momentum+






Perfume of love


「あー、やべぇ。……死ぬ」

 ふらふらと部屋に入って倒れ込むと、大してデカくもなく平たいベッドの上の布団が俺の体を受け止めた。
 刺激的で充実している大学生活も、こうして寮の部屋に帰って来るとどうにも孤独感を煽る。疲れてくたくたになった体を引き摺って帰ってきても、食堂まで足を運ばないと温かい食事は出て来ないし、放っておけば洗濯物は山の様に溜まっていく。分かっていたつもりだったが、改めて親の有難みをひしひしと感じていた。
 やらねばならないことは沢山あるが身体が重い。ちょっと休憩してから飯食って、風呂入って……。なんて考えていればみるみる瞼が落ちてくる。
 ……限界だ、このまま寝ちまってもいいか。

「駄目だよ、寿くん」

 よく通る凛とした声が響いた気がして思わず顔を上げた。しかし目に映ったのは、しんと静まり返っている寮の一人部屋。当然ながら誰の姿も見えない。

「……わーったよ。起きりゃいんだろ」

 幻聴にご丁寧に答えて重い瞼をゴシゴシと擦った。だいぶ前にも似たようなやり取りをした気がする。こんなとこまでしっかり見張って無くてもいいのによ。
 勝手に出てくるアイツの幻影も幻聴も、今に始まったことではないが疲れた日が圧倒的に多い。今の生活にとっくに慣れた気がしていても、今の自分の日常にアイツが居ないことがこうして死ぬほど疲れた日にはどうにも堪えるのかもしれない。
 今頃アイツはどうしてんのか。目を瞑れば浮かぶ柔らかい笑顔を想いながら掛け布団を手繰り寄せた。こんなボヤけた残像なんかじゃなく、本物の笑顔を見りゃ一発で蘇る気がする。バスケやってたとは思えない華奢な肩を抱き締めて、髪の毛からほんのり香る花みたいなシャンプーの匂いを感じて、そんで柔らかくて張りのある太腿で膝枕なんてすれば最高だ。

「……」

 いつの間にやらアイツに見立てて布団を枕のようして顔を乗せていた事実に一気に恥ずかしさが込み上げた。
 ──何やってんだ俺、重症じゃねえか。

「……会いてぇな」

 ぽつりとそんな事を言ってしまえば、じわじわとその気持ちが染み込んで大きな形になってくる。前は当たり前の様に傍に居た。手を伸ばせば届く距離に居た。今も決して行けない距離では無いが、思い立って行ける程気軽な距離でもねえ。
 このなんとも言えない距離感が俺を惑わせる。今から行ってしまおうか、なんて気持ちが大きくなって体が疼く一方、ほんの僅かな時間の為にアイツに無理させてしまうだろうことを考えると急ブレーキがかかる。今日は平日、明日だって学校があるしバスケ部は朝練もあるだろう。夜中まで起きて待ってろ、なんて言える訳もない。
 無意識に口から出ていった溜息は思いの外大きなものだった。そんなに会いてぇのか、俺。……いや、会いたいだろ、普通。
 ベッドから見える殺風景な部屋をぼうっと眺めていると、机の端にある瓶に目がいった。アイツの誕生日プレゼントに買った香水だ。同じ香水を2つの選ぶから何事かと思えば、アイツは小さいサイズの方を俺へ押し付けたのだ。

「……ったく、つけねえって言ってんのによ」

 事実、持ち帰ってただの飾りの様に此処に置かれるだけになっていたこの香水に俺は初めて手を伸ばした。小さなボトルのキャップを取って、アイツがやっていた様にプシュッとそれを手首に振り掛けると、ふわ、と爽やかな香りが立ち込めた。
 瞬間、浮かんだのはこれを買った日のアイツの顔。ほんの少し頬を染めて、困ったように眉を下げて、潤んだ瞳で俺を見上げている。

 ──好きだよ。凄く好き。

 そう言った小さくて柔らかな唇まで鮮明に見える気がする。くるくると変わるアイツの表情は次第に艷やかなものに変わって唇からは甘い声が漏れて。俺の方へと伸びた手からはふわりと瑞々しく甘やかな香りが流れる。
 余りにもはっきりと蘇ってしまったあの日の行為は最早拷問みたいに自分の血を目まぐるしく沸騰させた。
 ──会いたい。抱き締めたい。それだけでは済まないほど、あの小さな唇に食い付きたい。何処に口付ければどんな反応をするのか、手に取るように分かるアイツの滑らかな肌を感じたい。
 会いたくて堪らなくて。それを必死こいて我慢してたんだろ。アイツの影を見たような気がして、気まぐれに手を伸ばした香水の香り一つ。それがこんなにも自分を揺さぶるだなんて思いもしなかった。
 匂いが記憶に結びつく。そんなもん分かんねえ、なんて言ったが、アイツの言った言葉の意味を今はっきりと体感してしまったのだ。

「どうしてくれんだよ、馬鹿野郎」

 どうにもならなくなってしまった自分の体を見下ろして、布団の中へ飛び込んだ。
 手首から離れないアイツと同じ香りが再び脳を擽る。まるでぴったりとくっつくくらい傍に居るみたいに近く感じるのに、当の本人の姿形はない。抱き締めたくても抱き締められないアイツの幻影を想いながら、

「今度会ったとき覚えてろよ」

 なんて独り言ちた。



 あれから小さな荷物が一つ増えた。小さな香水のミニボトルはダッフルバッグのサイドポケットの中が定位置になった。練習や試合の時につけることは出来ないが、キャップを外せば仄かな香りが呼び起こす。

 ──この香りがしたら名前と一緒にいるみたいだって……思って欲しい。

 ほんの少しだけ唇を尖らせて、不安気にそう言ったアイツの顔にパッと笑顔が咲いて見える気がする。
 どうすることも出来ないアイツとの距離が少し縮まる。近くに感じればまた今日も頑張れる。らしくもないちょっとした御守代わり。

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