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03.優しい背中


 
 机の中を覗いた私は大きく一つ息を吐く。それを見て「また?」と小さく問いかけてきた莉子にコクリと頷けば、彼女はギュッと眉間に皺を寄せて教室の中を見渡した。

 私が困っているのを見て喜んでいる人がいるのなら、もうそろそろ出て来て欲しい。

「今度はなにが失くなったの」
「ペンケースとリップとか入れたポーチ」
「予備持ってる?」
「失くなって困るものは持ち歩いてるから大丈夫」

 戻ってくるときに机の横にかけた小さな手提げを見せれば、莉子は眉を下げた。こんな風に自衛しなくてはならないなんて馬鹿げているけど、困るのは自分なのだから仕方がない。
 上靴の砂から始まり、今回みたいに私物を隠されたり教科書を破られたり。体育や移動教室だったり、私が席を外しているときになにかしらの嫌がらせがされるようになった。 

「私、思うんだけどさ」

 前の席の莉子はもう一度ぐるっと教室中を見渡しながら声を潜める。私がいなくなるタイミングを見計らってこんなことが出来るのは恐らくクラスメイトに違いない、そう確信してアンテナを張り巡らせてくれているのだ。近くに信頼できる子がいるのは不幸中の幸いだと思う。

「仙道くんと距離おいたほうがいいんじゃない」
「…………十分おいてるつもりだけど」
 
 そんな莉子が放った台詞に心外とばかりに顔を顰めると、彼女は私に負けないくらいの溜息を吐いた。

「それ、誰にも伝わってないよ。せいぜい同小の子くらいじゃない? 仙道くん頻繁にうちのクラス来てるじゃん、名前に会いに」
「私は来ないでって口が酸っぱくなるくらい言ってるよ」
「まぁ、それが問題でもあるね」

 ポワンと頭の中に浮かんだ爽やかな笑顔に私は頭痛を催す。もしかしてそうかな、とは思っていたけれど。

「やっぱり、今回のって彰くん関連なのかな」
「名前が恨み買う理由ってそれ以外になくない?」

 そんなことないよ。と力説できるほどの材料はなく、私は大きく項垂れた。彼のいないところでまで彼に悩まされる生活には懲り懲りだ。それどころかこんな嫌がらせまで受けなくてはいけないなんて。
 嫌がらせ、というかこれは虐めだ。もちろん彼が悪いわけではないことは分かってる。だけど私が一体なにをしたというのか。「仙道くんが幼馴染なんて羨ましい」と目を輝かせていた子たちは、今こんな私を見ても羨ましいと言えるのか問いたい。変わってくれるのなら今すぐこの状況ごとまるっと変わってくれたらいいのに。
 


 
「あだないない?」
「さぁ。トイレかな」
「前の休み時間にもいなかったけど」
「女の子には色々あるのよ」
 
 莉子に門前払いを食らった彰くんは首を傾げながら自分のクラスの方へ戻って行った。近くの空き教室に身を潜めた私はその背中を見ながら胸を撫でる。これで良いんだ、と思う一方で良心が痛む。ある程度の距離感は必要だと思ってはいたけど、こんなことすることを望んでいたわけではないのだ。
 
 だけどこれで私の生活に平穏が訪れるのなら。 

 それだけを期待して、休み時間はすぐに教室を抜けて何処かで時間を潰した。登下校時にも会わないように、家や学校を出る時間をずらして。
 幼馴染と会わない日々を過ごすのはどれだけぶりだろう。もしかしたら生まれてからこのかた、こんなに会わなかったことはなかったかもしれない。
 静かで、だけど寂しくて、なにか物足りない。彰くんを避けることに徹して二週間。始まった虐めは止まることなく、今も続いている。
 
  


  
「あだな?」

 すっかり薄暗くなった昇降口で一人佇む私に声をかけてきたのは部活帰りの幼馴染だった。
 久しぶりに聞いた彼の声に安堵感を覚えたのは、やっぱり近しい間柄だからだろうか。話すのを誰かに見られたらマズイという気持ちよりも、今は彼が来てくれたことが有り難かった。
 
「部活今終わり?」
「うん、ちょっと前に」
「俺もさっき終わったとこ。てゆーか久しぶりだよな、あだなと会うの」
「……ん。そうね」
 
 靴箱を挟んでそんな会話をしながら上靴から靴へ履き替えた彰くんは、靴箱の前で微動だにしない私を見て首を傾げた。
 
「……靴は?」
「さぁ、知らない」

 ちょっぴり投げやりな私の答えに彰くんは目を瞠った。靴があるならとっくに履き替えて帰っている。だけどそうすることが出来なかったのは、本来あるべきはずのものが靴箱に入っていないからだ。
 
   


「いつから始まったの」 
「三週間くらい前。彰くんに先輩の手紙渡した次の日」
「担任には言った?」
「一応伝えてはいるけど、ホームルームで軽くクラスのみんなに注意して終わり」

 うーん、と首を捻った彰くんは「それはねーな」と珍しく苛立ちを孕んだ声を出した。それに少し救われた気がしたのは、正直この状態に参っていたからだと思う。
 こういうのってあんまり大袈裟に反応しないほうが良いと聞くから努めて冷静に受け止めるようにしていたけれど、毎日続けば心が荒んでくる。善悪を比べるまでもないのに、自分が全て悪い気がしてくるのだ。

「あだなはなんも悪くねーよ」
「──え?」
「あだなは真面目だから、色々考え過ぎて思い詰めちゃってねーかと思って」

 まるで私の心を読んでいたみたいな言葉に一瞬ドキリとしてしまった。そして、思っていた以上に落ち込んでいたらしい私の心にその言葉がスーッと染み込んでいった。お前は悪くない。私はそう誰かに言って欲しかったみたいだ。
 途端に鼻がツンとなって涙が滲んでくる。ずっと堰き止めていた感情が溢れ出すように。だめ。今泣いたら涙も拭えないのに。
 
「あだな」
「……なに」
「泣いてない?」
「泣いてないよ」
「ホントに?」
「本当に」

 鼻をぐすぐずさせながら涙声で言う言葉にはなんの説得力もないけれど、この涙が見られる心配はない。なぜなら私は彰くんに背負われているから。昇降口で揉めに揉めて、こうするしか帰る手立てがないだろという彼の言葉に最終的に私は頷くしかなかった。
 
「泣いてんならヨシヨシしたいんだけど、今できねーからさ」
「ご心配ありがとう。だけど大丈夫だからちゃんと前見て歩いて」
「その言い方、すげーあだなっぽい」
「失礼ね。ぽい、じゃなくて私だよ」
「そーなんだけどさ」

 なんだかよく分からない言葉に首を傾げつつ、安定感のある彼の背中にぺたりと頬をくっつける。おんぶしてもらったことは初めてではないけれど、昔は私一人を背負うのがやっとだったのに。自分と私の荷物、それに加えて私まで背負っていても今はフラつくこともないんだ。
   
「……重くない?」
「ぜーんぜん」
「ごめんね、部活帰りで疲れてるのに」
「大丈夫だよ。つーか、提案したの俺の方だし」

 「ありがとう」の言葉は素直に出てこなくて濁すように言った「ごめんね」だったけれど、たぶん気持ちは伝わった気がする。だって昔からの幼馴染だから。……って言うのは都合が良すぎると思うけれど。
 
 今日だけは随分大きくなったこの背中に、甘えるのを許して欲しい。

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