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07.別れのカウントダウン


「名前ちゃんと仙道くん、付き合ってるの?」
「──っ!」

 滑った指のせいで茶碗がひっくり返り、溢れたお茶が敷物の上を広がっていく。

「わ、大変!」
「すいません!」
「気にしないで、敷物の上だから畳も濡れてないし」

 どうにかすべく出しかけた手は先輩に制されて事なきを得た。水で冷ましてるとはいえ、お抹茶は高温だ。素手で触っていたら火傷をしていたかもしれない。
 毛氈代わりに敷いている安価なフェルト生地は見事に抹茶の緑色に染まってしまった。それをタオルで丁寧に拭いてくれている先輩は、困ったような笑みを見せた。

「そんなに慌てないで。変な意味で聞いたわけじゃないの。私が前に仙道くんのことで色々頼んだから気にしてるのかな」
「……いえ、そんなことは」
「だったら話して欲しかったな。仲の良い後輩に隠し事されたら悲しいよ」

 先輩と一緒に溢れたお抹茶を拭いていた手がぴたりと止まる。隠し事をしているつもりはないのだ。
 自分でも今の状況を上手く呑み込めていないのに、それを人に伝えるだなんてとてもじゃないけれど出来はしない。まして、彰くんのことを好きだと言っていた人に「告白されてキスまでされたんです」なんてノー天気に相談出来るだろうか。
 だけど止まったままの私の鈍い思考とは反対に、噂は瞬く間に広がっていった。"名字名前と仙道彰はやはり付き合っているらしい。"やはり、と言われるのが少々気になったが、兎に角その広がった噂の真相を確かめるべく先輩みたいに聞いてくる人が後を絶たない。「仙道くんと付き合ってるの?」この問いに以前はなんの躊躇もなく答えてた定型文を、私は返すことが出来なくなってしまった。

「分からないんです。私たち、付き合ってるのかどうか」

 分からない。なんて答えても誰も納得してはくれない。余計な質問が増えるだけで意味を成さないことは理解しているから、クラスメイトたちに聞かれたときは苦笑いを返すに留めていた。けれど先輩にはそんなことをしちゃダメだと言うことも理解していて、いまの自分の素直な気持ちを答えた。勿論彼女は目を丸くしたのち不思議そうに首を傾げたけれど。

「もう全校生徒が付き合ってると思ってるみたいよ?」
「好きとは言われましたけど。それ以上は特になにもないんです。……だから、」

 彰くんから付き合って欲しいという言葉を言われてはいない。たぶん聞かれても私は答えられないし、彼はそんな私のことを分かっている気がしてる。
 ……けど、いまの私たちは付き合っているのと変わらないくらい距離が近いのも事実だ。

「名前ちゃんは? 好きなんだよね、仙道くんのこと」

 キュッとタオルを握ると冷めかけのお抹茶の熱がじわりと伝わってくる。ごくんと唾液で潤した喉はからからなまま、次の言葉を出すのを躊躇っていた。僅かに口を開きかけると、ガラッと部室の戸を開く音が響いた。

「あだな」
「……彰くん。なんで?」
「なんでって、部活早く終わったから。帰ろうぜ、一緒に」

 突然現れた彰くんはキョトンと目を見開いた。今し方していた話を聞かれていないだろうことに内心ホッとしつつ隣にいる先輩の顔を見る。この状況自体が気まずいことに変わりはない。

「名前ちゃん、片付けはいいよ。私たちがやっておくから」
「いえ、でも……」
「いいから。せっかく迎えに来てくれたんだから、ほら」

 帰り支度してあった荷物を強引に押し付けられ背中をぐいぐいと押された私は、お礼を述べて一足早く彰くんと帰ることになった。



「茶道部には来ないで」

 学校を出て人気の少ない住宅街へ入ったとき、私が言った言葉に彰くんは目を丸くした。

「……なんで?」
「眞辺先輩がいるからよ。手紙貰ったの忘れたの?」
「覚えてるぜ。眞辺絵理香さんだろ」
「だったら尚更。気まずいでしょう、彰くんが来たら」
「そう?」

