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19.Perversion


「寿くん、カップ取って」

 場所を言わずとも出してくれたコーヒーカップにお礼を言いつつ小さく首を傾げた。私が出してほしかったのはこれの右隣にあったカラー違いの二客だ。

「これじゃないよ。私のはピンク」
「そうだったか? 飲めりゃなんでも良いだろ」
「そうだけどさ。毎回同じの使ってるんだから気付いてよ。ちなみに寿くんのは黒」

 私が出したピンクと黒のカップと見比べて、寿くはそれはくっきりと濃い眉間皺を作った。彼にとっては至極どうでも良いことなのだろう。確かにカップならばどれでも飲むことは出来るけれど、これは私の小さな拘りだったりする。
 それはこうして一緒にキッチンに並んでる今の感覚に似ているかもしれない。朝食を一緒に用意して、お揃いのカップで珈琲を飲む。何と言うか、同棲の疑似体験でもしているような感覚なのだ。完全に浮かれて舞い上がっているけど今は大目に見て欲しい。中距離恋愛中にこんな気分を味わえることなんて滅多にないのだから。

「これトースターに入れればいいのか」
「うん。お願いします」

 寿くんがクロワッサンをトースターに入れるのをぼんやりと見届けながら彼の腕に手を絡めた。このままこんな時間がずっと続けばいいのに。そんな叶うはずもないことをついつい考えていると、トースターの中からちりちりと香ばしい音と匂いが流れてきた。

「待って! 温度も時間もマックスでやったらクロワッサン焦げちゃうじゃん!!」
「焦げる前に出しゃいいじゃねーか」
「そういう問題じゃないよ!!」

 ダイニングテーブルに並んだのは焦げかけのクロワッサンと簡単に作ったサラダと珈琲。私には十分だけど寿くんには少し物足りないかもしれない。他にも何か持って来ようかと聞く前に早々にいただきますをした寿くんがクロワッサンに食らいついた。

「こんくらいしっかり焼けてる方がうめーじゃねえか」
「まだ言ってるの。私が止めなかったら黒焦げだったよ」
「俺もあのタイミングで出そうとしてたんだよ」
「それ本当?」
「あたりめーだろ」

 自信満々に言ってのけた寿くんは一つ目のクロワッサンをあっという間に平らげた。寿くんのこういうところが私はすごく好きだ。いつか本当に二人で一緒に住むことになっても、きっと毎日楽しいだろうなと思う。
 そんなのもっともっとずっと先のことだし大人になっても私達が一緒にいるかは分からないけど、少なくとも私は寿くんと居たい。その時もこんな風に一緒に朝食を食べながらどうでも良いことで笑い合っていたいと思う。

「何ニヤついたんだ」
「別に。幸せだなーと思っただけ」
「元気出てきたみてーだな」
「お陰様で」

 寿くんが此方に来てくれてまるっと二日が経っていた。食事も普通にとれるようになったし、完全復活したと言っていいと思う。心身ともに元気な状態に戻れたのはきっと寿くんが居てくれたからで、彼の存在は私にとってパワーの源みたいなものなのだと熟思う。

「学校行くのか」
「うん」
「暫く休んだほうがいいだろ。犯人も分かってねーんだし」

 寿くんがそう言うのは最もだし予想もついていた。「でも」と言葉を切った私はクロワッサンを齧って真っすぐ私へ向く視線に合わせた。

「……ずっと一人で家にいたら頭おかしくなりそう」

 言い終わる前からじわじわ険しくなり始めた寿くんの表情から気まずくて顔を逸らした。

 いや、分かってはいるよ。思い詰めすぎて倒れて、思いっ切り周りに迷惑をかけてしまった私が何を言っているんだと寿くんが思っているのは。だけど日中誰も居なくなってしまう家に一人で居たら、それこそ良からぬことばかり考えてしまいそうなんだもん。

「何かあったらどーすんだよ。俺もう帰るんだぞ」
「絶対一人にならないように気を付ける。友達とか、部員のみんなとか、常に誰かと一緒に行動する」
「それは前もやってたんだろ」
「そうだけど……」

 確かに、前と同じ対策だけでは足りないかもしれない。けれどこれ以上何かやるにしたって限度がある気がする。休むにしても区切りをつけなくてはいけないし、身を守るにしてもやり過ぎたら返って目立つ。結局は犯人が分からないことには何も解決しないし、いつも通り動くのが一番な気がするのだ。

「大丈夫。寿くんからパワーいっぱい貰ったから」
「んなもん、パワーでどうにかなるもんじゃねーだろ」 

 勿論それは重々承知しているし無茶をするつもりもない。両手を合わせて拝むように見上げると、寿くんは諦めたように小さなため息を零した。




 
 ──大丈夫?

