momentum+






20.Another fate


 長い坂道を転げ落ちるように下っていくと薄明かりの中に歩く人影が一つが見えた。

「流川っ!!」

 外灯の頼りない明るさで顔ははっきりしなくとも、あの背の高い後ろ姿は彼以外にいない。ゆっくりと此方を振り返って見えたポーカーフェイスに心の底から安堵した。

「どうした」
「二見屋くんが……!」

 ゼイゼイと息を切らしながら、流川の背中へ隠れるようにして恐る恐る後ろを振り返った。必死になって駆け下りてきたマンションまで続く緩くて長い坂道。いつも通っているこの道がこんなにも不気味に見えたことはない。

「あれ、……居ない」

 どれだけ目を逸らしても、私を追ってきていた人の姿が見当たらない。薄明かりに照らされた坂道がマンションまで伸びているだけだ。
 はっきりと足音が聞こえていた。どんどん近付いてきて、私のすぐ真後ろまで来ている気配だって感じたのに。

「寝ぼけてんのか」
「まさか、そんなわけ……」

 怖いなんて思っていたから変な幻覚か夢でも見たのか。……まさか、あんなリアルな夢見るわけがない。私、好きだって言われた。寿くんや流川のことだって言ってて、鍵だって──。
 私の右手にはハートのキーリングが付いた鍵がしっかり握られていた。強く握りすぎたせいで指にくっきり跡がついている。

「玄関前まで送ってやる」

 手のひらを見つめたまま立ち尽くしていた私は、流川に促されてふらふらと歩き出した。
 ねぇ、心臓がまだこんなにも煽ってる。無我夢中で走った足だって震えてズキズキ痛む。夢なわけない、ありえない。だってはっきりと覚えてるよ、私を追い詰めてきた二見屋くんの初めて見る怖い顔。同じクラスで隣の席。たくさん話すことはなかったけれど、彼は私にとって「優しくて良い人」だった。だけど、私に見えていたのは本当に彼の一部分に過ぎなかったのだ。

「……ごめんね」
「何が」
「もう時間も遅いのに何度も手間かけちゃって」
「……別に」

 いっそ全て夢だったならどれだけ良かっただろう。
 さっき出来事がいくら信じ難くとも、当の本人の姿がこつ然と消えてしまっても。揺らぐことなくあれは現実なのだと私の心が言っていた。
 寧ろ、私の手をしっかりと引いてくれているこの大きな手の方が夢みたいだ。

 一人で歩けるよ。そう言えばいい、振り解いてしまえばいい。こんな風に彼の優しさに甘えているから二見屋くんにも勘違いされてしまったのではないの。
 決して解けない力ではないのに私にはそれが出来なかった。だってこの温もりが今はとても安心する。離してしまうのが怖い。
 非常時だから、というのは言い訳で自分がとても狡いことをしているのは気付いていた。

「流川、優しくなったよね」
「別に。優しくなんかねー」
「そんなことないよ。前だったら頼まれてもこんなことしなかったでしょ」

 元々彼が言い出したことではあったけれど、昔の流川ならここまできっちり私の送り迎えをしてくれただろうか。バスケ部二年のメンバーで交代だけれど、その大半を流川が担ってくれていたし、朝だって遅れてくることは一度もなかった。

「ありがとう。流川が居てくれて良かった」

 また出てきそうだった謝罪の言葉を引っ込めてそう結ぶと、私を握る手に更に力が籠もる。

 ──今だけなら、いいよね。

 脳裏に浮かんだ笑顔に気付かないふりして、絡まる長い指に自身の指を重ねた。
 外灯が作った二つの長い影は、ぴったりとくっついてまるで恋人同士が歩いているみたいだ。珍しく車もすれ違う人さえも居なくて、今のリアリティの無さを際立たせた。手を離してしまえば途端に現実に戻ってしまう気がして、折り重ねた指を手繰り寄せる。
 ひとつ足を踏み出すごとに近くなるマンションのシルエットに次第に足が竦んでいく。僅かに震えた指に気づいたのか、足を止めた流川が私の肩を抱き寄せた。

