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09.新しい出会いと思い出と


 
 私を見つめる優しく瞳に甘やかな熱が籠もる。その目がなにを示しているのか、ほんの数ヶ月で熟知してしまった私は自然と目を瞑るようになっていた。そうすれば間もなく私の唇に彼のそれが優しく重なるのだ。
 そのまま触れるだけのキスで終わることもあれば、全部食べられてしまうのではと思うくらい濃厚なときもある。けれど唇が離れれば、私を見下ろしている瞳はいつも変わらず柔らかで優しかった。
 



 ぱちりと開いた目をこすりベッドから抜け起きてカーテンへと手を掛けた。静かにそれを開けていくと注いできた眩しい光のおかげでぼんやりとしていた頭が少しずつ冴えてくる。夢を見ていた気がするけれど寝起きの頭はそれを記憶してはいなかった。
 もう一度ごしごしと目を擦り、くるりと振り返るとマンション住まいのときよりも若干広くなった私の部屋が目に映る。家具はどれも東京から持ってきたものばかり。小さいときに背比べに使ってた痕の残るタンスや、いつも使ってたクッションや、否が応でも幼馴染を思い出させるそれらを見ても涙が滲まなくなったのはつい最近のことだ。

「名前ー起きてるの? ご飯出来てるわよー!」
「はーい。今行く」

 階段の下から届いたお母さんへ返事を返した私は、アップライトピアノの上に置いた写真立てを撫でて部屋を出た。彼と別れたあの日から、二年と八ヶ月の月日が経過していた。
  
 お父さんの転勤で私は東京から神奈川へと引っ越した。中学2年の秋という微妙な時期ではあったけれど、こちらの中学でも友人ができ、神奈川の生活にも少しずつ慣れていくことかできた。そして迎えた高校受験。私はお母さんの強い希望で海南大附属高校の特進科を受験し、無事に入学することが叶った。それから一年。進級し、二年生になった6月のこと──。


 廊下の奥から小さく響いてくる足音に口元が緩む。部活動に所属しなかった私は、合唱部に所属しているクラスメイトに誘われて偶に伴奏のお手伝いをしている。そのお手伝いをした日は残ってピアノの練習をするのが一年の頃からお決まりだった。家にピアノはあるけれど、思い出が詰まったあのピアノよりも学校で弾く方が捗るし単純に気が紛れるから。
 小さかった足音が段々と近くなってくる。バタバタと煩いその足音が誰のものであるかは明白だった。

「名前さんっ!」

 勢いよく音楽室のドアを開けて入って来たのは一年後輩のバスケ部の子だ。

「いらっしゃい。今日も来たの、清田くん」

 演奏を止めてそう言うと、彼は分かりやすく顔を曇らせた。

「すんません。もしかして迷惑っすか」
「そういうわけじゃないよ。部活後に毎日来るの、大変じゃない?」
「全然。名前さんに会えればむしろ元気になるし」

 何の迷いもないストレートな言葉にほんの少しだけ心臓が疼く。
 清田くんはちょっと前に偶々ここに通りがかって私の演奏を聞いて以来、足繁くという言い方に違わぬくらい本当によくここに来ている。彼曰く、私のピアノが素敵でまた聴きたいからということらしいけど、そこから隠しきれない好意がひしひしと伝わってくる。それに欠片も嫌悪感を感じなくて、寧ろ微笑ましいなんて思えるのだから、清田くんて不思議な子だな、なんて思うのだ。

「清田くんて、面白いよね」
「そっすか?」
「うん。清田くんみたいな弟がいたら楽しいだろうな」
「お、弟……?」

 年下だというのもあるだろうけど、突然可愛らしい弟が出来て懐かれたみたいな感じがする。特に考えもなしにそれを伝えると清田くんはあからさまに動揺していた。これは言っちゃいけない言葉だったかもしれない。