 今日何度となく聞いた問いかけに眉を下げる。

 大丈夫だよ、平気。無理なんてしてないよ、いっぱい休んだんだから。そんなやり取りを朝から何度もしているけれど、有り難いと言うべきか一向に減る気配がない。

「手、止まってるよ。体調悪い?」
「大丈夫。ごめんね、ぼうっとしてた」

 シャーペンを握り直して書きかけの学級日誌へと視線を戻す。日付と日直の氏名、一日の学習の記録やその他諸々。否が応でも現実を知らしめてくれる係を休み明けでやる羽目になったのはちょっとした不運だった。

「ねぇ、四限目って何やったっけ」

 丁寧に黒板を拭き上げていた男子は私の言葉に目を丸くした。私へ真っすぐ向く視線が気まずくて思わず目を逸らしてしまったのは今日二度目である。

「僕が書くよ」

 隣の席の二見屋くんは穏やかで優しいタイプの男子だ。彼が日直の相方だったのは不幸中の幸いだと言える。学級日誌もまともに書けないのかと怒られても仕方がないのに、文句一つ言わない彼に改めてお礼を言った。
 寿くんと別れて元気に登校して来たけれど、その勢いは長く続かず昼前にはエネルギー切れの状態だった。寂しいとか怖いとか感情の問題ではなく、暫く食事なんかを疎かにしたいたツケが回ってきたのだと思う。体力がすっかり落ちてしまったのだ。

「まだ体調悪いなら休んでたら良かったのに」
「悪くはないよ。ちょっと気が抜けちゃったと言うか」 
「名字さん、昔からちょっと抜けた所あるもんね」
「それ、本当によく言われる」

 休み明けだというのを言い訳にしても、何の授業をしたか覚えてないのはかなりヤバイ。ぽわっと浮かんできた寿くんの顔は呆れ顔で口をへの字に曲げている。今の私を見たらきっと怒るだろう。俺にパワー貰った、とか言ったくせに一日も経たずに何やってんだ。……うん、きっとこんなことを言われるに違いない。

「……あれ」
「ん、何か間違えてる?」
「あ……うんう。何でもないよ」

 無意識に出ていた声を慌てて否定すると、二見屋くんは首を傾げたもののその視線を再び下へと向けた。寿くんの怒った顔が小さく消えていくにつれて浮かび上がってきたのは一つの違和感だった。すらすらと綺麗な文字を作っていく彼の左手を見つめながら、さっきの会話を反芻した。

 ──名字さん、昔からちょっと抜けた所あるもんね

 別に何も気にすることのない普通のやり取りだ。それなのに彼の言葉に違和感が残ったのは、言うほど彼との付き合いが長いものではないからだ。

「僕が持っていくから帰っても大丈夫だよ」
「……うん」

 些細な言い回しの違いだ。そうは思えど一度気になると違和感はどんどん広がっていく。向けてくれている優しい笑顔に申し訳無さを感じるのなら、考えるのを止めてしまえばいいと思うのに。
 ……ねぇ。二見屋くんは私のこと昔から知ってるの? 思い切って聞いてしまおう。開いた口が言葉を発する前に「おい」と低い別の声が割り込んできた。私と目が合うなり顎で指示をしてきたのは、「迎えに来てやったんだからさっさと部活行くぞ」と言いたげな流川だった。

「ごめん流川、もう少し待って」
「名字さん、大丈夫だよ。もう書き終わるし」
「でも」
「僕が持っていくってさっきも言ったでしょ。迎えに来てくれたんだから早く行ってあげて」
「……ありがとう。お願いします」

 丁寧に頭を下げれば穏やかな笑みが返ってきた。なぜだか後ろ髪を引かれるのは、きっと心に残った罪悪感と晴れないモヤモヤのせいだ。


「……二見屋くんてさ」
「ふたみや?」
「さっき居たでしょ。私と一緒に日直してた」

 流川は長々と間をあけたあと「あぁ」と一言返した。まだ教室から離れてそれほど歩いてないのに、そんなに考えなくちゃいけないほど記憶に残らないものだろうか。

「アイツがどうしたんだ」
「もしかしたら彼も富中だったのかなって気になって」

 あの時本人に聞かなくて良かったのかもしれない。彼の答えがイエスでもノーでも、その後の反応に困っていたと思う。
 二見屋くんのことをあまり覚えてなさそうな流川の答えはほぼ決まったようなものだと思いつつ、返ってきた答えに私は目を見開くのだった。

「中一のとき同じクラスだった」
「本当に?」
「たぶん」
「その割には名前も覚えてないみたいな感じだったじゃん」
「話したことねーしそんなもんだろ」
「……そっか」

