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10.変わらない瞳


 気付けば頬を伝っていた涙を手で拭い、下で整列をする選手たちを見る。上手く言葉が見つからないけど、全てが想像以上で、バスケを遠ざけていたことを後悔してしまうほど胸を打つ戦いだった。
 

「「ありがとうございました!!」」

 居ても立っても居られなくて、選手たちの挨拶が聞こえるのと同時に席から立ち上がった。大きく会場内に響く拍手や歓声を後ろに聞きながら走り出した私は、選手たちが出てくるだろう出入り口を目指した。

 
「あ、あの……、清田くん……!」

 勢いよく走ってきたくせに、コートから出て来た迫力のある部員たちの背中に尻込みした私はおずおずと声を掛けた。いくつか振り向いてくれた顔は、大量の汗をかいているのに疲労感を感じさせない。流石強豪は違うな、なんて自分の学校なのに今更凄さを実感してしまう。
 その中の一人が私に気付くと大袈裟にぴょんぴょんと飛び跳ねた。

「名前さん! 見ててくれましたか、俺のこと!」

 此方にブンブン振ってくれている手が喜んでいるワンちゃんの尻尾のように見えてしまう、というのは失礼だろうから黙っていよう。相変わらず可愛らしい弟みたいな後輩の手を掴まえて、絆創膏を取り出した私は血が滲んでいる清田くんの指にそれを貼りつけた。

「……あ、ありがとうございます」

 相手チームの14番に手を見せているのを見なければとても気付かなかっただろう。絆創膏の巻かれた指を見て目を瞠っていた清田くんは照れ臭そうに頬を掻いた。

「お疲れ様。カッコ良かったよ、清田くん」

 普段、と言うほど彼のことを知らないけれど、音楽室に遊びに来ているときの元気で可愛らしい清田くんとは違う一面を見た。本当に心から思った気持ちを聞いた清田くんは、わなわなと震えたのち、何やら大きな声で叫んで拳を高く突きあげた。今は今でさっきの試合のときの雰囲気を微塵も感じさせないのだから彼は本当に面白い子だと思う。

「相手チームも強かったね、私ドキドキしちゃったよ。本当に良い試合だった」
「そんなことないっすよ。通過点っす、俺らにとっちゃ」

 相手のチームのことを褒めたからか清田くんは思い切り口を尖らせた。なんだかんだ言って戦った本人たちがそ一番良く分かっているはずだけれど。

「あ、それじゃあ邪魔しちゃいけないし、私行くね」
「はいっ! ありがとうございます! また音楽室で!」

 試合直後の選手をいつまでも引き留めて置くわけにはいかない。清田くんと分かれた私は会場の外へと向かった。 



 外へ出るとすぐ、カッと照り付けてきた日差しから思わず顔をそらした。まだ夏本番前だけれど、この日差しも感じる暑さも夏のそれに殆ど変わりなく思える。
 日差しを避けるように手を翳せば、後ろから歩いてきたらしい人の影が私を覆った。眩しさを遮る日陰ができたことに少しありがたさを感じつつ、随分と背の高い影だなぁと地面に出来た影をぼんやりと見つめた。

 ──そんな刹那だった。
 
「……っ?」

 突然後ろから伸びてきた手が私の手首を掴んだのだ。

 弾かれるように振り向いた私の目には、その当人の顔はすぐには映らなかった。目線の先にあったのはぶ厚い胸板。ぞわりと震えだした心臓は、見上げなくても誰であるのか疾うに気付いていたのかもしれない。

「あだな……?」
「あ……きらく……」

 低い声の響きと見上げたときの目線の高さは以前とは違う。彼がこんなところにいるわけがない。幻……いや、人違いではないか。
 目の前にある現実が俄には信じられなくて、呆然と高い位置にある瞳を見上げた。以前と変わらない優しくて底が見えない瞳は、それが間違いなく現実であると知らせているようだった。なによりも、あの呼び方で私を呼ぶ人は彼一人しかいないのだ。