 私の言うことにピンとこないのか、眉を下げて首を竦めた彰くんはぽりぽりと頭を掻く。
 先輩がいまも彰くんを好きかどうかは分からないし、きっと彼女が私に腹を立てることもないと思う。けれど、好きだった人が態々私に会いに来るのを見て心穏やかいられるとも思えない。ならば来ないで欲しいと言う意見は私の独りよがりな考えではないはずだ。

「絵理香さんにはちゃんとお断りしたぜ、俺。あだなのことが好きだからって」

 先輩の手紙を彼に渡して2ヶ月は経っただろうか。その間一度も耳にしなかった言葉に、今度は私が目を見開いた。
 
「うそ、なにそれ」
「聞いてねえの」
「聞いてないよ!」

 返事をしていたことすら初耳で、それ以上に驚いたのは勿論その断り文句だ。彰くんが私のことが好きだと聞かされて、私からなにも報告がないまま付き合っているという噂を耳にした先輩はどんな気持ちだっただろう。一気に罪悪感が心の中に染み出していった。

「まさか今までの告白、全部そんなふうに断ってたの?」
「全部じゃねーけど。何回かはそうやって言ったかもな」
「かもってなに、なんで覚えてないの」
「だって凄えたくさんされるから覚えてられねーよ」
「覚えてなさいよ、勇気出して告白してくれてるんだから」

 少々きつめな口調はきっと八つ当たりのようなものだった。彰くんは先輩にきちんと告白の返事をしただけで、なにも悪くはないのだから。

「あだなは覚えてんの、自分の断り文句」
「覚えてるわよ。ごめんなさいって丁寧に断った上で、仙道くんとは付き合ってないし好きでもないって毎回のように言ってたから」
「はは。なにそれ、ひでーな」

 彰くんほどでないけど、中学に入ってから告白をされることが増えた。でも、告白してきてくれた人全てが例外なく私と彰くんの関係を幼馴染以上だと思っていて、それにうんざりしていた記憶はまだごく最近のものだ。
 ここ数ヶ月、告白を受けてはいないし彰くんもされたという噂は耳にしてない。言うまでもなく、私たちの距離が急速に縮まったことが原因だ。

「ちょっと傷付いちゃったかも、俺」
「……ごめんなさい」

 戯けた口振りで言ってみせたのは彼の優しさなのような気がする。少し下がった眉といつものように笑みを保った表情が少しだけ寂しそうに見えたのだ。
 素直にごめんなさいを伝えれば、彰くんは私の髪を梳かすように撫でた。するすると髪の毛を滑るそれが私の唇を捉えるのに時間はかからなかった。

「今は?」

 髪の毛を絡めた指がふに、と唇に触れる。答えを求めるようにちょんちょんとつつき、わなわなと震える私の唇を見ていつものようにふ、と小さく笑むのだ。

「今は好き? 俺のこと」
「それ、は……」

 答えの出てくる気配ない唇を触れていた指は顎を持ち上げ、泳がせていた視線を上に向けた。真っ直ぐに私を見つめる瞳と嫌でも視線が絡み合う。その目を見ればなにをするかもう分かるようになってしまった。

「……ま、待って」
「やだ」
 
 待てと言ってもキスがおりてくることも分かっていたし、彼も私が本気で拒まないことをきっと分かっている。
 極優しく触れたそれはすぐに離れて、私の耳元を擽るように囁いた。
 
「好きだよ」

 柔らかな声と吐息で、またぞわりと首筋が疼いた。離れてしまった熱を目で追えば、その口元は艷やかな笑みを浮かべていた。
 好きかどうかも答えられないのに、もう一度キスしたいと思うなんてどうかしてる。
  
 

 
「ただいま」

 玄関ドアを開けると、いつもは聞こえてくる調理音の代わりにパタパタと小走りするお母さんのスリッパの音がちかづいてきた。 

「あぁ、おかえりなさい。ちょっと話があるんだけど」
「どうしたの」

 滅多に動揺したりしないお母さんが慌てている。促されるようにリビングへと入れば、この時間にはまだ帰ってこないはずのお父さんの姿があった。

「お父さんの転勤が決まったの。こんな時期で申し訳ないけど、引っ越すことになったから」

 驚きの声すら出なくて、ぽかんと開いた口元に手をやればさっきの熱がじわりと蘇ってくる。

 ──好きだよ

 耳に残る言葉が木霊になって、小さく遠ざかっていった。

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