが引いていくのが分かった。まさかそんな爆弾を落としてくれるとは思わなかったのだ。

「ば……っ、名前ちゃん! 先生じゃねーって! 牧さんは先輩! 高校三年生だからっ!」
「えっ……あ、ごめんね、牧くん。大人っぽいんだね」

 いやいや、みんな同じ制服着てんだろ? いくら大人びててもそりゃねーだろ! 顔を真っ赤にした名前に牧が怒ることはもちろんなかったが、武藤は腹を抱えているし神も顔を背けて笑いを堪えている。

「お前の彼女天然か」
「いや……、まぁちょっと抜けてますけど。つか彼女じゃないっすよ、まだ」
「まだ、って彼女にする気満々じゃねーか」
「別にいいじゃないすか」

 オーダーを通しにキッチンの方へ戻っていく名前の背中を見ながら清田は口を尖らせた。

「思い詰めた顔してるからなんか悩みがあるのかと思ったけど、恋愛してるだけなら良かったよ」
「……思い詰めた顔?」

 ぺたりと自分の頬に手をやってみる。ちょっと前までは浮かれていた自覚はあるが最近はそんな顔してたのか。
 ついこの間の件は清田の心にも爪痕を残していた。名前に覆い被さっていた野郎に腹が立つのは当然のこと、なによりも名前のことが心配だった。
 この前みたいな目には合わせたくない、そのために出来得ることをやりたかった。とは言っても自分の出来ることは前と同じく家まで送ってやるくらいである。それをあーでもないこーでもないと悩んで、今度は自分が先輩たちを心配をさせていたなんて。

「マジですいません。実は……」 

  
「──なるほど。そういうわけか」
「すいません。だから出来る限り傍にいてやりたくて」

 かい摘んで事情を話せば、みな一様に眉を顰めた。

「まぁ部活に支障でてるわけでもないしいいんじゃねーか」
「あのしかめっ面だけどうにかしてくれればね」

 神につつかれた眉間をぐにぐにと指で撫でる。そんな顔をしていたつもりはなかったが、これでは逆に名前に心配されかねない。
 
「学校の行き帰りは大丈夫なのか」
「今のところはバイト帰りだけみたいっすね」
「つーかどこの高校なんだ。近いならバイトがない日は海南まで来てもらって送ってやるのも手だぞ」

 自分では思いも寄らなかった考えに手を打とうとした清田は息を呑む。──あれ、どこの高校通ってんだ?
  
「おい、もしかして」
「そういえば聞いてないなって」
「普通最初の会話でするだろ、そういうことは」

 彼女と出会って一ヶ月以上経っている。一緒いる時間こそ少ないけれど、割と頻繁に顔を合わせているし話だって沢山している。だけど、俺は彼女のことどれくらい知ってんだろう。
 バイト先のこのお店、最寄り駅、そして彼女の家。そんで、がちゃがちゃキーホルダーを沢山つけるくらい可愛いものが好き。…………あとは?
 
「──年上ってことくらい?」

 まるで心の問答に返事するかのように神の声が入ってきて清田は「へ?」と間の抜けた声を出していた。年上? そういや、名前ちゃんは何歳なんだ?

「そういえば牧のことくん付けで呼んでたな。タメか……いや、大学生か?」

 牧のことをそんな風に呼んだことも覚えてはいなくて、ぎゅっと口を引き結んで顔を横に振れば武藤は呆れた風に溜息を漏らした。
 
「おいおい、まさか歳も知らねーのか」

 俺は一体彼女のなにを知っているんだろう。

 出会ってまだ一ヶ月。「まだ」と言えば仕方がない気がするが、それにしたってひどくねーか。どの口が偉そうに「好きだ」とか「傍にいてやりたい」とか言ってんだ。
 
「気にするな。まだ互いのことを知っていく段階だろう」

 牧のフォローの一言が清田の耳に強く残った。
 

・ 

「名前ちゃん」

 閉店時間になりそれぞれ家に帰って行った。清田はいつものように名前と一緒に同じ電車に乗り込み同じ駅に降りる。

「どうしたの」
「名前ちゃん、どこの高校行ってんの」

 バイト先から駅までの道、電車の中、そして最寄り駅に着いてから。一時間に満たいない時間だけれど、会話はいつも途切れはしない。今まで自分ばかりが喋って、自分のことばかり話していたことに、清田は今更ながら後悔を感じていた。 

「そういえば聞いたことねーなと思って。牧さんたちがさ、学校が近いなら下校のときも送ってやればいいって言うんだけど」

 それは清田自身も良い案だと思った。友人と帰るのなりしているかもしれないが、清田ならば確実に家の前まで送り届けてやれる。部活が終わるまで待ってもらう必要はあるが一番安全だと思う。
 けれど、目を丸くしていた名前の顔は、見る間に眉が下がり頬を強張らせていく。それがある種の拒絶であることは清田にもすぐに分かった。

「わり。言いたくないならいいや」

 清田が謝れば名前は更に眉を悲しそうに下げた。責めているわけではないし怒っているわけでもない。ただ、今まで感じたことのない壁のようなものを初めて感じて、分かりやすくショックを受けたのは確かだけれど。
 
「それよりさ、一つお願い聞いてくんない?」
「……お願い?」
「今度の国体、名前ちゃんに観に来て欲しいんだけど」
「それって、私も観に行けるものなの?」
「モチ、別に関係者じゃなくても誰でもオッケー。今年は東京で開催だしそんな遠くねーだろ?」

 眉を下げていた名前は考えるような仕草を見せてから、コクンと一つ頷いた。
 
「バイトが休みの日なら」
「っしゃー! ぜってーな!」

 大袈裟に飛び上がって見せれば、名前はふわっと顔を綻ばせる。そうだ、この顔だ。俺が見たいのはこうやって俺のこと笑って見ている彼女なのだ。
 
「あ、でもデートは別だぜ。ちゃんとそっちも付き合ってよ」
「うん。もちろん分かってるよ。信長くんにはお世話になってるんだから、お願いの一つ二つ全然大歓迎」

 くすくすと笑いを零す名前の手を取ってギュッと握った。

「じゃあこれももう一つ追加!」

 手を繋いで歩けば名前の顔があわあわと赤色に染まっていった。
 
 これでいいよな。ゆっくりでいいんだよな。彼女が話したくないことがあるのなら、その分自分のことを知ってもらえばいい。清田はこの日、固く決意したのだった。

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