「悪ぃ。似てる人いるなと思ったら反射的に」
「……あ、うん……」

 手首を掴んでいた手をパッと離した彼は柔和な笑みを見せた。一方の私は、それにどう反応すべきなのか分からず顔を強張らせていた。
 だってまた会うことなんて想像していなかった。中2の秋、結局引っ越すことを言えなかったあの涙の日が最後。その笑みに素直に笑い返すことなんて出来るわけがない。私は間違いなく、あのときの彼を自分勝手に傷つけてしまったのだから。

「こっちに引っ越してたんだな」
「……うん」
「あだながこんなところにいると思わなかったよ。誰かの応援?」
「……えっと。と、友達」
「ふーん?」

 一度会場の方へ振り返った彰くんはなにか考えるように私を見た。

「女子……の試合は、やってないよな今日。海南と湘北どっち観に来たの」
「海南。……私、海南に通ってるから」
「へえ」

 微笑んだままの視線が居心地悪い。怒ってくれればいいのに肝心な台詞は一向に飛んでこない。見上げることが出来なくなって伏せてしまった視界の端に伸びてきた彼の手が映った。
  
「応援来たってことは少なくとも試合出たヤツだよな、あだなの友達って」
「……さあ。それはどうかしら」
「牧さんに高砂さん、武藤さん……友達っていうなら先輩じゃねーか。じゃあ神?」
「彰くんには関係ないでしょう」

 私の髪の毛先を掬って触っていた彼の手を押し戻してそう言うと、目を丸くしていた彰くんは突然笑いだした。

「うん。その感じ、凄えあだなっぽい」

 いつか言われたような台詞に熱が込み上げてくる。なんでこの人はこんなに平然としているんだろう。あのときのことはどう考えても私が悪いのに、責任転嫁して彼を責めたくなってしまう。
 だけど一方で私は安堵していた。彰くんが怒ってなくてよかった。以前みたいに話してくれてよかった。本当のところは彼がなにを考えているかなんて分からないけど、昔と変わらない彰くんの笑顔が見れたことに何よりもホッとしたのだ。

「彰くん、相変わらずだね」
「そう?」
「……うん。背も伸びたし大人っぽくなったけど、雰囲気は全然変わらない」

 なんか髪の毛をツンツンに立てちゃってちょっとしたイメージチェンジはしているけど、優しく穏やかでのんびりした空気も私を見る瞳もなにも変わってない。あの頃にタイムスリップしたんじゃないかって勘違いしてしまいそうなほど。お父さんの転勤の話を聞く前の時間に……。 
 再び私の髪の毛を掬い始めた彰くんの目を見た私の心臓は激しく伸縮し始めた。何故って、その瞳の色が甘やかなものに変わったような気がしたから。私の髪を撫でて、頬に触れて、キスをする前みたいな私を見下ろす瞳。

「あだなは綺麗になったな。前から綺麗だったけど」

 まるでそれが現実になるかのように彰くんは掬っていた髪から手を離し、ちょんと頬に触れる。私の口元を見ている気がする彼の視線から逃れようと顔をそらしたけれど、頬のところにあった手に阻まれて大して動くことはなかった。

「……やめて。変なこと言って誂わないで」
「誂ってねーよ」
「……誂ってる……わ「いてっ!」」

 本当にキスをするのではないか。そんな空気を出していた彰くんの体が突如揺れ、彼は驚いたように悲鳴を上げた。何が起きたのかと彼の後ろへ目をやると、彰くんの背後に二人の人影があった。彰くんよりもずっと大きな人と、髪の毛をセンターで分けた清田くんくらいの身長の人だ。彰くんがお尻を撫でているのは、どうやらセンター分けの人がキックしたのが原因のようだ。

「うちの部員が失礼をした」
「なに堂々とナンパしてんだテメーは!」

 静かに深々と私に頭を下げた大きな人と、湯気をあげんばかりの勢いで彰くんに怒っているセンター分けの人はなんとも対象的だった。呆気に取られて何も言えないままポカンと口を開けていると、彰くんは引き摺られるように2人に連れて行かれてしまった。

「またな、あだな」

 呑気にひらひらと手を振る柔らかな笑顔と、ついさっき見た甘やかな瞳がダブってまた心臓が大きく跳ねた。

 
 どうして神様は私たちをまた引き合わせたのだろう。

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