momentum+






02.Turbulent


 ──きっと不穏な空気はずっと私の足元に漂っていたのだと思う。
 


「──お願い!」
「それは……ちょっと、」

 両手を合わせて拝むように私を見上げるのは、同じ部の先輩だ。

「そういうの全部断ってますし、彼もいい顔はしないと思います」
「わかってるの、断られてもいい。どうしても一度だけチャンスが欲しいの」
「……でも」
「これっきりだからお願い! 名前ちゃんにしか頼めないから!」

 土下座でもしかねない先輩の勢いに私は頭を抱えこむ。部室に入った途端、私を屋上まで引っ張ってきたのは茶道部唯一の三年生、眞辺先輩である。物静かで優しくて、6名しかいないうちの部を一人で支えてくれている頼りになる部長であり、私の大好きなな先輩だ。
 そんな先輩が頭を下げているのだから、やれることはしてあげたいし力になりたい。……だけど、その頼みごが「彼」関連であるとまた話が変わる。

「本当に叶わなくていいんだ。ただ気持ちを知って欲しいだけだから。……変なお願いして本当にごめん」

 その素直な気持ちを本人に直接伝えたらいい。

 震える先輩の声と指が、喉元まで出かかっていた言葉を堰き止めた。

  

 

「……っ?」

 つん、と突然頬に触れた感触に驚いて体が大きく跳ねる。慌てて隣を見上げれば、眉を下げた幼馴染が微笑んでいた。

「なに考えてんの」
「別に、何も」
「あだなが一緒に帰ろうなんて言うの珍しいよな」
「……そうね」

 ぼうっとしていたのを取り繕うように髪の毛に触れる。くるくると毛先を弄べば、くすりと笑みを零す声が聞こえてきた。私の癖なんて疾うにお見通しで、なにを考えてるかなんて分かってるよ。まるでそう言われているみたいだ。
 だから嫌なんだ、この人といるのは。なにもかも見抜かれているような居心地の悪さはきっと他の人には分からない。
 
 ザク、ザクと砂利の小道を歩く歩幅の長い足は私に合わせて速度を落とす。彼はいつの間にこんなに背が伸びたんだろう。昔から大きい方ではあったけど、私とそこまで差があるわけでもなかったのに。急激に伸びた背丈の分だけ私たちの距離も離れてしまったように感じる。見上げなくては見えなくなってしまった彼の表情をちらりと覗き見れば、昔から整った顔立ちがにこりと微笑んだ。
   
「……なに」
「なにって、手」

 笑みの消えない彼の顔から目線を少しずらし下を見てみると、大きく開かれた手が私に向って差し出されていた。
  
「繋がねーの?」
「繋ぐわけないでしょう」
「前はよくそうして帰ったじゃねーか」 

 ジリジリと、消えそうで消えない炎が燻るように私の胸を焦がす。
 この人はどうしていつも昔の話ばかりするんだろう。そのたびに痛む私の胸はなんなんだろう。痛くて苦しくて、なぜだか喉の奥がつんと詰まる。
 朧気に見えた気がした昔の私たちの姿を振り払うように首を振って、大きな手のひらの上に自分の手を重ねた。
 
「これ、うちの部の先輩から」

 私の手と一緒にポンと乗っけられた物体に彰くんは目を瞠る。それをくるくるとひっくり返して宛名を確認すると、彼は首を傾げた。

「眞辺、絵理香さん」
「知ってる?」
「いや、わかんねーや」

 彼に渡したのは、先輩からどうしてもとお願いされたラブレターである。
 たまたま部活の前に体育館を通った先輩は、バスケをしている彼を見てあっという間に恋に落ちてしまった。というのは先輩本人から聞いた話だけれど、正直この手の話は色んな子から耳にする。一つに応えてしまえばキリがない。だから今まで誰からもこの手の「お願い」を受けたことはなかったけれど、今回は強くノーを言うことが出来なかったのだ。
 
「これ返事いるやつ?」
「あったら嬉しいだろうけど、先輩は気持ちを知って欲しいだけだって言ってた」
「……ふーん?」

 口元だけ笑みを残したまま、彰くんはそれを制服のポケットへ仕舞う。一見彼の様子に大きな変化はないようだけど、ほんの少しだけ機嫌を損ねているのが分かるのはきっと長い付き合い故だ。
 やっぱり受け取るべきでなかった。今さら後悔が過るけど、たぶん時間を戻せたとしても私は先輩のお願いを断ることは出来ないだろう。
 気まずさを感じた私はまた髪の毛に手を伸ばす。さらさらと手櫛で髪を梳かしていると落ち着く気がするのだ。
 
「あだなさ、もし俺が誰かと付き合ったらどうすんの」

 私の指に手を重ねて彰くんが髪を撫でていく。ゆっくり滑り落ちてきた大きな手は、まるで私がするみたいに毛先をくるんと弄ぶ。
 人にされているせいか、はたまた彼のよくわからない質問のせいなのか。自分が落ち着くためにしている癖のはずなのに、心は落ち着くばかりかどんどん心臓が乱れていく。
 