 なにか釈然としないけれど、少なくとも心にあった靄は薄くなった。

「よかった。なんか私のこと昔から知ってるみたいな口ぶりだったからちょっと怖かったんだ」

 同中なら知っててもおかしくないよね、クラス被った記憶ないし私は覚えてなかったんだけど。そう続けて胸を撫で下ろした一方で、流川は僅かに眉を顰めた。



「……あれ」

 ポケットから出した鍵でエントランスのロックを解除する。最早当たり前になったいつもの動作が出来ずにドアの前でストップしたのは此処に引っ越してきて初めてだった。

「……嘘でしょ。絶対持ってた」

 何度ポケットの中を探っても、鞄の中をひっくり返しても目当ての物は出てこない。元々綺麗好きなタイプである故、整理された荷物の中に家の鍵がないのは一目瞭然だ。
 最悪、共同スペースであるエントランスのドアは暗証番号で解除することはできる。けれど肝心の鍵がなければ自分の部屋には入れない。ママが帰ってくるまで部屋の前で待つことになりそうだ。

「どうしよう……」

 まだ暖かいとは言い難い時期ではあるけど、待っていればママは帰ってくる。けれど問題なのは寿くんとのお揃いのキーリングが付いた鍵の在処だ。今朝寿くんと一緒に出る時に持っていた記憶はしっかりある。
 行き帰りで落としてしまったのか、それとも学校か。何にしたってあんなに大事にしていたものを失くしてしまうなんて何をやっているのか。タイムマシンがあるのなら今すぐ寿くんが居た朝に戻して欲しい。……出来るわけないけど。
 とりあえずは出来ることをしよう。送ってくれた流川に電話して帰り道に鍵が落ちてないか確認してもらって、私はマンションの共有スペースを探してみよう。申し訳ないな、と思いつつ胸ポケットに手を伸ばしたときマンションの玄関ドアに人影が映る。
 ホラー映画を見たとき以上に心臓が跳ねたのは、明らかにマンションの住人でない人物が入って来たからである。

「……ど、どうしたの二見屋くん」
「名字さん忘れ物してたから」

 穏やかな笑みは今までと何一つ変わっていない筈だ。けれどどうにも怖くて無意識に足が後退りしていく。
 きっと青ざめているだろう私の顔が見えていないわけないのに、二見屋くんはどんどん距離を詰めてくる。ロックがかかったエントランスのドアに背がぶつかると、二見屋くんはハートのキーリングがついた鍵を私の目の前に差し出した。

「……ありがとう」

 手元に戻ってきたキーリングを握りしめながら、今にも聞いてしまいたい言葉たちをぐっと呑み込んだ。
 何で私の家知っているの? 帰ったんじゃなかったの? 何処に鍵があったの? ねぇ。もしかして貴方なの……?

 薄くなっていた筈の靄は深い疑惑の色を濃くしていた。手を伸ばされたら届く距離。消えない笑みが貼り付いたお面みたいで怖い。

「僕さ、名字さんのこと好きだったんだ」

 何の脈絡もなく発した言葉に疑問と恐怖しか沸かなかった。……何で? いつから? ……私達そんな関わりなかったじゃない。

「あ……ありがとう。でも私には」
「浮気、してるよ。彼氏」

 浮かぶ疑問は何一つ口から出すことは出来ず、震えた私の声に割り込むように二見屋くんが言葉を続ける。

「僕、教えてあげたでしょう。早く別れたほうがいいよ」

 この言葉に浮かび上がったのは寿くんと樹里さんが抱き合った写真が入った白い封筒だ。

 雪の日に押したのも、ビルから植木鉢を落としたのも。手紙も、気味の悪い写真も、全部彼がやったのだ。 

「三井先輩とか流川くんとか。名字さんが顔のいい男が好きなのは分かったけど、もう少し中身を見たほうがいいと思うなぁ」
「…………分かった。ちゃんと考える」

 どう言えば彼が納得して帰ってくれるのか。どうしたらこの場から逃げられるのか。必死で考えを巡らせながら、がくがく震える足で何とか立っている自分自身に驚いていた。
 きっとこのままエントランスを開けたらダメだ。誰か来るのを待ったほうがいいかもしれない。それとも今から外に走れば、さっき別れた流川に追いつくことが出来るかもしれない。じりじりと少しずつ横に移動しながら二見屋くんと距離を取る。

「何処行くの。家、帰らないの?」
「……二見屋くんこそ」
「何かあったら危ないから名字さんがエレベーター乗るまで見てるよ」

 必死になって離れたのに軽々と一歩踏み込んだ二見屋くんに再び距離を詰められてしまった。このままではマズイ、逃げなくちゃ。マンション前の道に大きなトラックが通り、二見屋くんの視線が逸れた瞬間、私は外へと駆け出した。

「名字さん!」
「……っ!!」

 階段を駆け下りるときに踏み出した左足に痛みが走る。それでも無我夢中で帰って来た道を戻った。

 嫌だ私を追う足音がどんどん迫って来る。 助けて、誰か! 誰かお願い……!

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