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04.わたしを乱して、安心させてくれるひと


 鏡を見ながらリップをひいて前髪を整えて、アイシャドーも塗り直そうかとポーチに手を伸ばす。いや、それはやり過ぎでは? ポーチを掴む寸前の手をピタリと止めて、ムゥと悩む。バイト前よりも気合を入れた顔を作ってどうするつもりなんだろう。
 うだうだと悩みながらまた前髪を触っていると、キッチンの方から「名前ちゃーん」と自分を呼ぶ声が聞こえてきた。彼のお出ましだ。
 
「名前ちゃんお疲れ!!」

 出入り口に一番近い席に座って手をぶんぶん振っている清田の姿を見た名前の頬が緩む。清田のもとへ駆け寄って「今日もよろしくお願いします」とペコリと挨拶すれば、「よっしゃあ、任せとけ!」とお馴染みの元気な返事が返ってくる。なんとも頼もしいそれが名前にはどうにも可愛らしく思えて、またしても口元がゆるゆると綻んでいくのだ。
 清田に送ってもらうようになって半月ほど。名前はバイトが遅番の日が来るのを楽しみに思う自分に気付いていた。

「今日さぁ、牧さんが……あ、牧さんってバスケ部の先輩な。スーパーハイパーミラクルバスケ上手いんだけど、今日もすっげーカッケープレイして、」
「へぇ。どんなどんな?」

 帰り道は会話が途切れることがない。こんな風に先輩のことを楽しそうに語ったり、今日は自分がなにをしたとか今度はこんなことをやるんだとか。8割方清田が喋っているのを名前は楽しそうに聞いている。
 店から駅まで歩いて電車に乗って、降りてまた家まで歩いて。一時間あるかないかの僅かな時間。一人だと退屈仕方ない時間が彼といるとパッと笑顔に溢れる。帰り道だけじゃ物足りなくて、もっと話していたいなんて思うのだ。本来の目的はなんだったのかと疑問に思ってしまうほど。
 そうなのだ。"困ったお客さんから身を守るため"本来の目的はこれである。それなのに私ってば友達と遊びに行いくみたいにウキウキしちゃって一体なに考えているんだろう。ふと気付いてしまえば途端に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。彼は親切で送ってくれているのであって、私と遊んでいるわけではないのに。
 
「ねえ信長くん。疲れてない?」
「別に? つーか寧ろ元気だぜ」 
「でもほら、信長くん今度大きい試合に出るって言ってたでしょ。絶対これから練習ハードになるよ」

 県の代表とか言うとんでもないやつに選ばれたんでしょう。と言うと、かっかっかと独特な笑い声が響いた。名前からしたら全然笑い事でなくて、もし自分のことが原因で部活や試合に影響が出てしまったらそれこそ清田に今後合わせる顔がない。せっかく縁あって仲良くなれたのだから、こんなことで今の関係にヒビが入るだなんて嫌だ。
 しかし清田は名前の心配など全く気にする様子もなく笑っている。
 
「全っ然余裕だって! マジで疲れてねーし迎えに来るのも面倒じゃねえから! つーか気にすんなってずっと言ってんのに」
「気にしないでって言われてもしちゃうよ。信長くんには最初からお世話になりっぱなしなんだもん」 
「俺がしたくてやってんだからさ」

 大船に乗ったつもりでいりゃいいのに。そうブツブツ言いながら清田はなにやら考え始めてしまった。
 そりゃあ私としてはこうやって送ってくれればとっても助かる。お陰さまで変なお客さんも姿を現さないし信長くんと話すのは楽しいから。だけどそれで彼に迷惑を掛けてしまうのは絶対にダメだ。彼の悲しむ顔は見たくないし、なによりももしもそれで信長くんに会えなくなったら……。
 チクンと胸になにかが刺さるような痛みが走る。その痛みの理由が分からなくて胸を押さえながら清田の顔を見上げた。いまのは一体なんだったのだろう。真剣に悩む横顔をぼうっと見つめていれば、清田は思い至ったようにポンと手を打った。
 
「じゃあさ、こういうのは? 国体終わったら名前ちゃんからご褒美が欲しい」

 ご褒美、と言われて初めに清田をバイト先に呼んだ理由を思い出す。そうだ、お礼の為に彼をバイト先に呼んだのに結局また助けられている。今後のこと云々は抜きにして、それは絶対に応えてあげなくては。

「終わってからでいいの?」 
「じゃねーと流石に時間取れねーし。デートは落ち着いてからゆっくりしてーじゃん」
「…………でえと?」

 今すぐにでも清田のお願いに応えてあげたいと思った名前だが、返ってきた答えにキョトンと首を傾げた。言われた言葉を咀嚼して考える。でえと。でーと……デート?
 
「そ。デート!」 

 ニッと笑った顔が眩しすぎて、ドクンと大きく心臓が波打った。


 



 ──ガシャン!
 
「名前ちゃん! 大丈夫?!」

 床に落ちた皿が大きな音を立てて砕け散った。すぐあとに聞こえてきた声にビクリと肩を揺らした名前は、自分のしでかしたことに青褪める。
  
「す、すみません! 私ってば……」
「大丈夫。まだなにも盛り付けてないから被害も少ないし。それより怪我してない?」
「……はい」 

 いつだか清田に抜けていると言われたことがあるがそれどころの騒ぎではない。オーダーミスから始まり、配膳する席を間違えたり、溢れているのも気付かず延々と注ぎ続けコーヒーの海を作ったり。今日やらかしてしまった数々のミスを思い返し名前は頭を抱えた。あまりにも酷すぎる。
 先日清田にデートに誘われてからずっとこの調子である。どうしてなのか自分でも分からない。突然頭の中に清田が現れて、その彼がニッと笑うとバクバクと心臓が煽る。そしてその度になにかやらかして盛大に凹む。
 あぁ、また出てきた。もう止めて……!
  