「今日もなにか弾く? あんまり時間ないけど」
「お願いします! この前弾いてたやつ!」

 コクンと頷いて指を鍵盤に乗せる。ピアノのすぐ近くに清田くんが座ったのを見て演奏を始めると音楽室中にピアノの音が広がっていった。
 彼が言う"この前弾いてたやつ"というのは「あなたに最高のしあわせを」という曲で、私の兄の結婚式に弾いた曲でもある。偶々これを弾いていた日に清田くんが通りがかって……、以来この曲ばかりリクエストされているのだ。けれどこれを弾くと思い出すのは、兄の結婚式ではなくて練習で散々幼馴染に聴いてもらったことだ。

 ──あだなは家族よりももっと大事だよ
 
 突如頭の中に響いたのは、これを最後に東京で弾いたときの幼馴染の言葉だった。
 
「……どうしたんすか、」
「ごめん。なんか今日は調子悪いみたい」
「そっすか? めちゃくちゃ上手でしたけど」

 演奏途中で指を止めた私に清田くんが不思議そうに首を傾げていた。震えてしまった指は暫くは演奏を再開出来そうにない。

「ね、今日は最終下校時刻までお喋りにしない?」
 
 ぎゅっと締め付けられた胸の痛みを隠して微笑むと、清田くんはパッと顔を綻ばせた。


「名前さん中学んときも部活入ってなかったんですか」
「うんう、中学の頃は茶道部に入ってたよ」
「凄え。めっちゃ女の子って感じする」
「なにそれ」

 くすくすと笑うと清田くんは照れ臭そうに頭を掻いた。ピアノ椅子に座ったままのほんの束の間のお喋りは、こんな風に清田くんからの質問が絶えず投げかけられてくるから本当にあっという間に感じられた。

「あ、そろそろお開きかな。もうすぐ門が閉まっちゃう」

 壁時計を見上げながら立ち上がると、清田くんは慌てて「もう一コだけ!」と人差し指を立てた。鞄を手に持ったままもう一度ピアノ椅子に腰を掛けると、清田くんは大袈裟に咳払いをしてから話し始めた。

「あの、出来れば……今度試合観に来て欲しいんすけど」
「あぁ。そういえばインターハイ予選始まってるもんね。海南はシードだっけ」
「詳しいっすね。もしかしてバスケ好きなんですか」
「うん、ちょっとね」

 ちょっぴり言いにくそうな雰囲気だったから拍子抜けしつつも、ついぽろっと出てしまった言葉をやんわりと濁した。バスケしてた幼馴染がいたなんて言ったらとんでもない質問攻めが始まりそうな気がするもの。
 けれど清田くんからしてみれば、そこはスルー出来る言葉ではなかったみたい。目をきらきら輝かせて此方を見ていたから。

「名前さんもバスケやってたとか? あ、でも茶道部だったんですよね。女バスがなくて茶道部に入ったってことっすか」
「まさか。私、運動はあんまり得意じゃないの」
「え、でも文武両道だって神さんから聞きましたよ」
「なあに、それ。どこからそんな情報が回るの」
「知らないっすけど。有名人みたいっすよ、名前さん」

 清田くんの思わぬ言葉に私は顔を顰めた。一学年に一クラスしかない特進科の私が有名人になる要素が見当たらない。けれど清田くんが言うには、普通科のバスケ部の先輩たちも私のことを知っていると言うのだ。私はその人たちの名前すら知らないのに。狐につままれたような気持ちになりながらも、さっきの話題から話が反れてちょっとホッとしたりもしていた。 

「それはそうと、お願いします! 試合、今度の日曜から決勝なんです!」

 清田くんは思い出したかのように手をパンと合わせた。見るからに必死のお願いに気持ちが揺らいでくる。

「うーん。どうしようかな」
「バスケ好きならぜってー楽しいから! 海南のバスケは一味違うってところを見てくださいよ!」

 バスケは好きだ。それはやっぱり幼馴染がやっているのを見ていたからだと思う。……けれど、あれからずっとバスケのことは自分から遠ざけていた。見れば思い出してしまうし聞けば考えてしまうから。
 ……だけど、もうそろそろ良いかもしれない。

「わかった。それなら……」

 私の返事を聞いた清田くんは「よっしゃあ!」と大きな声を出して飛び上がった。

 今にして思えば、清田くんと出会ったこともなにかの巡り合わせのような気がしている。彼と別れて、止まってしまった時間がゆるりと再び動き始めた。

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