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06.捕らえられた蝶のように


 
 ──好きだよ、あだなが。


 耳にこびりついてしまったその声は、エコーがかかったように繰り返し頭の中で響いていた。
 好き。……誰が、誰を? 聞かずともその答えは彼が口にしてる。彰くんが、私のことを好き。……幼馴染としてでなく?
 そっと唇に指を運べば、ついさっきのことみたいに柔らかな感触が蘇ってくる。ただの幼馴染ならば、キスなんてするはずがない。

「……ごちそうさま」
「お粗末さま……って、あなた全然食べてないじゃない」
「お腹いっぱい」

 用意されたトーストを一口齧って終えた食事に手を合わせる。お皿に乗ってる目玉焼きもサラダもフルーツも、今はとてもじゃないけれど口に運べる心境ではない。
 制服に着替えてリボンタイを結んで、出し放しだった教科書を鞄に詰め込んで玄関に向かう。前日のうちに念入りに学校の準備を整えるというタスクは昨夜は実行できなかった。更に言えばどうやって帰ってきたかも曖昧だった。右手に残る別の指の温もりを感じながら、私は家のドアを開けた。

「──っ」

 息を呑んだのは、いつかみたいに大きな体が座り込んでいるのが見えたから。

「おはよ」

 あのときみたいに欠伸をして、にこりと笑みを作った彰くんは私を見上げた。

「あだな昨日ずっとぼんやりしてたからさ、気になってたんだよね」

 大丈夫? 続けて言われた言葉になにか返そうと、開いた口はパクパクと動くのみで声を一欠片も出しはしない。考えてみれば当然なのだ。私はちっとも大丈夫ではない。ひどく動揺しているし、彼とどう接するべきなのかも分からない。

「あ……の……、」

 昨日のは夢じゃないよね? 本当に私のこと、好きって言ったの? なんで、キス……したの? それはやっぱり言葉にはならず、小さく唇が動いただけ。
 
「ん、なに?」

 立ち上がった彰くんが私の頬に触れる。そこに手を添えたまま、小さく開いたり閉じたりする私の唇にちょんと指を乗せた。長い睫毛の影を作って私の唇を見つめる表情は、今にもキスをしようとしているように見えてくる。もう何十回目蘇ったかも分からない昨日のキスが再びリアルに頭に浮かぶのは最早仕方のないことだ。
 全身が熱くて堪らない。熱を持った体も顔も、真っ赤に染まっている気がする。柔らかさを堪能するみたいに私の唇をふにふにと触り続ける彰くんの指が更に私の感情を昂らせる。どうして、彰くんはなにもなかったような顔をしているんだろう。もう自分がなにを言おうとしていたかもすっかり分からなくなってしまった。機械みたいにぎこちなく首を振ると、柔かく弧を描いた口がふ、と小さく笑った。
  
「じゃあ行こうぜ、学校」

 離れていった彰くんの手は、すぐ私の手元へと舞い戻ってきた。ぎゅっと握られた手に従い、昨日の帰りみたく私はよろよろと彼の後ろを歩いて行くのだった。
 



「名前! アンタ、手繋いで仙道くんと登校したって…………どうしたの、」

 勢いよく教室の引き戸を開けて、いつかみたいに莉子が私の席に駆け寄ってきた。だけど今日はそれに答えられる気力はない。どうしてそんなことが朝から噂になってるの、とか、彰くんが勝手に握って離してくれなかったの、とか。いつも通りなら出てくる反論の言葉は一つも頭には出てこなかった。俯いて熱くなったままの頬を覆って、返事にもなってない「おはよう」を小さく莉子へ返した。
 
「なに、熱でもあるわけ」

 ぺたりと莉子の手が私のおでこに触れる。彼女の手がやたらと冷たく感じてしまうほど、私の顔は熱を持っているみたい。

「もしかして仙道くんとなにかあったの」
「……っ、ないよなにも!!!」

 眉を寄せてマジマジと私の顔を見つめていた莉子の言葉に私は勢いよく立ち上がった。今日一番の大きな声が出て、自分自身で驚いて口を押さえた。それをぽかんと口を開けて見ていた莉子はなにかを悟ったみたいにニヤリと笑う。それが「なにかあった」と言っているのと同義であることに、私は遅れて気付いて頭を抱えた。……だめ、私一体どうしちゃったんだろう。
 もしかしたら彼が私に対して幼馴染以上の感情を持っているかもしれない。薄くぼんやりとだけれど、そんな風に思い始めていた。だからってそれをどうにかしようとか、だったら嬉しいだとか具体的ななにかを考えていたわけではない。あんな風に一気に距離を詰められるだなんて想像もしてなかった。確かに彼は、私に一番近い男子で日々私を翻弄してくれる大きな存在だったに違いない。けれど、こんなにも頭の中を埋め尽くして制御不能なまでに私の心を乱すような存在ではなかったのに。

  
「あだな!」

 部活の帰り、昇降口で彼しか呼ばない名で呼ばれた私の肩はびくりと大きく跳ねた。

「なにしてんの、体育館まで来てって言っただろ」
「え……。そ、そうだっけ」

 あれから数日。私の心と頭の中は相変わらず彰くんで埋め尽くされていた。一方の彼は以前と変わらない。……うんう。一見変わらないけれど、ちょっと違う。前よりもずっと私に対する距離が近くなった。
 
「一緒に帰りてーから待っててって言ったぜ。最近あだなずっとぼんやりしてんな」

 それは他の誰でもなくあなたのせいよ。敢えて言葉にしなかったのは、認めたくないからかもしれない。
 彰くんのことでいっぱいでどうにかなってしまった私自身のこと。一方で私を好きと言った人は、そんなことすら見通しているみたいに前と同じように顔色一つ変えず私に接していること。
 そのくせ、私に触れる手はうんと優しくて、やたらと熱っぽい。こんな風に私の髪を撫でるのはよくあったけれど、滑り落ちてきたその手はすぐに頬や唇に触れる。ちょんちょんと優しくつついたり、形をなぞるようにつつつと彼の指が私の唇の上を動く。そんなときに私を見る目はこの前と一緒。長い睫毛の下にあるのは、熱を帯びてひどく扇情的な瞳なのだ。私の反応を見て、楽しんでいる気がする。
 どうして「好き」と言われた側の私がこんなにも心乱されているのか。それがどうにも悔しいのだ。彼の思うままに反応なんてしてやるもんか。そう思ってキュッと引き結んだ私の唇を見て、なぜか彰くんの方が口元を緩ませた。唇から離れた指は顎を掴んでクイ、と私の顔を上へ向かせた。
  
「やめて、こんなところで」
「ここじゃなかったらいい?」
「……よくな……っん、」

 されるだろう。予測ができていたキスは私の返事を待たずして降ってきた。唇同士がくっつくかくっつかないか程度にそっと触れてきたにも関わらず、私は避けることもせずに身を強張らせてそれを受け止めた。何度もそうして優しく触れてきた唇は、次第に長く、私の唇を食べてしまうみたいに深く密着してくる。
 息をするのも忘れてしまいそう。……既に忘れてるのかもしれない。段々と視界がボケて、体の芯が溶けていく気がする。気付けば靴箱へ押し付けられていた体はずるずると床に崩れ落ちていった。
  
「あだな可愛い」
「……っ」

 離れていった唇を心底名残惜しそうに見つめながら言った彰くんの言葉に、首の後ろがぞわりと疼いた気がした。

 張り巡らせた罠に絡め取られてしまった私は、もう身動きが取れなくなっていたのだ。

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