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08.言えなかったさようなら


 
 インターホンを押すと出てきてくれた優しげな表情は、そっくりそのまま彼みたいで一瞬ドキリとしてしまった。

「いらっしゃい、名前ちゃん」
「これ、うちの母から。作り過ぎちゃったから良かったら食べて下さい」
「いつもありがとう。あの子も喜ぶわ」

 彰くんのお母さんに渡したタッパーには大量に作り過ぎた煮物のお裾分けが入っている。この如何にもなご近所付き合いは私が生まれる前からだから、優に14年は経過しているということだ。つまり、私たちの関係が親しいものになるのは自然な流れだったように思う。

「良かったら上がっていって」
「いえ、お気遣いなく」
「昨日までお父さんが出張に行っていて、お宅に持って行こうと思ってたお土産があるの。それを渡したいから、ね」

 お邪魔する予定はなかったけれど、せっかくのお誘いを断るのも申し訳けなくて、私はぺこりと頭を下げて「おじゃまします」とお宅へと上がった。おばさんに促されて座ったダイニングキッチンのチェアは彰くんのお父さんが私のために用意してくれたものだ。中学に上がり部活をするようになってからはここでご飯を頂くことは殆どなくなってしまったけど、いつでも来てと言わんばかりにここに置いておいてくれる優しさが嬉しくて目の奥がじわじわと熱くなってくる。

「名前ちゃんコーヒー飲めたっけ?」
「飲めますけど、本当にお気遣いなく。お忙しい時間でしょう」
「大丈夫よ、夕飯はもう作り終えてるから」

 言いながらてきぱきとキッチンを動いていたおばさんはあっという間にコーヒーを淹れて此方へ戻って来た。マグカップと小皿に入れたクッキーをテーブルに置いてくれたおばさんは、向かい側のチェアに座ると身長を計るみたいに手を出して目を細めた。

「つい最近までこーんなに小さかった気がしてたのにね。こんなに美人でしっかりした子になるなんて感慨深いな」
「そんなことは……」
「本当に自分の娘みたいな感覚だったから。……寂しくなるわね」

 彰くんそっくりの優しい目に涙が溜まっているの直視できなくて、少し目線をずらした私は出してくれたコーヒーに口をつける。口に含んだコーヒーが苦いのか甘いのかもよく分からなかった。もうすぐそばまで迫ってきている涙を押し留めておきたくて、熱々のコーヒーを涙ごとゴクンと飲み込んだ。
 
「彰くんは……」
「まだよ。予選が近いからかしらね、最近遅くまで練習があるみたい」

 聞きたかったこととは違う捉え方をしたおばさんの言葉に私は思わず壁に掛けてある時計を見上げた。最近部活で遅いのは知ってる。けれど、恐らくもうすぐ帰宅してきてもおかしくない時間帯だ。
 ならばそれまでに一つだけ。自分本位な願いなのは承知しているけれど、どうしてもお願いしたいことが私にはあった。

「彰くんには言わないで欲しいの」

 テーブルの上にあった手を握り合わせて、まるでお祈りでもするみたいにぎゅっと力を込める。おばさんが我が家の引っ越しを既に知っていたみたいに彰くんの耳に入っている可能性も考えたけれど、最近の彼を見る限りそんな様子はなかった。

「……引っ越しのことを? でも、それじゃあ……」
「お願いします。……どうしても、私から話したいの」

 視線を戻すと、驚きと哀しみが入り混じったような複雑な表情をしているおばさんと目が合った。飲み込んで奥へと追いやったはずの涙が今になって込み上げてくる。
 頬を伝う涙をそのままに、私はもう一度「お願いします」と頭を下げた。




 青々とした木々たちがほんのり色づき始めた。

 ひらひらと舞い落ちていく葉の向こうにいる人の背を見つめながら、開きかけていた口をぎゅっと引き結ぶ。のろのろと彼のあとをゆっくり歩けば、言葉が出なかった私の代わりに落ち葉がざくざくと小気味よい足音を鳴らしてくれた。私の遅い足取りに気付いた彼は、振り向くといつもそうしているように私へ手を伸ばす。

