02.恋の予感
「それは随分中途半端なことしたね」
先輩のストレートな物言いに眉根に力が入る。心外だ、とまでは思わないが、褒められこそすれまさかそんな言葉が返ってくるとは思わなかった。
昨日、傘もささずに雨の中に飛び込んだ清田は当然のことながら帰宅早々親の雷を喰らった。本当だったら出来立てのハンバーグとグラタンにありつけるはずだったが、ずぶ濡れの清田は風呂場へ押し込まれた。風呂からあがった清田は夕飯を食べながら延々と親の小言を聞くことになってしまった。全国大会を戦い抜いてきた息子への労いの言葉などゼロである。
とは言え、母親の気持も分からなくはない。持たせた傘を貸してしまった、までは理解できるが、なぜ雨に突っ込んで帰ってくるのか。それこそバスを待つなり迎えを呼ぶなり方法があっただろうに。
そんなわけで清田としてはインターハイも頑張ってきて、おまけに良いことをして帰って来たと胸を張りたいところだったが肩透かしをくらったわけだ。それならばと翌日、部室へ飛び込んだ清田は神を捕まえて一部始終を話した。うんうんと頷きながら話を聞いていた神が放った台詞が冒頭のものである。
「なんですっか。俺、落としもん届けて傘まで貸したのに」
「そこまでして連絡先も聞いてないんだろ」
「それじゃただのナンパじゃないすか。俺そんなつもりで助けたわけじゃないっすよ」
正直に言ってしまえば、彼女と話しながら何度かその考えは過った。しかしそれをしてしまえば全部嘘くさくなってしまう気がした。清田からしたら本当にただの親切心であってそれをナンパの手口なんかにしたくはなかったのだ。
「今頃、初めて会ったヤツの傘押し付けられて困ってるんじゃないの。返したくても返せないんだから」
はっ、と息を呑んだ清田の思考が一瞬止まる。そういえば彼女最初困ってなかったか? 自分は良いことをしたつもりだったけど、果たして彼女の気持ちは考えただろうか。神さんが言うように今頃途方に暮れているかもしれない。
神の言わんとしていたことをようやく理解した清田は大袈裟に頭を抱えた。
「……俺、もしかしてやらかしてます?」
「そこまでじゃないけど、傘はもう二度と返ってこないだろうね」
「それはそれで困るかも」
「そもそも返ってくると思ってたのか」
なんでか知らないが、不思議とまた会えるような気がしていた。初めて会ったのにそんな気がしなかったからか、単に清田が深く考えていなかっただけか。
傘が返ってこないなんて言ったらまた怒られちまう。いや、それよりももう会えないかもしれないのか。今さら理解した現実に急に身体が冷えてくる。可愛い子だったよな、話もすっげー合ったし向こうだって楽しそうにしてたし。
たった1日、それどころか一時間にも満たない僅かな時だったのに、こんなにも寂しく感じてしまうものなのだろうか。冷えた身体はブルッと身震いして大きなくしゃみを吐き出した。──あれ、なんかおかしい。
「……もしかして風邪?」
「まさか。この清田信長が風邪なんかひくわけ……ひっくし!」
続けざまにくしゃみをする清田のおでこに神の手が触れる。いやいや、大丈夫だろ。雨ん中帰ることなんて今までいくらだってあったしそんなんでいちいち風邪引かねーよ。とは思いながらも、じわじわ険しくなっていく神の表情に嫌な予感が助長する。
「牧さん。信長、体調不良で早退します」
「えっ?! 待って待って! マジで大丈夫ですって!!」
「周りに移されても困るから。今日は引き継ぎがメインだし、まともな練習もないから安心しなよ」
「それだって大事じゃないですか!! 俺、宮さん達に挨拶したいっす!」
インターハイを一つの区切りとして、牧など主力メンバーを除いた三年の殆どが引退することが決まっていた。今日はその引き継ぎや挨拶、今後の方針などの話し合いが主である。まもなくお盆休みに入るし神としては後輩の体調が悪化しないうちに帰ったほうが良いという配慮だろうが、清田としてもそうはいかない。今日挨拶できなければ最低でも夏休みが終わるまで彼らに会えないのだ。牧の方に手をあげた神の腕にしがみついてどうにか早退宣告を拒否したい。
「……ですって、牧さん。どうします?」
かくしてその判断は海南バスケ部キャプテンに委ねられた。
*
「やべーな、さみぃ……」
太陽は燦々と照りつけているのに体感温度はまるで真反対だ。車内の冷房が今日は地獄のようだったし、あの横揺れが頭痛を悪化させる気がする。清田はぶつぶつと文句を言いながら電車から降りて改札へ続く階段をのぼる。確かに早く帰って正解だったかもしんねぇ。