 ──これ以上はダメだ。

 分かっていても、逃れようとは思わない。背中や肩から伝わってくる彼の熱が私に安心感を齎せてくれるから。 地面に伸びた影が一つに重なっていく様が薄惚けていく。あと少し、もう少しだけ。自分に言い聞かせながら、耳元に心地良く響く鼓動を感じ続けた。
 どれくらいそうしていただろう。まるで時が止まっているかのような静寂を一つの音が破る。後方から走って来た車のヘッドライトが私たちを照らした。
 そして、離れた二つの影に割って入るように、もう一つの影が突如現れたのだ。

「……や、やめてっ!!!」

 咄嗟だった。なにかを振り翳して襲ってくるそれが、何者であるかなんて考える前に体が動いていた。庇うように前に飛び出して見えたのは、鬼みたいな形相のクラスメイトだ。
 怖くて堪らなかったのに、今は不思議とそんな感情は消えていた。私めがけて落ちてくる刃物の先端を見ながら、思い出していたのは昔のことだった。
 私ってば後先考えずになにしてるんだろう。一度ならず二度……うんう、三度目だ。いい加減にしろって、怒られちゃうかな。

 ──名前!

 私を呼ぶ、二つの声が聞こえた。




「信じられない」

 顔を覆い隠した彼女から鼻をすする音が聞こえる。「ごめんなさい」なんて簡単に吐ける台詞を言うのは気が引けるけど、他に言いようもなく深く頭を下げた。

「今になってなに言ってんのよ。あとで聞かされる身にもなりなさい」

 彼女が言うことは尤もで、反論なんて出来るはずもない。私に出来ることは、いつも気丈な彼女の震え声に静かに頷くことだけだ。続け様に言われた通り、「無事だったからできる話」なのである。

「アンタは本当に良かったの、二人のこと」
「泣き崩れる姿を見ちゃったら、それ以上どうしていいか分からなくて」
「……まぁ、半年近く経ってなにもないのならそれが答えなのかもね」

 カラン、と涼しげな音を立ててグラスの中の氷が崩れた。テラスがよく見えるこの席は日射しがよく入る。光を注ぐ空は綺麗なネイビーブルーに大きな入道雲を泳がせていた。
 一段と大人っぽくなった先輩の横顔を見つめながらあの夜を思い返す。彩子さんはああ言ったけれど、私は未だにあの日の答えを導き出せてはいない。

「よう、久しぶりだな」

 沈黙を破った人は当然のように私の隣へと腰を掛けた。女性ばかりのカフェの中に現れた如何にも男らしくそれでいて端正な顔立ちはかなり目立つ。けれど本人はさしてそれを気に留める様子はない。それよりも自分が登場するなり顔色を変えた向かい側の彩子さんが気になる様だ。

「……なんだよ」
「今聞いたんですよ、この子と先輩のストーカーのこと」
「あいつはストーカーってのとはちょっと違うだろ」
「一緒ですよ。二人を別れさせるために仕組んでたわけでしょ。どっちかと言えばそっちの方がたちが悪いわよ」

 席に着くなり始まった「あの日」の話に、寿くんは決まりが悪そうにボリボリと頭を掻いた。
 今の私を見てくれたら言わずとも分かると思うけれど、結論から言えばあの日、二見屋くんが振り下ろした包丁が私に傷をつけることはなかった。
 私はいつの間にか流川に抱き留められていたし、肝心の凶器も彼の手を離れて地面に転がっていた。

「まぁでも良かったですけど。先輩が行かなければこの子も危なかったみたいだし」
「樹里が来なかったら戻ることはなかったからな」

 ……そう、あの場にタイミングよく来てくれた寿くんが二見屋くんを止めてくれたお陰で私は難を逃れた。勿論、茨城へ戻った寿くんが戻って来てくれたのには理由があるわけで、それは今話に出た樹里さんの存在だった。
 あの場に寿くんと共に現れた彼女は、泣き腫らした真っ赤な目でこう言ったのだ。──私のせいなの。