「どうする、って……」
「例えばこの先輩と俺がさ、付き合ったりしたらあだなは嬉しい? それとも困る?」
「……それは、」

 彰くんに彼女ができる。それはいつか必ず訪れる未来であることに私自身しっかり理解していたはずだ。

 それなのに、なぜか私は彼の問いに答えることが出来なかった。 

 


「うわ……最悪」

 鏡にもくっきり映っている目の下のクマを撫でる。メイクでもして隠せればいいんだけど、そんなもの学校にしていくわけにもいかない。せめてもの抵抗でいつもより多めに日焼け止めを塗りたくってリビングに行けば、お母さんの一言で私は更にゲンナリすることになる。

「なんで私が行かなくちゃいけないのよ」
「なんでもなにも、今に始まったことじゃないじゃない」
「嫌よ」
「またそんなこと言って。あちらのお母さんも困ってるんだから」

 なかなか寝付けずにクマなんか作った冴えない朝。気分なんて全く乗らないのに、お母さんから頼まれた私は渋々お隣のインターホンを鳴らした。

「名前ちゃん、ごめんね〜。あの子ったら全然起きなくて」

 名前ちゃんにしか頼めないのよ。どこかで聞いた台詞を彼と似た穏やかな笑みを見せながら話すのは、彰くんのお母さんだ。
 それに曖昧な笑みを返しつつ、聞かずとも把握している彼の部屋の方へと進んで行く。彼に聞こえるように態と大きな音を立ててドアを開けると、頭まですっぽりかぶっている布団が小さく動くのが見えた。思いっきりそれを引っ剥がしてやると、どう見たってぱっちり開いている目元がニヤリと笑った。

「やっぱり! 起きてるんじゃない!」
「はは、バレちゃった?」

 悪戯が成功した子供みたいな満足気な表情が腹立たしい。なんとなく気まずさを残した昨日の今日で、私は顔を合わせたくもなかったのに。

「信じられない。なんで寝たふりなんかしてるの」
「俺が起きなかったら絶対にあだなが来てくれるだろ」
「前にも言ったけど私は彰くんの便利屋じゃないの。用もないのに私を呼び出さないで」
「俺は呼び出してないぜ」
「屁理屈言わないで。一緒のことでしょう」

 小さい頃は嬉しかったけど、あまりに家が近すぎるのも問題だ。うちの親も彰くんのご両親も、私たちが仲の良い幼馴染だと信じて疑わないし、いつまでも子供だと思ってる。こんな風に当たり前のように互いの家を行き来する関係性がいつまでも続くわけがないのに。それこそ昨日言っていたように彰くんに彼女ができたら、そんな幼馴染きっと邪魔でしかないだろう。
 ハンガーに掛けてあった学ランをベッドの上に放ってやると、柔らかな笑みが返ってきた。笑ってないでちょっとは焦ったり申し訳無さそうにしたらいいのに。感じた苛立ちを彼にぶつけるのも不毛な気がして背を向けると、突然腕を掴まれ距離を詰められてしまった。

「クマできてんな。夜更かしでもしたの」

 私がさっきそうしていたみたいに彰くんの指が目元に触れた。
 あなたに言われた言葉が延々とリフレインして寝れなかったのよ。そんなことは言えるはずもなく私を見つめる瞳から目を逸らす。
 
「ちょっと眠れなかっただけよ」
「……へえ。そっか」

 なぜだか嬉しそうに口元を緩めた彰くんは、私の頭をぽんぽんと撫でるとなんの躊躇もなくパジャマを脱ぎ始めた。
  
「あ、あだな俺の着替手伝ってくれんの?」
「は……、え、……か、勝手に脱ぎ始めてなに言ってるの!」

 あわあわと口を震わせた私は、来たときと同じように大きな音を鳴らして部屋を出た。ちらっと見えた、昔とは違う筋肉のついた精悍な体つきに一瞬でも見惚れていたなんて悟られるわけにはいかない。


・  
「ホント最悪。……あり得ない」
 
 私の日常はどう考えたって幼馴染である仙道彰という男に翻弄されている。とくにここ最近はそれに拍車がかかっている気がするのだ。いつからそうなのか、昔からこうだったのか。こんなこと嘆いている今の時間さえ彼に支配されている気がして苛立ちを覚える。
 彼を置いて自分だけ先に学校に着いた私は溜息をひとつ零す。別に一緒に登校する約束をしたわけでもないし、彼を起こすという役割は果たしたはずだ。 

「……?」

 昇降口へ入り自分の靴箱へ手を伸ばした私は違和感を覚えた。いつもより重く感じる上靴を持ち上げると、中から何かが溢れ落ちていく。

「これ……」
 
 上靴の中に溢れんばかりに入れられていた砂を見て、私は暫くのあいだそこで呆然と立ち尽くしていた。

prev< return >next


- ナノ -