結論から言えば、帰りたくないという清田の意見が通ることはなかった。しかし牧の判断で清田は先輩たちに簡単な挨拶をする場を与えられた。部員の皆で大々的にとはいかなかったが、ひとまず先輩たちに感謝の気持ちを伝えられたことで清田も素直に帰る気になれた。
そうして来た道を引き返して現在に至る。電車に揺られているうちに体調はみるみる悪化していた。とぼとぼ歩いていれば今日も列の最後尾。ぼんやり見上げた階段の先がぼやけて見える。
昨日はここでキーホルダーがガチャガチャついたポーチが落ちてきた。前にいたのはオレンジの花の飾りが付いたかごバッグを持ってて、白いコットンワンピースに茶髪の内巻きカールの女の人。その背中を慌てて追いかけて、波をかき分けるようにして改札を飛び出した。──そして、捕まえた背中が振り向くと……。
「……あ!」
そうそう、ポーチ渡したらこんな顔で笑ったんだ。すっげー愛想よくて、俺の言葉に目丸くしたりケラケラ笑ったりころろ表情が変わる。改札前の時計の下に見える彼女の幻は清田にぱたぱたと手を振る。
熱あるとは言えこんなもん見えるってヤバくねーか? なんか声まで聞こえるし。
「おーい、聞こえてる?」
手をひらひらとさせながら近づいててきた彼女は不思議そうに清田の瞳を覗き込んだ。これは幻ではない。
「……うえっ、ホンモノ?!」
自分の問いに何拍子か遅れて飛び上がった清田を見てケラケラと笑った。
「良かったぁ、会えて。ここが最寄り駅だってことくらいしか分からなかったから」
「え、いつからここいんの? もしかしてずっと待ってくれてた?」
「一時間ちょっとね。今日も部活だったら電車使うかなと思ったんだけど、時間もよく分からないしとりあえずバイト前に早く出てきたんだ」
……部活、バイト。熱くてうまく働かない頭の中で言葉を咀嚼しながら神の言っていたことを思いだす。──今頃、初めて会ったヤツの傘押し付けられて困ってるんじゃないの。
最悪だ。なにがヒーローだ。自分がいい格好して困らせただけじゃねーか。
「ごめん。ずっと待たせちまって」
「別にいいよ。てか、お礼言いたいの私なんだし謝らないで」
すごーく助かったよ、ありがとね。そう言って彼女が微笑むと、胸の辺りがきゅうきゅうと震えた気がした。これはヤバイ、可愛すぎる。てゆーか俺、脈速すぎねーか? あついのは熱のせいだよな。……いや、さっき寒いって言ってなかったか俺。
どうにも煩い心臓と心の声。自分の身体の異変が熱のせいなのかトキメキのせいなのか判別がつかない。あついと思っていたら今度は突然ブルッと身体が震えてくしゃみが飛び出した。いよいよヤバイかもしれない。
「風邪引いちゃった?」
「いや、ちげーし。か、花粉症ってやつだろ」
そんなものなったことはないが、間違ってでも「そうだ」とは言えやしない。雨に濡れたせいで風邪引いたなんて格好悪すぎるし彼女も気を使ってしまう。
しかし清田のそんな考えなんてお見通しのようだ。
「もう、雨の中帰るからだよ。全国大会のあとで良かったね」
眉を下げた彼女から手渡された折りたたみ傘。昨日の今日なのに綺麗に乾かして畳んである。
「一緒に帰ればよかったよね。そうしたら二人とも濡れずに済んだでしょ」
「一緒に……」
言われた言葉をただリピートしながら考える。それってアリなのか? 初めて会って一緒に帰るって。神さん、こっちのアリは脈があるほうのアリ? 俺、ここでいかなきゃダメですよね?
心の中が煩すぎるのはさて置き、ここでなにかアクションを起こさなければきっと次のチャンスなどない。腕時計を見て「あ、」と呟いた彼女を引き止めるべく手を伸ばす。ストレートに連絡先を聞けばいいのか、それとも先に名前を聞くべきか。あれやこれやと必死に言葉を探していた清田が掴んだのは彼女の手ではなく1枚の紙切れだった。
「サン、ふらわー……カフェ?」
「ここ私のバイト先。良かったら時間あるときに来て。それに私のシフト書いてあるから」
手を振りながら改札の向こうへ消えていった彼女をぼんやり見送った清田はポツリと彼女が残した言葉を呟く。
「良かったら、来てって……言ったよな」
連絡先を聞くどころかなにも言えないまま終わってしまった。だけど彼女は間違いなくこう言った。バイト先に来てって。
次がある、また会える。そう思えば今にも飛び上がり出したい気分だった。実際風邪なんか引いていなければ人目も憚らずそうしていただろう。
──じゃあね、信長くん!
「そういえば、なんで名前……」
手元に残った折りたたみ傘とリーフレット。傘のネーム部分に記名されていた自分の名前をなぞり、そわそわ落ち着かない胸に手を当てる。
ドクドクと脈打つ心臓は彼女を思い出せばきゅうっと締め付けられるように震えるのだ。これは熱のせいなんかじゃねえ。今度ははっきりと分った。