「いつでしたっけ。インカレのときですよね、二人が接触したの」
「初日だな、ちょうどこいつ等が観に来たとき。っつーか、名前の後つけてたから居たわけだろ」
「そっか、それで翌日から私たちが部活見に行くことになって……。つまりは私にも止めるチャンスはあったわけね」

 大きな溜め息を吐きながら顔を覆い隠した彩子さんに、寿くんが首を横に振る。気付くなら私が真っ先に気付かなくてはいけないことだったし、その頃は私たちも其々それどころではなかった。
 だって誰が思うだろう、私の後をつけていた二見屋くんに樹里さんが接触するだなんて。そして彼女が二見屋くんに、「寿と付き合っているのは私だから、名前ちゃんを説得して欲しい」──なんて言っていただなんて、想像だにしなかったのだ。

「だけど、こんな大事になると思わなかったから助けて! ってのもどうかと思うけど」
「まーな。アイツが余計なことしなきゃ起きなかったコトかもしんねーし。まぁ黙って逃げられるより余っ程良かったけどな」

 グラスを口につけると冷たい苦みが喉を通る。普段はブラックを頼むことはないけれど、今日は甘ったるいものを飲む気分ではなかった。カフェインを入れてもシャキッとしない頭を振って、幾度も考えたことを思う。私はどうすべきだったのだろう。
 始まりは、中学の入学式。私は認識してはいないけれど、二見屋くんとの出会いはその日だった。
 所謂一目惚れで始まった恋は、彼の中でどんどん大きく膨らんでいき、後をつけたり隠し撮りという行き過ぎた行為に発展していった。けれど私に寿くんという存在が出来ても、想いを告げるつもりも押し付ける気持ちもなかったと言うのだ。インカレの日に樹里さんに話かけられるまでは。
 その後のことは、私たちが知っている通りである。私を救ってあげようという想いは歪み、募りに募った想いは爆ぜてしまった。

「名前の同級生の方は退学して県外に引っ越して……、樹里さんも遠くに引っ越したんですよね?」
「大学も親の都合で行けなくなったし、元々そうするつもりだったらしいけどな。父方の実家がある九州に行ったって聞いてる」
「……そうですか」

 納得いかない。口には出さないけれど、彩子さんがそう思っているのがよく分かる。
 警察に通報する。その選択は何度も頭に過ったし、寿くんたちからも言われた。けれどどうしても、私にはその決断を下すことは出来なかった。
 ほんの少しだけ、分かってしまったから。あの二人の気持ちが。

 右手に絡んだ指をきゅっと握る。いつだって私を安心させてくれるこの手が届かなくなってしまったら、私だって自分がどうなってしまうか分からない。

「そもそもアンタたちの三角関係の方を心配してたのにね。こんなことになってるなんて、」
「悪かったな。流川の方も特に問題ねーよ」
「……そうですね、それに今日は──」

 彩子さんの言葉を掻き消すように、どこからかカラン、と氷が崩れる音が聞こえた。すっかり氷が溶けてしまった手元のグラスを揺らし口へ運ぶと、薄惚けた味が口の中へ広がった。やっぱりココアにしておけば良かったかもしれない。
 相変わらず冴えない頭は、再びあの日へと舞い戻る。 何度こうして思い返しても、何度こうすれば良かったと嘆いても。あの日、あのとき、私の傍で守ってくれた人が彼で良かった。
 それだけははっきりと、揺らぐことなく言える私の答えだった。




>August.

 夜になっても暑さが和らぐことのない、夏真っ只中のこの時期が私は嫌いではない。滴り落ちていく汗のせいでTシャツは肌に張り付くし、綺麗にセットした髪の毛もすぐに崩れてしまってげんなりすることも多いけど、私にとってこの時期は特別な思い出が多いから。
 バスケの大会は夏だけではないけれど、やっぱり二年前の夏は私の中で色濃く残っている。そのときは赤木先輩たちが引退して、その次は私たち。……そして、今年は名前たちの代にあたる。
 一つの節目でもあるこの時期に、彼が旅立っていくのはなんとも胸にくるものがあるのだ。