「名前ちゃん顔赤いよ」
「こ、これは違うんです!」

 なんだか私の体おかしくなっちゃったんです。急に信長くんが頭の中に出てきて、そしたら心臓が操作出来ないくらいドキドキしちゃってどうにもならないんです。……なんて言ったらどんな反応が返ってくるだろう。本当に頭がおかしくなったと思われてしまうかもしれない。熱くなった顔を隠すように頬を包めば、店長の冷たい手がぺたりとおでこに触れた。
 
「ちょっと熱っぽいわね」

 ……あれ。ほわほわして熱いのはもしかしたら熱があるせいなのかな。そう言われてしまうと途端にドッと体が重怠く感じてくる。

「今日はもうあがっていいよ。早く帰って休んだほうが良いわ」 
「でも、今日は……」 
「彼が来る日だったわね。早退したって伝えとくから、安心して帰りなさい」
 
 今日は3日ぶりの遅番。清田が迎えに来てくれる日だ。せっかく来てくれるのに先に帰っていいのだろうか。だけど知らせたくとも連絡先も彼の学校の場所もよく知らない。
 後ろ髪ひかれつつも店長に急かされてキッチン裏の更衣室へ入る。ロッカーの鏡に映った自分の赤い顔が眉を下げて寂しそうにしていることに気付かないふりして名前はバッグを手に取った。



 最寄りの駅に着いた頃には店が終わる時刻になっていた。帰宅ラッシュの人の波に押し出されるように改札を出て一つ息を吐く。こんなんなら信長くんが来るまで待たせてもらったほうが良かったかも。ふとそんな思いが過ぎり頭を振る。いやいや、彼に風邪を移してしまったら大変だ。
 タクシーに乗るか否か一瞬迷ったが名前はそのまま家へ向けて歩き出した。雨が降っているわけでもないのに勿体ない。近いとは言え自分にとってはタクシー料金は大金である。少しふらつくけれど、ゆっくり歩いても20分くらい。大した距離ではない。
 
 
「名前ちゃん」

 10分ほど歩き家から一番近いコンビニがある通りを曲がったとき。外灯も少なく大きなマンションが立っているのもあり、コンビニからの光も遮断された薄暗い道に入った瞬間、掛けられた声に名前は立ち止まった。
 
「信長くん……?」

 もしかしたら店に行った彼が急いで追いかけて来てくれたのかもしれない。そう思い振り向いた先には清田ではない別の男が立っていた。
  
「久しぶり。今日は一人だね」
「あ……えと。……こんばんは」
 
 立っていたのはしつこく声をかけてきた例の客だった。挨拶こそ返してみたものの、恐怖で震える足はじりじりと後退りする。だってこの人がここにいること自体がおかしい。
 なんで私の家の近くにいるのか。たまたま家が近くて偶然通りがかった? ……そんなまさか。それならどうして最近信長くんと帰ってたことまで知っているの。
 
「この辺家、近いんでしょう。今日は俺が送ってあげるよ」 
「や、……やめて…………っ!」

 掴まれてしまった手首を解こうと体を捻った名前はバランスを崩しその場に倒れ込んでしまった。そのせいでその男に覆いかぶさられる形になってしまう。なんとか逃げ出そうと必死に藻掻くが熱があるせいか体に力が入らない。
 間近に感じる息遣いと自分を呼ぶ声がおぞましい。嫌だ、助けて。誰か──!
 
 
「名前!!」


 聞き覚えのある大きな声が届いた刹那、体にのしかかっていた重みが消えた。見ればそこには間違いなく本物の清田が立っていて、呆然とする名前の手を取って走り出した。

「辛いかもだけど暫く我慢な!」

 引っ張られるように名前は清田の後を追い走る。後ろを振り向けばさっきの男がうずくまっていた。なにが起きたのか。なぜ清田がいるのか。理解の追いつかない頭を必死に動かしながら自分の手を引き走る清田を見上げる。
 ここまで走ってきたのか彼の額には既に汗が滲んでいる。その上、Tシャツを腕まくりして大きく露出した上腕部には今しがた出来たような傷があるではないか。
 
「信長くん、腕……!」
「あぁ、アイツに体当たりしたときかな」

 ぞわっと一気に背筋が凍りついていく気がした。もしかしたらさっきの出来事よりもずっと怖いかもしれない。
 名前の家のすぐ傍まで来ると清田は周りを慎重に確認してから住宅と住宅の間に隠れ大きく息を吐いた。

「ごめんなさい。私のせいで」
「擦り剥いただけだし大丈夫。名前ちゃんのせいじゃねーよ」

 そんなことはない。バスケ選手の腕を怪我させてしまうなんて大変なことだ。僅かに血が滲んでいるそこにハンカチを押し当てた名前は我慢できずに咽び泣く。たらればだけれど、もしもああしていたらと思うことが幾つもあった。自分がもう少し考えて動いていたら彼は怪我せずに済んだかもしれないのに。

「大丈夫だから。落ち着いて、深呼吸して」

 トントンと清田が名前の背中を撫でる。あがった息を整えるように。しゃくり上げる背中を静めるように。いつも元気な彼の穏やかな声色にピンと張った糸が少しずつ解かれていく。
 
「大丈夫」

 優しく私を撫でてくれる手と少し早い鼓動の中に、ずっと包まれていたいと思った。

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