「最近元気ねえな、あだな」

 伸びてきた彼の手が私の手を包み込む。その手に導かれて一気に縮まった距離に、ドギマギしているのを隠すべく私は自分の爪先を見下ろした。
 あまりにも変化のない私たち。うんう、……"私"に、いい加減自分でもうんざりしている。

「……そんなことないよ」
「そう?」

 繋いだ手とは反対側の手で彰くんは私の髪を梳く。さらさらと優しく頭の上から下に落ちていく指は時折毛先を掬い、私がやるみたいにくるくると毛先を絡める。そうしながら彼が私をじっと見つめていることも見上げなくとも分かっていた。その瞳と目があってしまえば私の心内なんて全部見透かされてしまいそうで、顔を上げることができないまま彼には見えないだろう小さな笑みを返した。

「今日、テストあったでしょう」
「うちのクラスはなかった気ぃするけど」
「抜き打ちでね、小テストがあったの、うちのクラス。それがあんまり出来なくて」
「あだなが?」

 少しだけ持ち上げてみた視線にも彰くんの表情は映らない。言葉の調子とピタリと止まってしまった髪を梳く手から、目を丸くしているだろう彼の顔が想像出来た。

「もしかしてそれで元気ねーの」
「だって、もう少し出来ると思ってたんだもの」
「大丈夫だよ」

 再び髪を梳き始めた手が私に心地良さを与えてくれる。今度は毛先を掬わず、さらさらと流れていった手がポンポンとあやすように私の頭を撫でてくれた。

「あだなが出来てねーならみんなダメだったと思うぜ」
「そうかな」
「うん」

 ようやく見上げることの出来た私の瞳には、どこか安心したような彼の表情が映った。真実とは言い難いけれど、決して嘘でもない些細な日常の出来事。そんなものを言い訳にあげてしまえた狡賢い自分に少しだけ驚いて、心の底から軽蔑した。
 本当に言うべきことは喉元でずっと燻っている。言葉にしようと何度も試みたそれは、一度として口から出てくることなく二月半が経過してしまった。抱えた罪悪感はどんどん膨らんでいって、今にも弾け飛んでしまいそうなほど大きくなっていた。

「あだなと同じ高校は行けねーかな。成績が違い過ぎて」
「何言ってるのよ。それは彰くんが真面目に授業聞いてないからでしょ」
「そんなことねーよ。真面目に聞いてるんだけどなあ」
「とてもそうは思えないわ」

 授業中にぼんやりと窓の外を眺めている彰くんが見えた気がして緩んだ口元がじわじわと固く強張っていく。同じ高校や別々の進路。以前ならば私も当然考えていただろう東京での高校生活。それを私は経験することなくこの地を離れてしまうのだ。

「まぁでも、隣同士だしな。学校は離れてもいつでも会えるよ」
「……彰くんはきっと凄い名門校からスカウトくるから今よりもっと忙しくなるわね」
「はは、どうかな」

 髪の毛を滑っていく柔らかな熱を感じながら私は再び視線を落とす。
 今ならばまだ間に合う。ほんの少し口を開けて、「ごめんね」って切り出せばいい。けれどぎこちなく小さく開けた口から言葉は一欠片も出てはこない。ぶるぶると震えだした唇が漏らしたのは小さな小さな嗚咽だった。
 
「大丈夫だよ。学校が離れても、忙しくなっても、会えなくなることはねーんだから」
 
 髪を梳く手は私そのものを優しく包み込んだ。「大丈夫」穏やかで優しい声と、とんとんと背中を撫でる手が私をあやしてくれる。そんなことを言ってもらう資格も、好きになってもらう資格も、私にはないのに。


 大丈夫よ。きっと彼なら許してくれる。

 大丈夫よ。私なんかいなくたって。

 ずっとずっと傍にいたから。幼馴染だったから。だから私のことを好きになったのよ。彼はモテるしきっとすぐに彼女が出来るから。

 ……だから。


 言えなかった「さようなら」も導き出せなかった「好き」の気持ちも、全部心の奥にしまい込んだまま私は住み馴れた東京の地を離れた。

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