「おい、流川。てめー何してやがる」

 席に案内されるやいなや、名前の手を引っ張って隣に座らせた流川に、案の定三井先輩の鋭い視線が注ぐ。

「今日くらい別にいいだろ」

 それをものともしないところが彼らしいと言える。先輩に睨まれようがどこ吹く風。彼の隣でおろおろしながら三井先輩を見上げる名前とは随分と対照的だ。
 いつもならば引っ叩いて嗜めるところだけど、今日ばかりは彼の主張にも頷ける。

「確かに、今日で最後なんだし。──ねぇ、三井先輩」
「……好きにしろ。俺は別にそんくらいでヘソ曲げたりしねーからよ」

 そう言いながらも先輩の口は不機嫌そうに歪んでいた。この分かりやすすぎるヤキモチも、狼狽える名前の表情も何年か前に水戸って子と揉めてたときと全く一緒だ。二人共、「あれから流川とは特になにもない」なんて言っていたけど、本当に揉めずにやってこれたのだろうか。
 流川に肩入れするようなことを言ったことにちょっぴり後悔しつつも、どことなくいつもより緩んで見えるポーカーフェイスに肩の力抜いた。皆でこんな風に会えるのはきっと今日が最後だ。
  名前と三井先輩とカフェで会ったあと、私たちはそのまま三人でこのお好み焼き屋でバスケ部のみんなと合流した。ここに居るのは二年前、共にインターハイに向けて戦った懐かしいメンツである。今日集まった理由は勿論、流川の留学を祝してだ。
 其々の元にドリンクが届くと、赤木先輩の声を合図に皆が一斉にグラスを掲げた。小気味いい音が響くと、一気に座敷席が騒がしくなる。

「見て、焼けた! 我ながら上手じゃない? 流川、食べるよね」
「熱そうだから後でいい」
「ねぇ、なんで猫舌なのにお好み焼き屋にしたの」
「俺が決めたわけじゃねー」
「流川がメインなんだからもっと意見言えば良かったのに」
「別に俺は何でもいい」

 ぶつぶつ言いながらも、取り分けてやったお好み焼きを少し冷ましてから名前は流川の前へ置いた。「彩子さんのも取りますよ」と言う彼女からの申し出に、有り難く頷いて小皿を差し出した私は、斜め右隣へと目を向ける。
 私、ヤッちゃん、流川、名前が囲むテーブルの隣には、心中穏やかでなさそうな三井先輩が鎮座していた。彼はきっと何でもない様に振る舞っているつもりだろうけれど、グラスを傾けるその表情は誰がどう見ても仏頂面だ。

「三井さん、ビールでも飲みます? 可哀想だから俺が一杯奢ってあげるよ」
「てめーらに同情される覚えはねー」
「痩せガマンすんな、ミッチー。この烏龍茶は天才からの奢りだ!」
「だから痩せ我慢なんかしてねーっつーの! だいたいお前はどうせ金持ってねーんだろ!」

 案の定と言うべきか、リョータや桜木花道にまんまと誂われてしまっている三井先輩は、口をヘの字に曲げながらも押し付けられた烏龍茶に口を付けた。

「……っかやろう! これ酒じゃねーか!! 桜木、てめーはまだ未成年だろ!」

 ワハハ、と大きな笑い声を木霊させた桜木花道に大きなたんこぶを作った張本人は、それから二時間もしないうちに突然床に突っしてしまった。原因は凝りもせずリョータたちが飲ませたアルコールだ。



「三井さん、酒弱かったのな」
「まだ成人したばっかなんだから、そもそもそんな慣れてもないでしょ」
「そうだけどさぁ、なんか如何にもって感じ」
「アンタはなんか強そうだもんね」

 大きなイビキをかく背中にショールをかけてやると、いつもと違うあどけない寝顔が見えた。
なんとなくだけど、リョータが言うことも分かる。この人は根っからお酒が得意ではなさそうだ。しきりに心配そうに三井先輩の方を見ていた名前も、同じように思っていたのかもしれない。

「名前は?」  
「さっき流川が外連れてったよ」
「は?!」

 通りでいくら座敷を見渡しても見つからないわけだ。リョータの首根っこをつかんで詰め寄ると、ギクリと青褪めた顔が私を見上げた。

「アンタね、見てたなら止めなさいよ」
「アヤちゃんも言ってたでしょ、今日で最後なんだしちょっとくらい二人っきりにさせてやってもいいじゃん」
「リョータ、アンタまさかそのために三井先輩に……」
「まさか、そこまで想像できないって!」

 確かに言ったわよ。でもそれはあくまで私たちの目の届くところだから良いわけで。
 あれから流れた半年という月日。その間にこの三角関係がどう変わったのか私たちは知らない。三井先輩と名前が揃って大丈夫だと答えた通り、今の彼らからはギスギスとした気不味い空気は感じない。けれど、私たちを巻き込むほどの修羅場は確かにあった。最後の最後である今日、同じような修羅場が起こらない保証はどこにもないのだ。
 店の中と違ってクーラーの効かない外の空気は生ぬるくてお世辞にも快適とは言い難い。店を出るなり纏わり付いてきた湿気にパタパタと手で扇ぎながら辺を見渡すと、道路を挟んで反対側のガードレールに腰を掛けるようにして並んでいる二人の後ろ姿を見つけた。
 近くもなく遠くもなく、中学の頃と何ら変わらない距離に身を置く二人の姿に、私はホッと胸を撫でた。 

「なんかあっという間だったよね。特に三年生になってから、一瞬で夏が来ちゃった感じする」

 さわさわと風が木々を揺らす音に紛れて名前の声が小さく聞こえてきた。

「こんなに早く、この日が来るなんて思ってなかったなぁ」

 昔を懐かしむような声色とと共に彼女は上を見上げた。「今日で最後」自分でも口にした言葉が胸を締め付ける。本当に今日が最後なんだ、ああして並んで話す後輩二人の姿を見るのは。

「もう、一人で喋らせないでよ」
「おめーが勝手に一人で喋ってんだろ」

 顔を見合わせた二人の方から聞こえてきた小さな笑い声は、やがて鼻をすする音へ変わった。小刻みに肩を揺らす名前が泣いているのは一目瞭然で、思わず伸ばしていた私の右手の代わりに流川が彼女の背中をさすっていた。

「ごめん……。泣かないつもりだったんだけど」

 流川が名前の涙を指で掬う。なんだかとてつもなく不思議な光景だった。
 もしかしたらこの二人が付き合うという未来もあったのかもしれない。想像したことすらなかったけれど、今の二人はそう見えなくもないのだ。なにかが少しでも違っていたら、名前は流川の隣にいることを選んだかもしれない。
 けれど、きっとなにがあろうと今日という日は訪れていた。流川が留学しないという未来が、私には想像が出来ないから。

「名前」
「……ん、」
「笑って」
「こんなときに笑えないよ」
「俺はお前が笑ってた方が嬉しい」

 流川ってこんなこと言えるんだ。こんな穏やかな声が出せるんだ。驚きよりも、そのギャップに私ですら危うく一瞬ときめいてしまいそうだった。言われた本人は一体どんな気持ちになるだろう。
 涙を流したまま流川を見上げた名前はぎこちなく笑顔を作った。

「変な顔」

 さっきとは真逆のノーデリカシーな台詞に思わず天を仰ぐ。なに言ってんの、コイツ。いや、それが流川だけど。だけど……!!

「もうっ、流川が笑ってって言うから……っ」

 大きく胸を叩いた名前の言葉を堰き止めた流川の行為に息を呑んだ。

 ──いい加減にしなさい! いつものようにそう止めに行くべきだったのだろうか。覗き見てしまった後ろめたさ。旅立ってしまう彼への哀愁。一瞬にして色んな感情が湧き出てきたけれど、地面に根を張った足が彼らのもとへ駆け寄ることはなかった。

「────」

 きっと数十秒にも満たない。二人の唇が離れると、魔法が解けたみたいに私の足も動き出した。

 そっと閉じたドアの向こうに残像が残る。彼女の耳元でなにか囁いた、いつも生意気な後輩の初めて見る優しい眼差し。

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